第二十三話 満月篇
茨の太い枝は際限なく伸びて互いに絡み合い、森の中に確かに現れた小道を再び覆い隠していた。「極夜の館」という名付けの由来を詳しく尋ねたことはない。それというのも、青年の目から見ても答えは一目瞭然だからだ。朝が来ないから極夜。館丸ごと森に覆われて日光は全て遮られ、朝昼夜の配分が極端に夜に偏ってしまったから極夜なのだ。
サロンの窓からは一点の光も差してこず、水槽などは水の流れさえ確認できないため、最早ただの黒い壁のように見えていた。この広い部屋が真っ暗なのはここが「極夜の館」だからで、時計が示す時間自体は決して遅いわけではない。普段の吸血鬼なら、アフタヌーンティーに誘ってくれているような時頃だ。
彼は今、青年の膝の上に頭をうつ伏せていた。吸血鬼がこうして甘えるような行動をすることがあるなんて、ましてやこんな頼りない若人を相手にするなんて、青年にだってあまりに意外な出来事だった。しかし実際に吸血鬼は、青年をソファーに座らせると、その前の床に膝立ちになって、目の前の太ももに顔を埋めたのだ。意外や意外……、しかし、理解ができない状況というわけではなかった。
人魚が、彼女が茨の森から消えた。そのことが、吸血鬼には相当堪えたのだろう。もちろん、青年だってショックを受けている。なんだかんだいって、彼女とは仲が良かったと自認しているのだ。彼女との別れが唐突に訪れたことへの悲しみや寂しさは、こうやって吸血鬼が見せているものと変わらなく強いはずだ。ただ、吸血鬼の方が、その感情が行動によく露われているだけである。意外というなら、その点であろう。彼はいつも澄まし顔で、冷静に見えていたから。
壁掛けの燭台には火をつけず、灯りといえばテーブルの上に手持ち燭台の蝋燭が一本あるだけだ。サロンに向かって廊下を歩いている間、吸血鬼が持っていたものである。彼はこの場に着いた途端、周囲の環境を整えることもせず崩れ落ちてしまった。
青年は、膝の上にある綺麗な丸い頭を見ながら、ちょっとアダルティーな状況かもしれないな……と思っていた。青年の目には、小さな灯りに吸血鬼の姿だけが浮かび上がっている。広い世界に2人きりというヤツだ。ここまで明かりを絞ることなんて本当なら寝る前くらいしかないので、容易に時間を錯覚してしまう。蝋燭の光なんて揺れるしオレンジなのだから、雰囲気は最高だ。
そんなことを考えているのがバレると、さすがに失礼というか、申し訳が立たない。青年はいたって平静を装っていた。まして、今までだんまりだった吸血鬼がやっと少し落ち着いたのか、ゆっくりこんなことを呟いたので、いよいよ申し訳が立たなくなった。
「君は……」
その声は小さすぎて、喉の奥で詰まったように一度途切れた。
「君は、どこにもいかないでおくれよ」
青年はパニックに陥った。吸血鬼の言葉に、何を返せばいいのかさっぱりわからなかった。本来の吸血鬼なら自分にこんなことを言い出すわけがなかった。これは、普段の姿からは想像できないほど弱った彼の戯言で、彼だって、自分が森から出よう出ようとしていることはわかっているはずだった。でも、「何言ってるんですか、俺は森から出たいですよ」とは言えないだろう。今の吸血鬼を見て、それを言える人はあまりに心無いだろう。でも、「はい、ずっとここにいますよ」と言うのも、青年には抵抗があった。
こうしてかける言葉に迷って、かける言葉は無いと思った。下手なことは言えず、けれど何か反応だけは示さなければならない。頭が膝の上にあるなら、その頭を撫でることくらいしかできることがないよな。青年は吸血鬼の金髪の先をつまむように触った。子供を相手にするように頭を撫でるなんて、青年には少し難しかったので。
この判断は正解に近かったのかもしれない。吸血鬼の肩から、わずかに力が抜けたのがわかった。その分、青年の腿に重力が加算される。吸血鬼から口を開くことは、しばらくないだろうと思えた。
青年には、吸血鬼の頭を眺める選択肢しか残されなかった。髪を摘んでは放し、パラパラと流れさせていると、彼の髪は一層蝋燭の光に透ける。この髪の金糸のような美しさは、初めて会った時から変わらない。ただし、金色の印象は時と場合によって移り変わって、例えば何か知らないことを教えてもらう時は威厳がある感じに見えるし、嫌味を言われる時は憎ったらしい。今は……今は、細工の細かい置物のようだ。
タキシードは黒いので、彼の体は闇に溶け込む。青年の目には、膝に綺麗な金色の球体がポンと乗っているように映るのだ。一度そのように捉えると、微動だにしない吸血鬼の存在は青年の頭から忘れ去られて、ただの金色の丸だけが脳に認識されるようになる。
だから、次の瞬間には、青年は吸血鬼の頭をぎゅっと抱えることに成功した。前屈みになり、両側から掌で挟むようにして、頭を抱いたのだ。金の丸を真上から見下ろして、その見た目の印象が口をついて出てくる。そう、自分の体で蝋燭の光が少し遮られ、喩えるなら夜の雲影が光源に纏わりついたようだ。これでは細工の細かい置物というより、
「お月さまみたいですねぇ、吸血鬼さん」
吸血鬼がはっとしたように顔を上げ、青年の腕の中から、体を逸らして逃げた。その表情を見た瞬間、あれ、失敗したかなと驚いた。青年は何気ないつもりで言ったのだが、彼に月を重ねるのは、なにやら失礼なことだったのだろうか?
吸血鬼の赤い瞳は見開かれていた。それは驚愕の表情というには、あまりに瞳孔が揺れていたし、口元が緊張したまま意識外に抜けていた。その感情はきっと負の感情で、あまり大きなものの言い方をすると状況に照らしたところでピンと来ない気もするのだが、もしかすると絶望と呼ぶのだった。




