第二十二話 夢想篇
店先の玄関灯にはまだ明かりがついていた。そのため、ショーウィンドウに飾られた噂の特異なタキシードというのを、人間が見るはずの姿で拝むことが叶った。よかった。もしここが真っ暗であったなら、吸血鬼特有の夜目でこれを見るはめになっていた。そうなると、人間の視界で捉えるものとは少し異なって見えてしまう。これを作った人間が、どんな見た目を想定してタキシードを仕上げたのかーー自分にどんな感情を抱いて、仕立てるべき服を判断したのか、わからなくなってしまうだろう。
さて、玄関灯の光はドアに開口した細い窓を通って、暗い店の中に差し込んでいた。ジャクソンがその光を遮った途端、店の中から激しい音が聞こえた。
しばらくしてから、店のドアが開いた。その間、ジャクソンはずっとショーウィンドウの中身を眺めていた。多少乱暴な音を立てて開いたにも拘らず、はたと気づいて遠慮がちになったかのような細い隙間から、店主の男が震える顔を覗かせている。
ジャクソンは自分の顔がしっかり見えるように、髪を振り払ってから、男に向き合った。
特に邪魔が入らなかったので、好きなだけ見つめ合っていた。それはジャクソンにとって一種の品定めの時間であって、なおかつ積年の想い人と視線を交わす恍惚の時間であった。
そういえば、このようなタキシードを作る人物相手に、着の身着のままで会いに来てしまったとは無粋だったかなと思い至った頃、口を開いたのは彼の方だった。
「…………月下のことかと思いました」
「………………ああ、白熱灯の光は人工的でいただけない?」
「まさか。あなたはいつも美しい」
真っ直ぐな瞳でそんなことを言われると、さすがに気恥ずかしくなってしまうだろう。けれど、とても心地よかった。その言葉が真っ直ぐで、ジャクソンだけに向けられていれば、それだけ、それは真実を閉じ込めた永遠の愛を予感させた。
だからジャクソンは上機嫌になって、小首を傾げるようにして微笑んだ。
「このタキシードを着てもいい?」
ウィリアムは、弾かれたように姿勢を正し、何度も頷いた。
「ええ、ええもちろん」
ジャクソンは黒い霧に姿を変えた。ドアから店の中に入ると、袖口、襟元、裾の隙間からタキシードの中に侵入する。代わりに展示用のトルソーをタキシードから抜き取って、最後に霧から元の人型に戻れば、一瞬にして着替えが終わるのだ。
「似合う?」
振り返ると、ウィリアムは大分あっけに取られたようだった。しかし、ジャクソンが近づけば、長年の癖からか、肩のあたりをトントンと叩いて仕上がり具合を確かめてくれた。
「きついところはございませんか」
「うん、ぴったりだ。測っていないのにすごいね」
「重くはありませんか。何分、装飾が多いものでして」
「大丈夫だよ。この重さがかえって安心を生むんだ」
二人が向かい合う場所は店内に移った。ドアの窓から差す光はちょうど二人の間を通っていて、ジャクソンから見れば、ウィリアムの顔を明るく照らしている。
ウィリアムは白いシャツを腕まくりして、働き者の印象だった。確かに老いてはいるものの、背筋は伸び、響く声で喋り、筋の通ったプライドを感じさせると、ジャクソンは思った。
そんな人物が、自分に熱い涙を向けている。
ジャクソンは、ウィリアムのたるんでしわが寄った頬に手を添えた。
「あなたがウィリアム?」
「ええ」
「あなたは……なんだか、少年のような人だね。いつまでも、若いままのようだ」
ウィリアムの体は小さく震えていた。それが何の意味を持つかはジャクソンの知るところではないけれど……、別に老体故にでないことは確実であろう。
セレーンが、彼に魅了がかかっていると疑ったのも頷ける話だった。実際に目と目を合わせれば、彼の心にほとばしっている感情が、強い憧れであることがわかる。まさに自分は、彼を魅了していた。しかし、吸血鬼の能力としての魅了ではない。自分は、その能力を使っていないのだから。
能力で無理矢理に引き出しているのではないこの目の前の感情は、自分と昔の青年の間に生まれた、五十年保った本物の恋情だ。
ジャクソンはそういう、永遠に続く愛を探し求めていた。
愛とは親愛、親愛とは相手を傷つけぬまま縛る。
ジャクソンは言った。
「ねぇ、あなたは、僕と一緒にいてくれる?」
「何をおっしゃるのです」
「僕は、僕と永遠を生きる人を探している。どの子の愛も、たった一夜しか保たなかった。あなたの愛は、五十年だ」
「…………あなたと共にいるのは、私にとって苦じゃないがーー」
瞬間、ジャクソンは舞い上がってウィリアムの首筋に噛み付いた。ーー苦じゃない。苦じゃないって!!ーーどくどく、どくどくと、濃く強い食感を持つ血が口の中を満たす。薄い皮膚は歯を立てかえるたびに簡単に破れて、破片が血と共に流れる。
吸血されるウィリアムが、その間、もがくことはなかった。ああ、やはり真の愛だ。痛みを乗り越えてこの牙を受け入れるほどの愛だ。魅了を使っていないので、これは正真正銘の本物だ。
ふと、乾燥した肌の指先が、ジャクソンの左頬に触れた。
「……あなたは、思っていた以上に寂しい人だ」
そう囁き声が聞こえた後、ウィリアムの手がだらんと落下した。
目線の先で、力無い腕が重力に振れている。
ジャクソンは牙を抜いた。自分の両手は、ウィリアムの体が崩れ落ちないように、抱き枕のように抱え込んでいた。
「……ウィリアム」
彼の瞳は閉じている。
「ウィリアム、起きて」
なぜか穏やかな顔をしていた。
「君の血を全部抜いた。君は吸血鬼になれるはずだ。僕と共に生きよう」
しかし、ウィリアムの返事はなかった。
ジャクソンは膝を曲げ、ズズズ、と足を滑らせて床にへたり込んだ。胡座に組んだ足の上にウィリアムの腰が乗る。頭を抱え込んで上から不躾に覗いても、やはり、ウィリアムが反応することはなかった。
「体の変化に、耐えきれなかったんだね」
赤い瞳から澄んだ涙が流れる筋を、漏れ入る玄関灯が照らした。ウィリアムが見れば、また美しさを讃えて服に宝石を足したくなったかもしれない。
ジャクソンは、ウィリアムの閉じた目を見て言った。
「僕は、初めて人を殺したよ。その相手は、あなただ。ウィリアム」
ジャクソンは店の奥へと移動した。そこには床に転がった小さな丸椅子と、店の奥行きに対して垂直に置かれた長方形の大きな台があった。その上には、点灯したスタンドライトと、メジャー、型紙、鉛筆。作業台だ。見ようによっては、棺に似ている。
ジャクソンはその作業台に、ウィリアムの遺体を静かに寝かせた。それから、よく眠れるようにとスタンドライトを切る。
「ありがとう」
そう言い残して、ジャクソンは店の外へ出た。
森だった。
店の外は森だった。そこに見慣れたロンドンの街はなくて、一面は茨の木々に覆い尽くされていた。
正面には大きな黒いシャトーフェンスが口を開いている。
振り返ってみたが、そこにウィリアムの店はもうなかった。ただ、視界を遮断する白い濃霧が漂うだけだ。
ジャクソンは、フェンスを通って森の中へと侵入した。茨が両脇を固める小道が奥へ奥へと続いている。正面に向かって真っ直ぐ進むことしか、今はまるで許されていなかった。
森の奥には、小ぢんまりとした館が鎮座していた。ジャクソンにとっては懐かしい、母国の地方に点在する、貴族のためのマナーハウスを模っているようだ。
ああこれは、ウィリアムを殺してしまった罰なのだと直感的にわかった。人間を殺して、本当の怪物になってしまった自分は、罪深い吸血鬼としてここに閉じ込められるのだ。
実際のところ、何が起きているのかは知る由もなかった。
ただ、自分は吸血鬼なので超常現象には寛容であったし、傷心の時分にはむしろこういった事態の方が気が紛れるというものだろう。
何が起きているかは、館の中に入ってから考えてもいいだろうね。
吸血鬼は、後に自らが「極夜の館」と名づけるものに、ある意味意気揚々と乗り込んでいった。
さあ、彼の不思議はまだ中頃。




