第二十五話 支離滅裂な君へ篇ーーその二
その言葉に、ゾンビ嬢は青年から視線をそらしたまま、そっと首を横に振った。
ゾンビ嬢は、吸血鬼の「ちょっとおかしいところ」に気づいていた。気づいていて、青年にそれは伝えられていなかった。かつて交わした会話からして、人魚も気づいていたのだ。吸血鬼の「ちょっとおかしいところ」に気づいていないのは、吸血鬼の上品な献身ぶりを信じ込んでいる、純粋な青年だけだ。
吸血鬼は人魚の失踪関係とは関係なしに、元からずっと、青年に特別甘い。その事実自体についてはもちろん青年だって気づいているだろうが、その理由については、このまだ未熟な子は考え至っていないのだろう。きっと、自分が館の住人の中で一番若いから、とか、モンスターばかりの環境に放り込まれたかわいそうな人間だから、とか、そういう風に解釈しているに違いない。
けれど残念ながら、そういう理由ではないのだ。少なくとも、ゾンビ嬢はそう考えている。だいたい、青年が自覚していないだけで、この子もまたモンスターであるのだし。そう、青年の正体について問うのを先延ばしにし続けている……というか、あれにはもう問うつもりすら永遠にないのだろうと思われるのも、吸血鬼の「ちょっとおかしいところ」が由来している行動なのだ。
それは、ゾンビ嬢が肌で感じているところ。最近で言うなら、火事になりかけた大食堂に人魚と一緒に水を撒いて、そのあたりをちょっと水浸しにしてしまったときに、その傾向は現れた。吸血鬼の制止を聞かず、独断専行で消火活動に励んでしまったことは悪かった。それは、ゾンビ嬢もちゃんと自覚していたし、後で謝りに顔を出した。けれど、あの一連の出来事に対する吸血鬼の反応といえば、制止する声を聴いてもらえなかったこと自体に異常にショックを受けていたのだ。そして、その場で怒りを爆発させたわけでもあるまいに、そんなショックでゾンビ嬢に冷たい(ともいえる)態度を取ったことを、あろうことか自分から謝ってきた。正直びっくりしたのだ。だってわたくしたちが悪かったのに。謝りに行ったら、逆に謝られましたのよ。
彼の「ちょっとおかしいところ」とは、極端に嫌われることを恐れるところなのだ。居場所を追われることを。自分の周りから、人がいなくなることを。彼は今、館の最年少で未熟な、モンスターの自覚がない青年を、自分の手で保護し癒すことを、己の存在意義にしている。この館に住み続ける、免罪符だと思っている。
と、ゾンビ嬢は考えていたし、いつの日だったか、人魚と話して結論づけた。
だから、
「でもさっき、姉さんは、俺がいなくなったら寂しいって言ったじゃないっすか」
自分については確かにそうだが、吸血鬼も自分と同じ考えをしているのだと、青年に考えてほしくはない。
ニュアンスを正しく言うなら、あの吸血鬼と、自分を一緒にしてほしくはない。自分の青年に対する気持ちは、彼よりずっと純粋だ。
だってわたくしなら、いくら自分が寂しくても、あなたがおうちに帰りたいというなら、応援いたしますもの。森の出方を探す協力をするフリをして、肝心なことは教えずに、少しずつ館に残る方がいいと洗脳していくような、そんな狡いなことしませんわ。
そう、言えたらよかったのだが。
悔しいことに、死後硬直で筋肉がほとんど動かなくなったこの体では、どれだけ息を吐いても低い呻き声しか出てこないのだ。
あの時、変な欲にとらわれなければ、この大好きな子を導けたかもしれないのに。
ゾンビ嬢の口から、溜息が漏れ出た。
「えっ、えっ、どうしたんすか姉さん。俺、何か変なこと言いました?」
「うああん」
「違う?」
ゾンビ嬢は、首をかしげる青年の両手を、自分の乾いた両手で掬う。それから、動きにくい表情筋を賢明に横に引き伸ばして、にっと笑った。
「笑顔……」
「うああ」
ついでに、青年の手を上下にゆらゆらと、ご機嫌に揺らす。
「姉さんは寂しいけど、俺が森から出ていくのを、応援してくれるんすね?」
「うああ!」
ゾンビ嬢は、青年のこの、ポジティブな感情のコミュニケーションに関する察しの良さが大好きだった。
わたくしは、あなたが家に帰りたいと泣いていた日を、いつまでも覚えていますのよ。名前も思いだせないあなた、おうちも思いだせないあなた。こんな姿で何百年もここに閉じ込められた暁に、あなたのような健気な子を見て、それでも利己的な欲が出るほど、わたくしももう若くはございませんの。
ああ、かみさま、かなうなら、わたくしの喉だけでも満足に動くようにしてくれませんか。
「そういえば、なんでお肉がだめなのかって話をしてたんでしたね」
話がひと段落したと思ったのか、ゾンビ嬢に手を握られたまま、青年が別の話題を持ち出した。それについては検討がつかない。ゾンビ嬢が顎に指を当てて首をひねると、青年もなた同じ仕草をして考えこんだ。
「まじで、俺が館から出て行きたがってるのが寂しいっていうんなら、肉出してくれって感じなんすけど。まさか、ホイップクリームが沢山手に入れられるのに、お肉がひと切れももらえないってことはないでしょ。お肉が調達できないって話は、絶対嘘っすよねぇ」
「理由を思いついたよ」
「……」
吸血鬼だ。
吸血鬼が、サロンの大きい両開きの扉を開け放って、派手に登場した。サロンの明るい照明にキラキラと笑顔が照らされて、さわやかで何よりといった感じだ。
今、その話をしてたところですよ。そう言いかけて、なんだか今の吸血鬼さんなら、「え? 私のことを考えてくれていたということ?」ぐらいは言ってきそうな気配を感じ鬱陶しかったので、青年は少し間を置いて、返事を変えた。
「理由は後から思いつくものじゃないんですよ」
「そういうときもあるさ。あと、もうすぐディナーもできるから下に降りておいで」
そんな要件をだけを自由律的に言い置いて、吸血鬼はさっさとキッチンへ戻っていく。思いついた理由とやらは、食事をしながら話してくれるつもりのようだ。
吸血鬼がサロンの前から消えたのを見送って、青年とゾンビ嬢は顔を見合わせた。
「じゃあお肉のことは、吸血鬼さんの即席言い訳を聞いてからまた考えましょうか」
「うん」
床にペタンと座り込んで話をしていた二人は、のろのろと立ち上がる。
すぐにサロンの出口へと向かう青年の背後で、ゾンビ嬢は立ち上がってから、前屈するように腰を曲げて、ドレスのスカート部分についた埃を払っていった。青年は扉のところで、ドアノブに手をかけて待ってくれている。優しい青年を待たせ過ぎないように急いで作業を終えて、無理な体勢からガバッと体を起こす。
「う゛んしょっ」
「!?」
「……!?」
体を起こした拍子に、ゾンビ嬢の口から掛け声が飛び出た。
何。何今の声。あの汚いウシガエルみたいな声誰。
「ね、姉さん今、うんしょって……」
ダダダダダダと走り寄って、ゾンビ嬢は青年の口をふさいだ。彼の手にパシっと乾いた音を立てて当たった自分の手は灰色だ。間違いない、枯れ切った死人の手だ。見た目だけなら問題ない。吸血鬼の前にも出て行ける。
「青年、いいゴド? このゴドは吸血鬼に、ゼッダイに言う゛んじゃなぐっでよ!?」
小声だが迫真のゾンビ嬢に、青年は目を丸くしてコクコクと頷いた。




