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第十一話 赤いドレスの美女篇

「やっぱ人間の食べ物は、人間の体で食べた方が美味いわ」

「そう……すか……?」


 食後の紅茶は、白磁のティーカップ。持ち手をその細い指で優雅につまんで、けれど肘はテーブルにつけたまま、人魚は淹れたてを一口含んだ。長方形のテーブルに対して横向きに座り、長い足を高々と組む様はやけにこなれていると感じる。この人の下半身が、つい昨日まで魚であったとは、青年には到底思えなかった。

 タイトな赤いドレスのスリットがはだけて、大胆に露出した両足の艶めきをぼうっと眺めていると、ふいにその足が持ち上げられて、靴底が目の前に迫ってきた。


「うわッ、人を蹴ったらだめなんですよっ!」

「知ってるわよ。お前の反応が薄いからでしょっ? わたしが話しているんだからちゃんと聞きなさいよ。何よ、なんか文句でもあんの?」

「文句っていうか……、ほんとに人魚さんなんすか?」


 青年がまだ困惑の残った顔で問うと、人魚は心底呆れたように「はあ~~~~~」と溜息をついてみせた。


「まだ言ってんの? どっからどう見てもわたしでしょ?」

「俺の知ってる人魚さんに、足はなかったんすけど」

「昨日の夜生やしたんだもん」

「どうやって!?」

「何よぉ、吸血鬼のやつはすんなり受け入れてたじゃない」

「あれはあいつがおかしいんだよ。何もわからんまま朝飯食わされたこっちの身にもなれ」


 その時、キッチンで食器を洗っていた吸血鬼と、その手伝いをしていたゾンビ嬢が大食堂に戻ってきた。吸血鬼は、タキシードの上着のボタンを留めながら、談笑する二人に近づいてくる。けれど、その視線は横に逸らされていて、話の切り出し方を迷うように口をもごもごとさせていた。


「あ~……、人魚さん。というか、人魚さんじゃないというか。それで、どういう風の吹き回しなんです?」


 結局遠慮がちになった吸血鬼の問いに、人魚は、ふんと鼻を鳴らした。それから、わざとらしく憂うように頬杖をつき、遠くを眺めるような目をして言う。


「わたしも、覚悟が決まったって感じかしらね」

「それ、答えになってませんよね……」

「ねえあんたは、人魚さんが人間になれるの知ってたんすか?」

「いいや。でも、そうかもしれないとは思ってたかなぁ……」

「なんで!? いつ!?」

「いつっていうか……」


 吸血鬼はそこで一度言葉を切り、妙に深刻そうな顔でうつむいた。青年が訝しげに見つめていれば、吸血鬼は、口の中だけでつぶやくように、本当に小さな小さな声で一言だけ発した。


「赤髪が……」


 しかし、その後に続く言葉は出てこなかった。一瞬、思案するような素振りをした後は、いつもの調子で顔を上げて、「ほら、」と、人差し指を立てる。


「シャワー水槽号を作る前は、人魚さんったら、しばしば一人でお風呂に移動していたじゃない。レディ・アンデッドに運んでもらったわけでもなさそうなのに、どうやってたのかなあ……って、不思議に思ってたでしょ」

「そういえば……」

「ああ、普通に歩いて行ってたわ」

「ええっ!?」


 青年から、思わず素っ頓狂な声が上がる。驚いた拍子にテーブルを叩いて、ティーカップがガシャンと揺れた。当の本人は相も変わらずケロリとしたままだ。


「なんか、そのあの、すごい力で瞬間移動してるんだと思ってたっすよ!」

「そんな力は人魚にない」

「俺、人外事情とか知らねえから!」

「お前、瞬間移動する人魚の話聞いたことあるのか? 人魚はゴーストじゃないんだぞ」

「そ、そうだけど」


 移動してる現場に遭遇したことなんかなかったし……と言いかけた青年の頭に、今朝見た光景がよみがえる。暗い廊下を歩く全裸の女。赤髪。不格好な歩き方。


「あ、あれ……!?」

「あと、昔の話をすれば、この館に来るときも普通に歩いてきたわ」

「ええっ!?」

「じゃあ、レディは知っていたの?」


 吸血鬼に続いて、青年もゾンビ嬢を窺い見る。吸血鬼の後ろに控えていた彼女は、「うああ」と穏やかに呻いて、首を横に振った。

 明瞭にしゃべれない彼女に代わり、人魚が説明する。


「館の玄関で気を失った拍子に、人魚に戻ったわけよ。だから、わたしの人間フォルムを見るのは、ゾンビちゃんも今日が初めて」

「ああ、それなら、私が聞いていた話と辻褄が合うね」


 吸血鬼が顎に指を添え、納得したようにうなずいた。まだモヤモヤを抱える青年が口を開こうとすると、その前に人魚が、「そんなことより」、などと言いながら勢いをつけて立ち上がった。腰に手を当て、不遜に微笑む。


「これから、ゾンビちゃんのクローゼットを漁る会をするの。わたし用に何着か服を分けてもらうことになったんだ。だから、小僧も手伝え」

「え? 俺?」

「うああ」


 青年が、「俺?」と自分の顔を指さす。その手をゾンビ嬢が嬉しそうに掬い取って立ち上がらせた。その間に人魚は、残りの紅茶を風呂上りの牛乳がごとく一気飲みする。完全に一仕事やる気モードに切り替わった。


「さあ、わたしに似合うドレスを探すぞ」

「俺センスないっすよ!」

「お前はクローゼットをひっくり返す係だ」


 楽しげな女子二人と、彼女らに半ば無理やり背中を押される青年が、にぎやかに大食堂を出ていく。その様子を、吸血鬼は一人、黙って見送った。

 冷え切ったような静けさを、背筋に感じている。

 だだ広いダイニングテーブルに、ティーカップが二つだけ残されているのをしばらく見つめる。青年用に淹れた方が、まだほとんど口をつけられていないことに気が付いた。もったいない、せっかく私が淹れてあげたのに。ねえ、青年。吸血鬼は、ズズズ、と音を立てて残った紅茶を飲み干した。視線はぼんやりと一点を見つめ、思考は遠い昔に飛んで、香りも何も感じられない。


 §


 もしこれが昼間なら、複雑に張り巡らされた左車線の道路には、ガソリン車と赤い二階建てバスがひっきりなしに走る。もうちょっと行った先にある、あの女王の名を冠する重厚な時計塔周辺の話をすれば、時間によっては混雑を極め、タクシー運転手の腕の見せ所と呼ばれる。今は良い時間だ。日は昇らないが日付のすっかり変わった時間、心地いい湿った風が河から吹くのがわかるほど、交通の賑やかさは鳴りを潜めている。時代が時代だ。全ての人が寝静まる夜とまではいかないが、出歩く者と言えば働き者か不用心者かという頃合いで、ちょっとした化け物なんかが出やすい環境が、かろうじて整ってくれている。


 そのちょっとした化け物、というのは、例えば濃霧の中から黒い影として登場し、美女の首筋から鮮血を啜るような輩を想定して言っているのだが、はたして、あれはなんだろうな。

 大聖堂を背に、ホテルがある方向へテムズ川に架かる歩行者用の吊り橋を渡る。その中腹で視界の隅に捉えたのは、どうやら人の形をした漂流物らしかった。それは河を下っていく。シルエットは赤く縁どられている。怪我をしていて、血が水に溶けだしているのか。違う。髪と、美しいドレスだ。それは女性だった。真っ赤なドレスに身を包んだ女性が、河を流れているのだ。


 血を啜り生きる青年は、目を凝らしてその様子を眺めていた。いつかの記憶に、似たような画像が残っている。この美しさに、既視感がある。


 ああ、オフィーリアとかいう美女。


 何を思ったか、彼は橋を飛び降り、仮称・オフィーリアを救い上げることにした。実は彼にはコウモリのような羽があったし、己の影をコウモリに変えて使役することもできたし、自身が暮らすホテルの一室に、意識の無いびしょ濡れの美女を持ち帰ることくらい、いやはや、簡単なことであった。

 その美女は、目を覚ました時、自らのことを人魚だと名乗る。

 さあ、彼の不思議の、はじまり、はじまり。

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