第二十話 追及編
「は……?」
セレーンはあまりの驚愕に、眼球が落ちるほど目を見張って言った。
「ないの……?」
セレーンが見せた不自然なほどの驚きに、ジャクソンは不思議そうに首を傾げた。
「ないけど、そんなに驚くこと? 人魚はもっと日常的に魅了を使うのかな? 僕は使わなくても困ったことがないくらいなんだけど……特に最近は人間に紛れて生活しているから、派手なことをしないように吸血しているし」
「そ、それ嘘でしょ。だってわたし今日……」
魅了にかけられた人物に会った、と言いかけて、セレーンはぐっと口を噤んだ。ジャクソンは眉を顰める。
「今日……?」
何か言わなければ、怪しまれてしまう。そうなれば、仕立て屋の老人――ウィリアムの話をせずにはいられない。ここは何か別の言い訳をして、話をそらさなければならなかった。セレーンは頭をフル回転させた。できるだけウィリアムの話を出さないように、ジャクソンの自慢とかいう告白に驚いた理由を考えなければ――。
「……今日、さっき言った吸血鬼事件のことを知って。てっきり、魅了を使って人を襲ってたんだと思ってたのよ。普通そうじゃない、吸血鬼って。普通そうでしょ?」
「そうだね、まあ、普通はそうかも。だから、僕は使ってないのを自慢に思っているんだし」
「それ、あんたの勘違いで、ほんとは気づかずに使ってたってことはないの?」
「え? ないと思うけどなあ。魅了って、勝手に発動するようなタイプの力だったっけ?」
「知らないわよ。そういうこともあるんじゃないの、って話よ」
セレーンは段々と、ジャクソンの顔を見ていられなくなっていった。目を逸らそうと捻った首筋に冷や汗が伝う。
ジャクソンは困ったような薄い笑みを口元に浮かべて言った。
「とにかく、僕自身には、今までに魅了を使ったような記憶はないよ。わざわざ自慢するくらいなんだ。こういう自慢って確実性が大事でしょ」
「そうね、あんたの言う通りだわ……。信じていいのね?」
「うん、誓って」
誓われてしまった。セレーンはいよいよ俯いて考え込んだ。ジャクソンがここまで言うなら、ウィリアムのことはやっぱり魅了のせいじゃないのだろうか? 種族も恐怖も飛び越えて、自然に恋に落ちただけ……? ああでも、そういえば、あれが恋だと思ったのもセレーンが勝手にそう判断しただけで……。
そのホテルの一室には、しばらくの沈黙が流れていた。
セレーンが晒した頭頂部に、ジャクソンの視線が突き刺さっている。
「…………ごめん、わたしが変なこと気にしたからよね。何の話してたんだっけ?」
次に、ジャクソンのやけに淡々とした声が、こうセレーンに降り注いだ。
「そんな昔の事件、どこで知ったの? って話」
セレーンはそっと顔を上げて、ジャクソンの目を見つめた。
「……その話終わらなかったっけ?」
「終わってないよ。誓ってね」
「あんたすぐ誓うのね」
「将来も誓ってあげようか?」
「ごめんなさい」
「いやいや、だから、僕と一緒にいてもらわないと困るんだってば。最近は夜中でも人目が多くて、下手をやるとすぐSNSに上げられるんだから」
ジャクソンは、セレーンが座るベッドを軋ませ、セレーンのすぐ隣に腰掛けてきた。ジャクソンの手がセレーンの片頬を捕まえて、彼の方に顔を向けさせる。
二つのブラッディムーンが、セレーンの双眸をそれぞれ一つずつ、がっしりと捉えた。
「事件のこと、どこで知ったの?」
「あの、どこでもいいでしょ」
「その返事はさっきも聞いたんだよ。ねえ、教えてくれてもいいでしょ?」
「いや……」
「だめなの? 何か言って悪いことある?」
言って悪いこと……? 唇をキュッと結ぶと、いつのまにか乾燥して軋むようになっていた。そんな気がするだけかも。赤い瞳に、意識が、吸い取られていく。言って悪いこと。ウィリアムが本当に魅了にかかっているわけじゃないのなら、彼のことをジャクソンに教えても不都合はないはずだ。それどころか、一度見ただけの吸血鬼にすっかり入れ込んでいるおじいちゃんの話は、この場の与太話としてちょうどいいものではないか。言って悪い話ではない……けれど……。
「あんたのことを、五十年前に見たっていう人に会って……、事件の話を聞いたから」
セレーンが背中を反らして逃げれば、それにぴったりとくっついて、ジャクソンが身を乗り出した。
「……けど、……」
「……」
「どこで知ったかなんて、そんなに気になること……?」
セレーンはジャクソンの目をじっと見たまま言った。この状況おかしいでしょ。明らかにおかしいでしょ。何が起こってるの、何を考えているの? そんな気持ちを込めた目線は、ジャクソンの綺麗な体を、セレーンの体側から引き剥がした。
「あは、確かに。僕、ちょっと必死すぎたかな。君が隠し事をしているように思えたから、ついつい気になってしまったんだけど。そっか、僕を見たって人がいたんだねぇ。女の人?」
「男の人よ」
「ふうん、男の人かぁ……五十年前なら、男に見られる機会なんてそうそうなかったはずだけどなぁ」
「ああ、女ばかり狙ってたそうね」
「孤児出身の女とかね。にしても、男かぁ……考えたことなかったな」
「どうして女ばっかり」
セレーンの言葉は途中のまま、ふとジャクソンの手によって、体の向きを反対に変えられて途切れた。セレーンの視界からジャクソンはいなくなり、彼に完全に背を向けた状態で、ホテルの小綺麗な壁紙を見つめる。
セレーンの肩には、ジャクソンの両手が乗ったままだった。ジャクソンはその左手を、セレーンの肩から首筋に、服越しにそわせる。
「その男ってどこに住んでる人?」
ジャクソンがセレーンに問うた。
「なんで急に脅すような真似するの」
ジャクソンの指は、先程までセレーンに噛み付いていた場所を再び捉えていた。




