第十四話 森の出口篇
「セレーンさん! 見えっすか? あれ、見えっすよね!? 森が開いた! 出れるっすよ俺ら、ここから出れる!」
青年はセレーンの肩を掴んで飛び跳ねた。掌から流れる血が肩やドレスを汚したが、二人とも少しも気にしなかった。ただ、自分たちの足元から延びていった道の先――森の出口その一点を見つめていたのだ。
「……わかってる見えてる、見えてるわよ! 向こう……潮の香りがする」
「潮の香り……? そっか、このツーンてする匂いが、そうなんすね」
青年は鼻から大きく息を吸い込んで、その後威勢よく噎せ返った。
「ご、ごほっ……。……え、てことは、森はセレーンさんを逃がすために開いたってことっすか。森の外にあるのは、セレーンさんが住んでた海?」
「わからないから訊かないでってば。門の向こう側は、……何も見えてないもの……」
「俺もです。霧が濃くて。……近づいてもいいんすかね」
青年がセレーンを追い越して一歩踏み出そうとしたとき、二人のすぐ後ろで吸血鬼の戸惑いの声がした。
「ねえ、待ってよ。何が起こってるの?」
「えっ!」
青年は驚きの声と共に振り返り、背後の光景を見て絶句した。そこにはなぜか、極夜の館があった。青年たちは森の中を少なくない距離進んでおり、いくら森が開けたと言えど、館からこれほど近くの場所に位置していたはずもないのだ。しかし実際、青年のすぐ後ろには玄関先の段差があって、その一番上に吸血鬼が立ち、ストップウォッチを片手に顔をこわばらせていた。
「なんで……、何してるんすか、吸血鬼さん」
「違うよ、何も私の仕業じゃない。私はここで、君たちが帰ってくるまでのタイムを計っていただけだ。でも君一人で走る時とは比べようもなくほど遅かったから、いい加減、中に引っ込もうかと思っていたところだったんだよ。……何かしたなら、君たちじゃないの?」
「俺らだって何もしてないっすよ! 急に森が開き始めたんです。あっちから潮の香りがしてて……」
「……まさか」
「セレーンさんの、お迎え……?」という吸血鬼のつぶやきは、ポンと書き置きでもするようなセレーンの一言が聞こえると、触れられることなく消え去った。
「わたし、あっち見てくる」
「あっ、セレーンさん!」
青年の制止の声……いや、どちらかというと心配の声か。それを振り切り、セレーンは森の出口に向かって駆けだした。その後を追いかけようとして、青年はふと踏み出すのを躊躇する。出口を見つめたまま、彼は突然、漠然とした恐怖に駆られはじめた。森の外がセレーンの故郷につながっているなら、青年は今、森から出ても、自分の家に帰れるわけじゃない。青年は海の匂いを知らなかった。青年の故郷は放牧地帯だろうと、吸血鬼も言っていた。いや、そういう打算的な理由もあるかもしれないけれど、それより直感的な警戒心が、青年の足を踏みとどまらせた。
とはいえ、セレーンを一人で森の出口に向かわせる気にもなれないのである。得体の知れない森に、知れないまま開かれた小道なんて、セレーン一人で歩かせて良いものでは決してなかった。
やっぱり、と意を決した青年は走り出そうとした。しかしその直前、その肩を吸血鬼の右手が掴んで引き留めた。
セレーンは森の出口に辿りついていた。黒門はセレーンの背丈より高く、槍のような形をした鉄棒が何本も並び立った様は、これを初めて見たときと同様に禍々しかった。かつてと少し違うのは、門の背景が森ではなく、白い濃霧であることだ。神秘的と言うとどこか違和感があるような……、しかし、不気味と言うには言い過ぎのような、曖昧な感情を抱かせる。セレーンの思考は、霧に奪われたようだった。
片手で押すだけで、門扉はその重厚感に似合わず軽々と開いた。出てもいいんだ。緊張に囚われていたはずの肩は緩み、呼吸も知らずうちに楽になっている。
門を出る。セレーンは、霧の中を見渡した。見たい、周囲を見たい。そう思えば思うほど、霧は不思議と透けていく。まず、耳に水の動く音が大きく届くようになった。それから、白い視界の中に黒く陰った水流の筋が垣間見えだす。それから顔を上げていけば、見通す先には背の高い建物の輪郭が浮かび上がって……。
……なんだあれは。
わたし知らない。
気付けばセレーンは、灰色のコンクリートブロックの上に立っていた。少し踏み出せば、流水の中に身を投じることができる。しかし、この流水は海じゃない。川だ。川だった。目の前の水は、右から左へ単調に流れる。コンクリートブロックは、川べりに沿って延々と続いている。正面に見える向こう岸には、セレーンが見たこともない、大きなビル群が展開している。
「ねぇ! ここ、わたしの故郷じゃない!」
セレーンは森の中に駆け戻ろうとしてハッと息を吸い込んだ。門が閉まっている。閉まった門の後ろ側で、小道を覆い隠すべく茨の枝がグニョグニョと延びて絡み合わんとしている。
門扉の鉄棒を掴んでガタガタと鳴らすも、開く気配はない。さっきまであんなに軽く動いていたのに、鍵なんてかかってなかったのに! だいたい、なんでわたしは門の外に出ちゃったんだ? こんなに不用心に、一人で!
閉じていく茨の隙間から、青年が「セレーンさん! セレーンさん!」と何度も呼ぶ声が聞こえてきた。セレーンも、腹を振り絞って「小僧!」と甲高く声を張り上げた。
「森に戻れなくなっちゃったの! ここ、わたしの海じゃないのに!」
この叫びが青年らに届いているとは、セレーン自身にも思えなかった。それでも、叫ぶ以外のことが思いつかない。まずい、外になんか出るんじゃなかった。人間になんか。待ってそうじゃなくて、今はそんなこと言ってもしょうがないでしょ。
青年の声はだんだんと遠くなっていく。もう耳を澄まさないと聞こえないほどになった時、青年の口にする名が「セレーン」から「姉さん」に変わって、セレーンはグッと目を凝らした。
「! ゾンビちゃ……!」
ほとんど完全に閉じられた茨の枝の隙間から……、あってないような、もはやあるはずもないとさえ言える隙間から、ゾンビ嬢の必死の形相が見えたと思った。ゾンビ嬢の体には茨の枝が鞭のように絡みついて、彼女の肌を棘で滅多刺しにしている。それでも、ドレスが破けようとも、セレーンの親友はこちらに手を伸ばしてくれている。
霧は一層濃くなって、セレーンの視界を容赦なく覆いつくした。
黒門は、もはや鉄格子だ。極夜の館の住人とセレーンを隔てるそれは、いくら揺らそうとも開かず。ついにセレーンの体は、門を揺らす反動で後ろ向きに傾いた。
「あ」
赤いドレスの女が、大きな川に落ちる。意識をとばして、下流へ向かって、流される。
§
セレーンが目覚めたのは、暖かいベッドの中だった。重い体を起こすと、体に張り付いていた毛布がはらりと落ちて丸い乳房が露わになった。服は? ゾンビちゃんにもらった赤いドレス。あ、
「ゾンビちゃん……」
ガチャ、と部屋のドアが開いた。見れば、随分シンプルな部屋だ。家具は、ベッドとサイドテーブルに、小さなデスクくらいしか見当たらない。それらの装飾も、極夜の館にあるものに比べれば質素で、せいぜい清潔感を演出する程度だ。その割に、ドアは分厚く重さがあるように見える。
その開いたドアから、金髪のスレンダーな男が姿を現した。
「あ、目覚めた? てか、前隠して」
ベルベット絨毯のフリンジのような髪は、室内照明に輝いて透けている。ブラッド・ムーンを思わせる赤い瞳は特徴的だが、端正な顔のアクセントになって、妖しく美しい男を作り上げている。
なんていう男を、セレーンはよく知っていた。
見開いた目が乾いていく。セレーンはカラカラの喉を叱咤して、その男に、慎重にこう問いかけた。
「吸血鬼……?」