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第十話 足音篇

 早朝、青年は不審な物音に目を覚ました。部屋の外から、聞きなれない足音がする。その人物はどこかおぼつかないリズムで、青年の寝室に近づいてきている。裸足でつま先を引きずっているのか、爪がフローリングをひっかく音も聞こえる。

 青年は耳が良かった。寝室の扉一枚を挟んだ程度ならば、細かい物音まで聞き取ることができる。さらに、普段から正確に音を拾っているおかげで、足音の癖を聞き分けることは昔から得意であった。


 吸血鬼さんは、こんなにフラフラした歩き方しない……。ゾンビの姉さんは、似てるけど、もっと一歩一歩に体重がかかった感じだったはず。


 無意識のうちに息を殺して扉を見つめていたが、足音はこちらに興味を示すこともなく、青年の寝室を通り過ぎた。どこに行くんだろう。謎の人物の行く先にあるものといえば、館の元の主人の部屋と、元使用人の部屋。どちらも、今は誰も使っていない部屋だ。用があるとすれば……浴室。小さい猫足のバスタブがある浴室だ。


 浴室といえば、少々わがままなあの人が思い浮かぶ。謎の人物はサロンの方向から歩いてきたので、ぴったりといえばぴったりだ。しかしあの人にはそもそも、足が生えていない。となると、もしかすると、自分のように茨の森に誘われてきた、「極夜の館」の新しい住人かもしれない。知らない場所に来てしまって、不安で徘徊しているのかも。


 青年は部屋を飛び出した。本当に新入りの人ならば、放っておくわけにはいかない。相手が人間とは限らない、安全な奴とも限らない、そんな発想は、怪物に囲まれすぎた青年の頭にはなかった。ランプを掲げて、廊下の先を照らし出す。


「あの、あんたもしかして……!?」


 そんな発想なかったので、その人物の予想だにしない外見に、青年の心臓はキュウッ……! と搾りあがった。


 夜闇そのものの暗い廊下、青年が持つランプに照らされ、赤い長髪が煌々と浮かびあがる。火と同化するようなその豊かな髪は、なぜかしとどに濡れている。

青年は視線を下げて、その胸元をまじまじと見つめた。目の前の女性――女性である――は、どう見ても完全な裸体であった。髪の毛先を束ねるように握り、胸元に両手を持ってきているせいで全てを見ることはできないが、しかし、白魚のような肌のどこをとっても、布で覆われているようには見えない。更に視線を下げる。すらりと長い足が、内ももを閉めるようにキュッと揃えられていた。


 スッ……と、青年は扉を閉じて、寝室に引き籠った。自分の心臓が、うるさいほどのドクドクとし、顔がほてってくるのがわかった。しばらくして、赤髪の彼女の気配が、部屋の前から離れていく。やがて足音も聞こえなくなると、今度は逆に血の気が引いてきて、青年は真っ青な顔でその場に膝をついた。

 青年は、扉にそっと額をつける。カスカスの声でつぶやいた。


「ホラーだ……美女が出てくるタイプのホラー体験っすよぉ……!」


 青年の体は震えていた。


「なんだあれあれあのあれ……? ほんとに新入りの人っすか……? 正体不明のなんか裸の……がそこいる……!」


 まだ朝の早い時間、しかし、落ち着いて寝なおすようなことはもちろんできない。でも、吸血鬼やゾンビ嬢に助けを求めに行くのも申し訳ない時間だった。青年は、扉の前に座り込んだまま、いっそ、もう一度来たら正体を問い詰めてやる……くらいの覚悟で己を昂らせ、獣らしく神経を張り詰めていた。集中が切れて、寝落ちするまで。



§



「君こら青年、いつまで寝ているつもりだい? もう朝ごはんでき……」

「痛ェッ!」

「……なんでドアの前で寝てるの?」


 午前8時。エプロンをつけた吸血鬼が、青年の寝室のドアを開けた。ドアは廊下に向かって開き、支えを失った青年は、そのまま前のめりに倒れて額を打ちつける。悶え転げる青年を、吸血鬼は困惑に満ちた顔で見下ろした。


「あ、ネェヤ……ア、朝!?」

「朝だよ。いったん起きて寝ぼけてここで寝落ちしたのかい? 馬鹿なの? 朝ごはんできてるよ」


 言って、吸血鬼は先に大食堂に向かって階段を下りていく。廊下の壁に埋め込まれた燭台全てには、既に火が灯っていた。


「いったん起きて寝ぼけてここで寝落ちした……かもしんね……」


 青年は、無人の廊下に向かってつぶやきを落とす。首をひねって、廊下の突き当りを見ると、サロンの扉は閉じられていた。反対方向を見る。浴室がある方向に、見える範囲で人影はなかった。


 大食堂につくと、十人掛けのダイニングテーブルには、既に朝食が用意されていた。別に、テーブル全体を使って豪奢な料理を並べているわけじゃない。トーストに、スクランブルエッグ、簡単なサラダ、ベーコン。紅茶は、おやつの時間よりスモーキーな香り。そんなイギリスかぶれの食卓は、本日も変わらぬ目覚めを提供するために、広いダイニングテーブルの一番奥の端っこ三席だけを細々と使いかじっている。もっと真ん中の方を贅沢に使えよ、と思うところ、「いや、配膳用のドアからはここの席が一番近いから」とは吸血鬼の談。確かに。


「君、あんなところで寝たらさすがに風邪をひくからね。気をつけなよ」

「あ、や、はい」


 自分の紅茶を最後に注ぎ終わって、吸血鬼が席についた。青年は、昨夜の出来事を彼に言うかどうか迷って、食堂の入り口に立ち尽くしたままだった。本当に館の新入りが来ているなら、言うべきだろうけれど。またなんか変な怪物かもしれないし、ごはん食べてからの方がいいんじゃない……? 吸血鬼さんは、もう知っていたりして。知ってて、放置したりはしていないかな。


「今、レディ・アンデッドに人魚さんを呼びに行ってもらっているからね。二人は、まだ来ていないかな?」

「あ、はい。うごく水槽号の音はしないっすね」


 そう答えてすぐに、青年は床を叩く硬い靴音を聞いて、後ろを振り返った。そして絶句した。


「そうだ、今のうちに人魚さんのごはんをトレイに取り分けて……」

「その必要はないわ」


 吸血鬼は、席を立ちかけた姿勢のまま、大食堂の入り口を見て固まった。彼を呼び止めたのは、鈴の音のような軽やかなソプラノ。よく知っているけれど、彼女が移動するけたたましい車輪の音は、今朝、まだ館を揺らしていない。


「小僧、手を貸しなさい。わたし、今日から人間の足で生活するわよ。いいわね、吸血野郎」


 驚きに満ちた表情の青年の横には、赤髪の人魚。彼女が、真っ赤なドレスに靴を履いて、勝気な瞳でこちらを見つめ、ゾンビ嬢に後ろから軽く支えられながらも、二本の足で立っていた。

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