第二十一話 夢中篇
牙で皮膚に開けた二つの穴を奥まで思い出させるように、トントン、と指で叩きながら、顔の見えないジャクソンは言う。
「もう一度聞くね。その、僕のことを憶えている男って、どこの誰?」
「なんでそんなこと訊くの? 会いに行く気なの?」
セレーンは、自分の声がなるべく毅然として聞こえるように努めた。しかし、この肩のこわばりに、直接触れている彼が気づかないだろうか。
ジャクソンはまどろっこしいのを耐えるように溜息をついた。
「どうして?? 僕が僕の会いたい人に会いに行くのがそんなに嫌なの? 何? 僕がその人に会いに行くのは、そんなにおかしいこと? もしかしたら、僕とその人は旧来の知り合いかもしれないし、生き別れの家族かもしれないし、僕だってずっと会いたいと思っていた人かもしれない。なのに、君にとって、僕の何が不都合なの?」
それから少し間をとって、再度勢いをつけるように言った。
「君にとって、ここで血を吸われて気を失うのと、どちらが不都合なの?」
セレーンは、震え出す息を吸う。自分でも理解できないほど、この親しい吸血鬼に対して、情けなく震えていた。
「……わたしにとって嫌なのは、そりゃ、こうやって脅されることよ。でも、あの人にとって、あんたに会うのは、それ以上に駄目なことかもしれない」
「それはどういうこと? 何を心配してるの?」
「わたしが心配してるのは……。ねえ、わかってくれる? どうしても駄目な理由がちゃんとあるのよ。実は彼、50年前からあんたの魅了にかかっていて、会えばきっと、大変なことになるわ」
「……、……なるほどね」
ジャクソンは、セレーンの首筋を撫でる指を止め、その手を口元に持っていった。冷たい熱が離れるその刺激にすら、セレーンの肩はぴくりと跳ねた。
ジャクソンの次の言葉は、なにやら異様に笑いを含むものだった。
「……そっか、なるほどね。それで君はそんな言動を……わかったわかった本当に、それは大変なことになるかもしれないな、君が思った通りならさ、セレーン」
「……なにそれは。何が言いたいの!?」
ジャクソンの方を勢いよく振り向こうとした体は、強い力で押し戻され、どころか反作用的にベッドへうつ伏せに押しつけられた。
怖い。
その感情はいよいよ瞬時に脳裏をよぎり、けれどジャクソンの息遣いを耳元に感じた途端、ふっと霧散するように消え失せた。
「っ、あっ……」
どうだろう、もしかして。恐怖が消えたのではなくて、思考する力が消えたんじゃないだろうか。わからない。頭の中から、セレーンをセレーンたらしめる様な明確な意思が遠のいていく。
グルリと体が回転し、白っぽく霞んだ視界の中で、ジャクソンの美しい影が見えた。
「痛い?」
「…………」
「君の心配はもっともなんだけど、それでもどうしても、本当にどうしても僕は、その僕を憶える彼に会いたくなってしまったよ」
ジャクソンの声色は、どこか晴れやかだった。そんな風になれる話を、今はしてないはずなのに。
「なぜなら、それは僕の希求する願いなんだ」
セレーンは喋る準備をするため、深く息を吸った。
「どこの誰だか、教えてくれる?」
「何を……」
「うん?」
「…………何もしない?」
「そりゃあ、もちろん」
「嘘よ」
ごまかすように、わたしをわざと馬鹿にしたわ。
まだ治してもらえない傷口から、また大量の血が吸われていく。きっと穴の淵に、皮膚が捲れた赤い塊ができる。けれど、その様子を目で確認することは、今のセレーンにはできない。
赤。
赤い瞳が、よく磨いたガーネットのようだ。
少し泣きそうな声で、「そのままだと多分死んじゃう」と呟いたのが聞こえた。
「……昔」
自分の声が聞こえない。
「昔、あんたが事件を起こした裏通りの、紳士服屋のウィリアム。ショーウィンドウにあんたのためのタキシードが飾ってあるから、すぐわかる」
「そう」
視界が真っ暗になった。
待って、あんたの願いってなんなのよ。それがわからないとわたし、何も安心できないじゃない。
「ありがとう」
視界に光が差した。
はぁっ……っ! という激しい自分の息遣いに驚いて、セレーンは目を覚ました。驚いたというのは心ではなくて体の話だ。突然自由に取り込めるようになった空気に対し、体が過剰に反応したのだ。首を絞められていた覚えはないが。はて、いやそれどころではない。
見回すとジャクソンがいない。いないな? いやいないはずだ。体が端々まで言うことを聞かず、部屋全体を見渡すに至らないが、ジャクソンの気配はない。
どういう状況だろう。もう死ぬ寸前だった自信があるんだけど。ここ数分くらいの記憶も飛んでいる。なんなら現在進行形で、0.1秒前の記憶が、頭の中でドミノでもしているかのように消え去っていく。
体を起こそうとしてベッドから転がり落ちた。全身を打ち付けた気がするが、あまり痛くはない。やっぱり死にかけで鈍っているのかしら。違いないわ。はは。
笑い話ではない。
床についた掌が滑りまくるので目で確認すれば、その手には赤いものがべったりとついていて、さらに体の下の床までも、同様に血液に濡れていた。
もしかしなくても、わたしから流れている血かしら。首からかしらね。
なんだこれ、死ぬのか、わたし?
間違えて来てしまったこの知らない街で、ゾンビちゃんの膝枕もないのに。そんなことは受け入れられなかった。
ジャクソンはこの部屋のどこにもいない。助けを呼ぶなら、別の人を頼らなければ。どうやって、誰を呼ぼう。
ジャクソン。
その名前を頭に浮かべながら仰向けに倒れた時、頭上にくるくる巻かれた電話のコードが見えた。
そういえば、ジャクソンがあれで、ホテルの人を呼んでいた気がする。
ベッドサイドまでは手を伸ばしてもギリギリ届かない距離があった。立つしかない。立てるかな。
行け。
§
ジャクソンの心臓は早鐘を打って治らなかった。別にセレーンの血をたくさん吸ったからってなんてことはないさ。美女の血を吸ったってもう、興奮なんてしないものね。いやぁ、確かに気は昂っているし、この胸の高鳴りは、そういう心の動きとあまり変わりはしないけれどね。
ジャクソンはたくさんの使い魔コウモリに取り囲まれながら、自身もコウモリに姿を変えて、ロンドンの空を飛んでいた。同じような個体の成す群れとなってはいるものの、ジャクソンは、今なら自分だけは見分けがつくんじゃないかと思った。自分だけは、たかだかコウモリにはあるはずもない、大きな期待という感情に浸り犯されているのだから。
さらに言えば、非常に緊張しているのだ。小さくなった心臓が、人型のときと変わらず張り詰めている。
好きなものに夢中になるのは君の美徳だけれど、時には欠点だよと、大学で知り合った者に言われたことがある。それは図書館で借りた本を読んでいる際の会話だったが、なるほど、その"時には"というのは、今みたいなことだろう。
これは、顔も性格も知らない人間に対する、一種の恋のようなものなのだ。
ジャクソンは待ち望んでいた。こんな自分を好いてくれる者を。自らの意志で、ずっとそばにいてくれるような存在を。
五十年前の事件からずっとジャクソンを憶えているという男について、セレーンは、ジャクソンが魅了にかけたのではないかと疑っていた。しかし、ジャクソンには確信があった。自分は覚えている限り、生涯で魅了を使ったことは決してない。ジャクソンはそもそも、魅了の使い方自体、あまり心得てはいないくらいなのだ。だからつまり、セレーンが会ったという男は、五十年もの間、魅了などという強制的な力なくして、自分の存在を忘れずにいてくれたということだ。そして、セレーンが魅了の可能性を疑ったということは、おそらくその人物が自分に向ける感情は、少なからず好意的なものであって……。
あなたは、僕の探し求めた理想の伴侶かな。ウィリアムという人。
ジャクソンたちコウモリの群れは降下し始めた。場所は、点々とした灯りの途切れない現代のロンドンでは珍しく、夜らしい影と湿り気を湛える、古びた裏通り。




