第十九話 吸血篇
人違いか、セレーンのことを忘れてしまったか、何か正体を言えない事情でもあるか、あとは……現在は、森で二人出会う前の時間であるか――。
「何よ、あんた、縁の薄い相手には随分乱暴なのね」
極夜の館で共に暮らしていた頃、彼は物腰柔らかだった。少なくとも、こうやってセレーンをベッドに押し倒すようなこと、絶対にしなかったはずだ。……いや、人魚をベッドに運ぶような労苦をわざわざ背負おうという人が、そもそも少ないかもしれないが。
夜も更けた頃、たった二人しかいないホテルの一室で、あまりこいつを信用するべきじゃないのかもしれないと、セレーンは悟った。彼はまだ、自分を「人魚さん」と呼んだり、敬語でしゃべってくれたりはしない。悟ると同時に、どうしても寂しくなった。
セレーンは、突然自分に覆いかぶさってきたジャクソンの肩を、下から思い切り押し返した。しかし、彼と言えばそれを意にも介さず、すぐさまセレーンの手首を捕まえて退けさせる。
「僕が親切な人にでも見えていた?」
「服を買ってくれたし、ご飯も食べさせてくれたじゃない」
「もちろん、君が人外だと知って、死なせる気はなくなったからね。君なら、僕とずっと一緒にいてくれるでしょ?」
こんな綺麗な顔にここまで密着してこんなこと言われると、どんな女の子でも許しちゃうんじゃないかしら。実際、ワンピースのボタンがジャクソンの手によって外されていくのを見ても、まあこのままでも最悪死ぬことはないならいいかしら……なんて思わせられる。
ジャクソンがセレーンの襟元をはだけさせる手つきは、非常に淡々としていた。セレーンがジャクソンの目元をじっと見つめても、彼がこちらへ目線を上げることはない。
「約束通り、図書館に迎えにきてくれたし……、っ、やだ、話聞いてよ」
「でも、タダとは言ってないよ」
「これが代金なの?」
「そうじゃなかったら、君を助けたメリットもなくなるじゃない」
「元からこれが目的だったの?」
「なんだと思っていたの?」
「あんたは、見返りがなくても他人に親切にするタイプだと思ってた」
「僕の何を知ってるって言うの」
「こっちにも事情があるの~! あ、待って! 本当に殺さないでよね!?」
さすがに、二回目の制止は聞き入れられなかった。
ジャクソンは、セレーンの言葉を遮るように、彼女の首筋に噛みついた。牙が皮膚を破いて、その周辺が熱くなる。ジャクソンの唇の内側が、セレーンに開いた穴を覆うように吸いついた。
「痛い……」
セレーンの目に、涙が滲んだ。
「……」
「嘘だよ、殺すでしょ知ってるもん……。五十年前の連続殺人犯ってあんたでしょ?」
セレーンは痛みをやり返す代わりに、投げつけるようにそう言った。言った後で、ああいわない方が何かと都合がよかったかもしれない……と後悔した。ジャクソンはセレーンの言葉を無視することなく、吸血を一時中断した。
「そんな昔の事件、どこで知ったの?」
「どこでもいいでしょ。でも、あんた血を吸って人を殺すんでしょ」
「君が誤魔化すなら僕だって言わないよ」
「……」
セレーンが何も言わないでいると、ジャクソンはまた血を啜り始めた。意識するほどに血の失われる感覚が大きくなるようで、セレーンは苦肉の策として自身の告白を叫んだ。
「わたしも人を殺したことがあるわ」
「……」
交換条件なら、ギリギリ整ってしまったかもしれない。ジャクソンは、患部を舌で丁寧に舐め上げた。
「……僕は人を殺したことはないよ」
「殺人事件を起こしてるでしょ」
「昔はもうちょっと吸血鬼らしくしてたから、死ぬ寸前まで血を吸っていた気がするけれど……本当に、それだけ。僕は、とどめを刺したことはないよ。極度の貧血状態で放置されたから、結果的に死んだ人も出ているかもしれないけれど」
「そんなの、殺したのと一緒でしょ」
「違う、全然違うよ」
ようやくジャクソンは身を起こし、セレーンから離れた。セレーンは歯を立てられた首筋を恐る恐る指でなぞって、驚きの声を上げる。「すごい、傷口塞がってる!」
「僕たちは確かに人外だけど、人を殺した人外と、殺さない人外とでは存在の枠組みが全く違う。人を殺せば、僕たちはもう怪物だ」
「そんな価値観、あんたから聞いたのは初めてね」
「そりゃそうでしょ?」
「そうだったわ」
「君はどうして、人を殺したの?」
「……泡になりたくなくて、愛した人をナイフで刺したのよ」
「まさか、アンデルセンの『人魚姫』の、クライマックスのやつを実行したの?」
「あの伝説、陸にも伝わってるってのは本当なのね」
恋に破れた人魚姫は、愛する人を殺さなければ、泡になって死んでしまう。恋する乙女は身を滅ぼすのだ。恋した方が悪いのだから。
「彼には人間のこと、沢山教えてもらったわ。人間のごはんだって食べさせてもらったけれど。それで、わたしが選ばれるわけじゃなかった。だからわたしはそいつを殺したし……」
人間として生きるなんて、もう金輪際思わないって、思っていたんだけどねえ。郷に入っては郷に従えと言うが、極夜の館でゾンビ嬢たちと暮らすためには、人間の体の方が適しているに違いなかった。人間になれる能力を持っているのに、人魚のまま他人の手を借り続けることに、何の理由があったのか。それはセレーンの、過去からの逃避行為であった。人に振られて、人を殺した、罪深き過去からの逃げだ。
「仕方がないと割り切ったかい? 人肌は人を狂わすからね」
セレーンの言葉を代わりに続けたつもりか、ジャクソンはそう言って、カーテンが閉まった窓の外を見た。
「僕も吸血鬼だから、人肌には弱いんだ。それなのに、人はすぐに死んでしまうね。親無しや家なしのような都合がいい人も、今じゃ支援を受けたり、管理されてたりして、気軽にとはいかない」
「……そういう人のことを都合がいいと言うなら、わたしなんか筆頭でしょうね」
「よくお分かりだね。君なら戸籍もないだろうし、寿命も僕に近いでしょう? 君のことを生かして血を吸えば、しばらくは街で行きずりの人間を連れ込む必要もなくなるよね」
「餌になる生活なら逃げだすわよ、わたし」
「大丈夫だよ人権は保障するから……。いざとなれば、僕には魅了だってある」
「やっぱあるんだ。魅了の力」
「人魚にもあるでしょ? その殺した人には使わなかったの? 殺すより大分マシだったと思うんだけど」
「多分あんたにゃわかんないわよ。無理やり恋に落とすのがどれだけ残酷かなんてね。だからさ、恋する乙女はかわいそうなものなんだってば。そいつは狂っているし、頭おかしいし、目もおかしいし、鼻も口もおかしいし……」
「そこまで言うことかなあ?」
「そうよ、そんなものよ! それが魅了で無理やり引き出したものってなると、自分で失恋することもできないんだから。あんた、無責任に魅了をかけるのはやめなさいよね」
「ふうん、そんなものかい」
だからセレーンは、今日の仕立て屋の店主のことを、ジャクソンに伝えるべきではないと思っていた。正確には、店主にジャクソンを再び会わせるべきではないと。もしかしたら会わせることが店主の状況を好転させるかもしれないが、もしそうでなかったら、セレーンに責任は取れない。
仕立て屋の店主がジャクソンに抱く感情は、明らかに、吸血鬼の魅了による効果であるとセレーンは見ていた。たった一度、暗闇でちらと見ただけの人外の姿を、あれほど美しいの一点のみで語れる老人がいてたまるかという話なのである。まあ、ジャクソンの美貌は確かに本当であるから、美しさが特別印象に残ったということならまだわかるものもあるが、恐怖さえも感じなかったというのは。そもそも魅了とは、人外が人間に恐怖を感じさせないための能力なのだ。恐怖という危険信号に気づかせず、獲物を油断させ、かっ食らうためのもの。魅了にかかった獲物は、往々にして自ら怪物の口に飛び込んでくる。
ジャクソンが店主に魅了をかけたのは、見つかった時点で捕まらずに逃げおおせるためだったのだろう。だから、魅了を解かずに50年経ってしまった。激しい恋が終わらぬまま生き続けることの狂気性を、辛さを、理解していないからそんなことができるのだ。そんなやつと、再びあのウィリアムを会わせてなるものか。この段階で再び会えば、何が起きるかわからない。ウィリアムから血を吸うように懇願するかもしれないし、そうしないと魅了が解けなくなっているかもしれない。もしそうなって、血を吸うことになったら、あんなおじいちゃん普通に死んでしまうぞ。最低。このくず野郎。
そんな考えを巡らしていたから、ジャクソンの次の言葉は、セレーンにとってあまりにも予想外のものだった。
「とはいえ僕、これは自慢なんだけど、長年生きておきながら、今まで魅了を使ったことないんだよね」