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第十八話 昔語篇――その二

「私の家は代々紳士服の仕立て屋でね。私も二十歳の頃には、既に一通りの技術を学んでしまっていた。こう言っちゃなんだが、その頃から腕には自信があってね、私は今にも店を継ぐ気でいたんだが、いかんせん父親がいつまでも元気で……今なら当然わかるさ。二十の息子の父親なんて、まだまだ若いもんだね。私はもう父の齢を超えてしまったが、愚息に比べれば覇気はあるつもりだ……ああ。話が逸れてしまったが、その頃の私はどうも躍起になって、夜遅くまで服の勉強をしていることも多かったんだがね」


「あなた、息子と一緒にお店をしているのね?」

「いや、ここは私一人の店さ。息子の店はパンを売ってる」


 そう言って、ウィリアムが顎で店の表を雑に示すので、セレーンは素直に振り返ってしまった。当然だが、壁紙が視界を隔てるだけで、外の景色など見えるはずもない。店の名前でも言ってくれるかと思いきや、ウィリアムは目を細めて、苦々しい様子で一点をぶれず見つめるだけだ。セレーンはピンと人差し指を立てて、「そこの、人が沢山並んでいるパン屋さんね」とだけ言った。


「わざわざあんな場所に看板を構えて、余計な世話だというに。人には、もっと仕立て屋が集まる場所に店を開けと言っておいて、自分こそ、こんな人のいない道で食べ物屋なんか始めてしまって。私は好きでこの場所にこだわっているんだから、放っておいてくれないものかね」

「あなた、それは明らかに、お父さんを心配しているんじゃないの。ここって、吸血鬼が出る場所なんでしょ? そんなところに、好き好んで留まるからよ」

「残念だが、息子は吸血鬼を信じていないんだよ。吸血鬼事件があったのはもう50年も前の話だ。今どき、殺人事件の犯人を吸血鬼だと言って騒ぐのも、流行らないものだからね」

「……殺人事件なのね。その吸血鬼は、人を殺しているのね?」

「そうだ。だが言わせてもらえば、あの方は生きるために食事をしているに過ぎない。その意味では、人間の枠にはめて殺人事件と言い表すのは、彼への冒涜にすら思えるが。自戒すれば、私が彼の美しさを人の衣服で飾ろうとしたのも、彼にとっては失礼にあたるかもしれない。若気の至りで許されるかね」

「人間は、よく人間以外をそうやって、妙に綺麗なものに捉えようとするわね」

「当然だろう。彼は、私たちよりもキレイだ」


 ウィリアムは一度宙を仰いで、音を立てて唾を飲み込んだ。緊張した空気が途切れたのをきっかけに、セレーンはふと、自分がずっと立ちっぱなしであったことに気がついた。足に疲れがたまってきている。壁際に置かれた丸椅子に勝手に腰かけてから、ウィリアムの言葉を待つ。


「……話を戻そう。その日も、私は夜遅くまで縫製の勉強をしていた。気づいた時には、外はすっかり暗くなっていてね、街灯の少ない道を宿まで急いだ。この店は二階が住まいになっているんだが、ちょうどその時は改装をしているところで、家族と近くの宿を借りていたんだよ。それを忘れて、つい癖で、私だけ工房に長居してしまったというわけだ。その頃にはもう吸血鬼の噂はささやかれていて、母にはこっぴどく叱られるだろうと……実際いくらかは言われてしまったんだが、覚悟して帰路についていた。しかし、吸血鬼の獲物と言えば、若い女だからね。まさか、男の私が狙われるわけはないと高を括っていたんだが……いや実際、狙われたのは私ではなかった。私は遭遇したんだよ。今まさに、そこで、男が美女の首筋に歯を立てている場面にね」


 ウィリアムは、片手で口元を抑えた。声がくぐもる。


「道中の細い路地の中だった。怖くはなかったのさ。それはあまりに現実で、ぐったりとした女は実物感があったから。……逆に落ち着いていたんだよ。しかし、雲が流れて月明かりがうまいこと路地に一筋差し込んだ時、彼と目が合った。途端、急に背筋が凍ったんだ。ああ、覚えているのさ。別にこれだって、次に私が狙われると思って恐ろしくなったわけじゃないんだ。もう何度も言っているだろう。そうだ、美しかったんだ。一切作りものではない、天然石のような赤い瞳が、非常に美しかったんだ。肌だって白かった。鼻は高く、計ったように形が良かった。それで、頭が傾いて、金色の光に溶けるように、髪が流れて、その微笑む口元を露わにした。霧のように美しいものが、質量ある女の死体を地面に寝かせたんだ。それから、私をあの赤で一瞥し、翻って影に帰った。細かい黒の粒子に姿を変えて、そこには何もいなくなったわけだよ」


「じゃあ、その美しい吸血鬼がその時来ていた服が、ショーウィンドウに飾ってあるやつなの?」

「違うさ。だから、黙って話を聞いてくれ。私はその光景を見た後、宿には向かわず、また工房に戻って来た」

「なんで?」

「一種の職業病かもしれないね。あの路地で、影に消えた彼の面影を追っているうち、彼が着ていた服の印象が全くないことに気づいたんだ。タキシードを着ていたはずだが、あれだけ美しかった彼が、どんな上等なものを、どんなに着こなしていたか全く覚えがなかった。服が彼自身の美貌に負けてしまっていたんだ。私は怒りを覚えた。彼の服を作った仕立て屋は何をしている、私なら、もっと彼にふさわしい服を仕立てることができると思った。本当に傲慢な思い上がりだとは思うが。そんな衝動に任せて作りあげたのが、あの一着なんだよ。あのタキシードは、私が勝手に、彼のために作ったものなんだ。もちろん、そんなこと彼は知らないから、あれを彼が来てくれたことは一度もない。彼以外に似合うことはないだろうから、彼以外に着せたこともない。あれは、そういう代物なんだよ。ああ、ここまで長かった。これだけのことを言うのに、随分長い言葉を聞かせてしまったね」

「いいのよ。なんだか、壮大なお話だったわ」


 セレーンは、ウィリアムが長い息を吐き出し、ようやっとひと呼吸終えるのを待った。待っている間、セレーンは体中をかきむしりたくなるようなむずがゆさというか、羞恥や罪悪感に襲われていた。ウィリアムの話に出てきた吸血鬼の特徴は、確かにセレーンが知る吸血鬼――ここで本人が名乗るところでは、ジャクソンのものだ。セレーンだって、彼の顔は美しいものだと思う。でも、しばらく一緒に暮らして身内感まである人物についてこうまで言葉を尽くして言い表されると、実際の人物像を知って黙っている自分が、まるで純粋な乙女を騙す詐欺師になったかのように思えた。


「女性の死体は、どうなったの?」

「すまないが、わからないんだよ。私は何もしなかったから」

「そっか。その話、他の人にはしたの?」

「したさ。家族にも近所にもして回ったが、私が語る美しい吸血鬼の話に、誰も頷きやしないんだ」

「なるほどね。本当に、壮大なお話だったわ」


 セレーンはウィリアムの心に理解を示すつもりで、ゆっくりと頷いた。そういえば、人魚の歌には人間を惑わす魔力があるらしい。吸血鬼にも、そういうのがあったかしら。


「じゃあ、ウィリアム。あなたは、ここにあのタキシードを飾って、ポスターまで貼りっぱなしにして、ここに吸血鬼が訪れるのをずっと待ってるの?」

「まさか、あの方が自分のところへ来てくれるなんて思っていないさ。ただ、どうしてもこの場を離れ、あの記憶を失うのが怖いというだけだ」

「そういう人を、他の人間がどう思うのかは知らないけれど、わたしなら、そりゃあ、向かい側から様子を見守りたくもなるわね」

「……私を気狂いだと言うかね」

「いいえ。恋する乙女だと言うわ」


 セレーンのその言葉を聞いた途端、ウィリアムは思わずといったように噴き出した。


「お嬢さん、よく目の前を見ろと言ったろう。目の前にいるのは、どんなジジイだ?」

「セレーンよ」

「ああそうだった、セレーン。本当に面白い人だ」

「こちらこそ、面白い話を聞かせてくれてありがとう。あのタキシードに興味を持ってよかったわ。あれだけ派手なんだもの、きっとどれだけ美しい吸血鬼が着ても、霞みやしないわよ」


 ウィリアムは、額に垂れた白髪を掻き揚げた。


「ああ。ふと冷静になってみれば、本当に装飾過多だと思うよ。肩についている垂れ布なんか、もはや意味が分からないだろう。我ながら笑えてしまうね」


 だが、いい出来だと、彼は続ける。宝石、刺繍、美しい装飾の全てが、彼の心に根付いた、吸血鬼への美しい印象の表れなのだ。


 恋する乙女とは、ことごとくかわいそうな生き物である。


 セレーンは、ショーウィンドウを裏から眺めるフリをして、こっそり肩を落とした。あの吸血野郎についての、キラキラした感じのお話を聞けたのは面白かったけれど、このタキシードをどうしてあいつが極夜の館で着ていたのか、一層わからなくなってしまったな。

 ていうか、やっぱり、時系列からおかしいわよね。

 ジャクソンが本当の本当に、極夜の館で会った吸血野郎なら。

 彼がわたしを知らなかった今の時点は、ジャクソンが極夜の館に閉じ込められる前の時点、って考えて、わたし、間違ってないわよね?

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