第十六話 おのぼりさん篇
「この川だ。セレーン、君は昨日の真夜中、この川の上流から流れてきたんだ。気を失った状態でね。海から迷い込んだなら、なんで上流から流れることがあるんだろうね?」
「……ちょっと事情で、最近までずっと陸にいたのよ」
「ふうん、そう」
ジャクソンと名乗った吸血鬼は、目深にかぶったキャップのつばの角度を直してから、大きな川に沿った道を、上流に向けて歩きだす。向かう先には歩行者用の鉄橋があって、それを渡って向こう岸に行こうというようだ。
ジャクソンの服装はことごとく素肌を覆うようにできていた。長袖のパーカー、ジーンズ、ハイカットのスニーカー。手には黒いニット手袋までしている。そこまで寒くないんじゃないの? と言うセレーンに彼はこう答えた。「日光に弱い体質なんだよ」。
とはいえセレーンの方も、ドレス一枚で外に出るのはさすがに不自然な気温ということで、ジャクソンのカーディガンを上に羽織っている。このままずっと彼の服を借り続けるわけにもいかないので、自分の服を何着か新しく見繕う必要があった。
「ここは学生の街なんだよ。向こう岸には大学があるし、博物館もある。図書館もある。博物館と図書館はタダで通えるよ。僕がいない間は暇つぶしにでも行くといい」
「いない間って、あんたは何しにいくのよ」
「大学」
「通ってるの?」
「籍は置いていないから、講義室に忍び込むんだけどね」
「勉強が好きなのね」
「そうじゃないと、時代についてけないさ」
ジャクソンは長年、一人でホテル暮らしをしているのだと言った。セレーンが寝かされていた部屋は、今ジャクソンが身を置いているホテルだ。人より長い時間を生きているので、賃貸契約の記録が残ると怪しまれる。戸建てかホテルで仮住まいを転々とするのがいいが、戸建て住宅での一人暮らしは管理も一苦労だ。そこで、ホテルというわけ。
このまま放り出されては路頭に迷うということを、セレーンは正直に彼に話した。つまり、自分は「迷い人魚」なのだと。実家に帰りたくても帰れない。お金もない。住まいもない。ジャクソンの元においてくれなくては多分一人で生活もできない。
以下は、先ほどホテルでその話をした際の抜粋である。
「君の実家ってどこなの?」
「エーゲ海よ。マジよ」
「別に疑わないけど……それなら確かに、帰るにしてもお金がかかるだろうね」
「ここはどこなのよ」
「ロンドン」
「どこよ」
「島」
こういうわけで、セレーンはしばらくの間ジャクソンと生活を共にすることになった。ジャクソンはわざわざ、ホテルに言って二人用の部屋を取りなおしてくれた。アメニティーも持ってきてもらったので、生活用品には困らないだろう。今は着替えが必要だ。街に馴染む服が。
「この先のショッピングストリートに行こう。僕は午後から講義があるから、昼を食べた後は好きに過ごしてもらうことになるけど、いい? お金もいくらか渡しておく」
「服を買うお金も、昼を買うお金も借りていいの?」
「ホテル代も僕が出してるんだよ? 何を今さら」
そう言ってから少し間をおいて、「人外のよしみだよ」と、ジャクソンは言った。
§
一人だ。
セレーンは両手にファストファッションの袋を携えて、古い町並みに一人立たされていた。先ほどまでに比べて、目の前の道路に走る車の数が減った。歩く人もまばらになった。全体的にセピア色とか、飴色に近い茶色を纏った、背の高い建物の町並みだ。
ここまでの経緯を簡単にまとめておこう。
ジャクソンに連れていかれた服屋で、セレーンはまず服の種類の多さに感動した。店の印象だけなら、ゾンビ嬢のクローゼットをもっと大きくしたような場所だと思ったが、服の見た目の系統は全然違う。ゾンビ嬢が持っていたのは、格式高いドレスばかりだった。しかし、この店にあるのは、どれも軽くて動きやすそうなデザイン。派手なプリントTシャツ、ウェストにゴムが入ったパンツ、体のラインが隠れるワンピース。セレーンは活動的な服を珍しがって、好んで買い物かごに入れていった。下着も買いなよね、というジャクソンの言葉がなければ、無限に服ばかりみていたかもしれない。大して珍しくも特別でもない大手チェーンのファストファッション店で、子供のようにはしゃぐセレーンを遠巻きに眺めながら、ジャクソンはポツンとつぶやいた。「どれもほんとに安い服だよ」。
お昼ごはんに買ったサンドウィッチにも、セレーンは目を輝かせた。こんなに美味しいものが、こんなにすぐに買えるなんて! セレーンは目覚めてからほとんど食べ物を口にしていなかった。空腹の中に手軽な料理。人間の体になってからというもの、人間のごはんがもっとおいしい。だいたい、服屋のすぐ近くにサンドウィッチなんてものを買える店があること自体が、驚きと感動の対象だった。更にだ。服屋を出て隣のビルに入っても、向かいのビルに入っても、まだ服が買える。服屋のテナントが文字通り軒を連ねている。と思ったら、あっちではごはんが食べられて、こっちでは紅茶が買える。そこは、それほど大きなショッピングストリートだった。サンドウィッチのスタンドの店主は、ジャクソンに声をかけていた。「深層の令嬢でも連れ出してきたのかい?」「まさか。ただの、おのぼりさんです」。
そうこうしているうちにジャクソンのタイムリミットが来て、セレーンはお小遣いを飲み物代程度に渡されてから、図書館に行くように指示された。セレーンには分かった。あまりお金を渡すと何を買うかわからないし、ショッピングストリートに放っておくとはしゃぎまくって恥をかくと思われたのだ。黙って静かに過ごすしかない図書館で、ジャクソンの大学が終わるまで待っていろとのことらしい。
「わかった」
「わかったね? 図書館への道は観光パンフレットにも乗ってるし、そこのバス停から図書館行きのバスも出てるから、最悪運転手に行き方を聞けばいい。じゃあ僕は行ってくるから、悪いけど夕方まで待っていてね」
「わかったわ」
「約束だ」
そうして、ジャクソンは赤いバスに乗ってどこか知らない大学まで行ってしまった。彼が乗ったバスの次に来たバスにセレーンも乗って、この辺りで一番大きい図書館に向かう。
バスを降りたところまではよかったと思う。だって、バスに乗っている間は、道を間違う余地なんてないでしょ? 自分的には、図書館の建物の見た目を知らなかったのが悪かったと思うの。いや、写真は見たんだけど、一方向から見た写真だけでは、建物の判別はつかないじゃない?
だから、バスを降りて、バス停から道沿いに歩いていたあたりから、ちょっとミスったんだと思うのよね。
だから、迷子になったってわけなのよ。




