表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/144

第九話 エリザベス嬢篇

 その夜、青年の寝室は静かにノックされた。ドアを開ければ、どこか緊張した面持ちの吸血鬼が立っており、部屋に招き入れるようにとせかしてくる。訝しげにしながらも中に入れてやれば、彼は小さくお礼を言って、ふっと息をついた。青年はドアを閉めた後、「何かあったんすか」と尋ねてみる。その時向き合って初めて、吸血鬼が胸に一冊の分厚い本を抱えているのに気付いた。


 今日は昼前からゾンビ嬢の腕のことで大騒ぎし、おかげでみんな昼食を食べ損ねた。事が解決した後は揃って早めの夕食を取り、気疲れしたのもあってそのまま大分早めの就寝と相成った。日が昇らず常に沈黙に包まれた茨の森の中。正直、いつも起きている時間が本当に朝かどうかも怪しいくらいだ。時計の針が示す数字が多少早かったくらいじゃ、問題にもならず寝付ける。青年なんかは、日光に当たらないせいで体内時計が働かず、慢性的な寝不足となって、一日中軽い眠気を感じているくらいだった。睡眠時間は足りているんだ。なのに隈が消えないのは館のせいだろ。逃げよう。脱出する。必ずだ。


 青年以外の館の住人について言うなら、吸血鬼とゾンビ嬢は、人間ほど規則正しい睡眠を必要としていない。しかし、人魚は毎晩大水槽の中で睡眠をとっているので、彼女が眠る時はゾンビ嬢もサロンに引きこもり、ソファで眠っているようだった。今頃も、二人仲良く就寝していることだろう。


 青年も、今すぐベッドに転がってやろうというところだったのだ。シャワーだってもう済ませた。そこに吸血鬼が訪ねてきたのだ。館の住人が青年の部屋に来ることは珍しかった。ベッドと簡単な机、椅子以外は何もない部屋なので、そもそも用事がないのである。青年と遊ぶならサロンやダイニングで遊ぶ。


 何か用かと問うと、吸血鬼はまず青年のベッドに腰かけた。古いが上等な布団だ、これ以上綿が萎むのは避けたい。文句を言おうと青年は口を開きかけたが、その前に吸血鬼が、


「レディ・アンデッドについて、今日気付いた話をしておきたくてね。彼女がサロンにいる以上、図書室ではちょっと気が引けたから」


と、大事に本を抱えたまま言った。


「エリザベート・バートリという女性を知っているかい?」


 部屋に一つしかない椅子をベッドの横に引っ張ってきて、青年は吸血鬼と正面から向き合って座る。そこで吸血鬼が青年に見せたのは、『世界の奇妙な犯罪集』という分厚い本だった。


「知らないっす」

「そうかい。ま、聞いてくれよ」


 吸血鬼は、その大判の本を膝の上に置き、すぐに目的のページを開いてみせた。そこには、てきとうなメモ用紙の切れ端が栞代わりに挟まっていた。


「エリザベート・バートリ。恐ろしげな伝説で有名な、昔の貴族だ。『血の伯爵夫人』の異名を持つ。女吸血鬼の元ネタになったとも言われる」

「知り合いっすか?」

「まさか。昔の貴族って言ったでしょ。1614年、彼女はこの年に死んだと、確実に記録されている」


 吸血鬼がメモ用紙を退けると、左側のページからエリザベート夫人の略年表が顔を出した。その年表の一番下、「寝室で死没」と書かれた欄を、トントンと指で叩いて示される。しかし、青年の目を引いたのは年表よりもその横の肖像画だった。赤いドレスに身を包み、まっすぐに立つ女性。リボン装飾が可愛らしく、肌は真っ白で顔は幼げ。赤が似合う、という印象を直感的に受ける人物だ。


「私が生まれた時代と、彼女が生きた時代は、一切被りもしていないよ」

「そうなんすか。いや、あんたが何歳か知りませんから、そう言われてもって感じっすけどね。でも吸血鬼って寿命が長いんなら、このエリザベートって人も、実はまだ生きてたりするんじゃないすか?」

「それはないよ。彼女は別に、本当の吸血鬼というわけではないからね」


 吸血鬼は青年の目の前に、もう一度本の表紙を掲げてみせる。そして、念押しするようにタイトルを読み上げた。


「『世界の奇妙な犯罪集』。彼女は人間の、連続殺人犯だよ」

「人間の……連続殺人犯?」


 青年は、途端に鼻をつぶすように擦って、眉間に皺を寄せた。なんだか、鮮明な血の匂いが漂ってきたような気がしたのだ。


「なんだって、そんな物騒な人の話を?」

「ほら今日、レディ・アンデッドの肌を見ただろう」

「え」


 あっけらかんとこちらを見つめて言う吸血鬼に、青年は罰の悪い思いに苛まれた。顎を引いて、下から様子をうかがうように正面の男を見る。声は落ち着いているようだったが、よく見ればその表情は少しひきつっているようだった。


「その話、していいんすか? 姉さんは嫌がってたんじゃ……」

「ま確かに釘を刺されたけれど。彼女、今はもう眠ってしまっているし」

「まずいっすよ。結構マジの怒り方されたでしょうが。ヒヤッとってか、怖かったもん。あんただってわかってんでしょ? ああ、だから、図書室で話せなかったんすね?」

「でも、君、館の謎を解かなければならないんでしょう」

「あ、え、それは……」


 青年は言葉に詰まることになった。唇を噛む。青年は混乱に陥ろうとしていた。青年の目標はもちろん、館の脱出だ。そのためには、謎だらけのこの森や館を調べ上げ、脱出の方法を見つけなければならない。その青年の意志に、吸血鬼はわりと協力的に接してくれていた。しかし、わからないのだ。なぜここでそんな話が出てくる? 館の謎とゾンビ嬢の肌とに、何の関係があるのか。それから、ゾンビ嬢の肌と連続殺人犯の女とが、どうやって繋がるのか?

 青年は吸血鬼に、すべての疑問をありのまま伝えた。吸血鬼の応答は、まず次の点から始まる。


「『血の伯爵夫人』の有名な伝説というのは、こういうものだ。彼女は夫の死後、自らの美しさや若さを保つことに憑りつかれた。自分の美貌を保つために、彼女が選んだ方法は残酷なものだった。若い娘の血を搾りとり、風呂に溜めて浴びる。血を直接飲むこともあったみたいだよ。彼女は領主の未亡人だったから、所有する村の娘を自宅に集め、必要なだけ血を摂取することができたわけだ。私としては、羨ましいことだけどね」

「それ、本当にいた人の話っすか……!? 作り話じゃなくて……?」

「驚いたことに、きちんと記録された実際の犯罪だよ。犯行の動機やら彼女の出自やらの話も書かれているけれど、それは一旦脇に置いて、私が見てほしいのはここの部分だよ」

「はい?」


 吸血鬼の指が指し示したのは、小さな枠に囲まれたコラム。補足的な情報が載っている部分であった。


「黒魔術とのつながり……?」

「そもそも、黒魔術っていうのは眉唾ものとされることが多いからね、この本では、知ってるとちょっと面白いでしょ、くらいの扱いで書かれているが。血の伯爵夫人の所業は、見るからに悪魔的で、黒魔術みたいだろう?」

「確かに、そうっすけど。これがゾンビの姉さんと何か関係あるんすか?」

「黒魔術というのは、美貌と関係深いよなあ、という話だよ。要はね」


 青年は首をかしげてみせた。みせたあと、ふと思うところがあって顔をしかめた。館の謎と解くんだと自分で言い出したわりには、こういう本から情報を探すようなことは吸血鬼に頼りきりである。それは、ちょっと本意ではないな、と思った。今度、図書室に行って、自分でも調べものをしてみよう。今は取りあえず、目の前の男の解説を聞いておく。


「エリザベート・バートリ夫人が行った残虐な所業は、実際には若返りの効果などなかったと言われている。けれど、若い血を浴びれば若さを保てると考えるのは、魔術的な発想であることに間違いはないよね」

「なんでですか」

「魔術とは、その根本に『見立て』の発想があるから……しまった。黒魔術の本も探してこればよかったね。……拙い解説をすれば、『若くなる』という目的のために、『若者の血』に塗れることを、『若くなる』行為に見立てる。見立てた行為は、不思議な力で現実になっていく……」

「はあ、なんとなくわかりました」

「よし」


 吸血鬼は、一つ頷いて続ける。思考を続けているからか、眉間の皺は、だんだんと深くなるようだった。


「夫人が美貌のために黒魔術的な方法を選んだことには、いろいろ気付かされるものがあるよね。人がどれほど美貌に執着し、狂えるか。それと、美貌に関する、黒魔術の可能性」

「さっきから遠回しっすね。結局何が言いたいんすか」

「君、もちろん、黒魔術で死体を動かすことができるのは知っているね?」

「……まあ」

「つまり、黒魔術でゾンビが作れるのは知っているね?」

「……なんか、多分、知ってると思います。墓から這い出てきたり……、そういうイメージありますよ」

「うん、レディ・アンデッドはゾンビだから、まずは確実に、黒魔術の産物だ」


 吸血鬼は、一度、口元をもごもごとさせた。


「それから、女性の美貌への執着を加味したとき、私はこう考えるんだよ。レディ・アンデッドは、不老不死を手に入れるため、自らゾンビになったんじゃないだろうか。レディの肌には継ぎ接ぎがあるが、あれは死体からゾンビを作る過程で、肉体の腐敗した部分を取り換えたものではない。なぜなら、継ぎ接ぎされているのは皮膚だけで、腐食が広がるはずの肉の部分は全て彼女自身の体だったからだ。では、なぜ皮膚だけ、他人や他の動物のものが張り付けられているのか。おそらく、皮膚を継ぎ接ぎする作業は、ゾンビの作成に関係なく、生前に行われたものだったんだよ。その目的は推し量ることしかできないが、若々しい肌を永延に保つためではないかな。若い人間や、動物の皮膚を加工して、皺やシミが増えた自分の肌の代わりに貼り付けていたんだよ。彼女は貴族時代の女性だもの、説得力があるだろう? 彼女に美貌への執着という要素を付け足すと、彼女の正体についても辻褄が合うんだ。彼女は、永遠の若さを保つため、最終的に不老不死となる黒魔術を実行した。しかし、その魔術は彼女の想像したものとは外れた結果をもたらす。彼女は、確かに不老不死となったが、醜い動く死体として、永遠の時を生きるようになってしまった……」

「あ」


 吸血鬼は、ここまで饒舌に語り続けていた。その様子を黙って見ていた青年は、普段不遜に見えるこの男が、ゾンビ嬢の醜い正体を暴くことにかけては、非常に言い出しにくい葛藤を抱えていたのだとわかった。常、彼はゾンビ嬢のことを「レディ・アンデッド」と、丁寧に呼びかける。ただでさえ愛嬌のある彼女の、かわいい彼女の、過去を、「血の伯爵夫人」になぞらえて暴くのだ。何のためか。青年のためか? 違う、この人は、暴かずにはいられない、そういう理由があるんじゃないか。

 でも。


「あんたの、想像ですよね」


 青年の、絞り出したようなその言葉に、吸血鬼は思わずという風に噴き出した。それから、喉の奥で笑い、本をパタン、と雑に閉じる。


「いや、そう」

「ですよね。その、エリザベートって人が、姉さんだってわけでもないんでしょ」

「そうだよ。レディ・アンデッドの佇まいに私の同郷レーダーが反応している。彼女は、私と同じイギリス人のはずだ。だけど夫人の名前はエリザベスではなく、エリザベート」

「なら……」

「だけど、そんな風に考えられるなーと思っちゃったんだよね。ほら、あの子、動物の血を好んだりするだろう? 生肉食べたりさ。私は以前からエリザベート・バートリの話を知っていたから、今日の肌の秘密のことも相まって、邪推してしまったのさ」

「本当のことなんかわからないのに、わざわざいやな想像をすることないでしょう。姉さんにも失礼っすよ。確かにゾンビだけど、きっと悪い黒魔術師の実験の被害者とかっすよ。あんなに、いい人なんだから」

「あはは、被害者かぁ。それもありかもしれないけれど……」


 そこで一度言葉を切り、吸血鬼はうつむいた。どこに向かって言っているのか。床か? 床に向かってしゃべっているのか、彼は、顔に前髪の影を落として、声を潜めて言う。


「もし何も悪いことをしていない子なら、じゃあ、今日みたいに私を睨みつける必要があったと思う? 後ろめたい事情もないのに、肌のことを何か言われそうになっただけで、あんなに普段優しい子が。君をすくませるほど、攻撃的になるかな?」


 吸血鬼は、影落ちた目元で、青年をすがるように見つめていた。

 なるほど、今日わざわざ本を持って寝室を訪ねてきたのは、不安だったからなんだなぁ。青年は、目の前の血を吸う化け物が大して怖くなかったので、一旦ため息をついてみた。確かに、俺だって、姉さんに嫌われたと思ったらショックっすもん。吸血鬼さんは頭がいいから、嫌われた理由を探そうとするのかも。

 あいにく、青年は、吸血鬼の問いには答えられなかった。だから、「わかんないっすけど……」と前置きして、答えられるところだけを答える。


「俺、あの時の姉さんにはビビッてないことになってるんで、そういうことはあんまり言わないでください」

「……ビビッて、ないことになってるって、なんだよ」

「そういう設定でいってるんで」

「どういうことかな?」

「だって……、姉さん、いつも俺に優しくしてくれるでしょ? あんただけ睨みつけて、俺には何もしなかったのって、俺を怖がらせる気はなかったからだと思うんすよ。だから」


 言って、不安げにというか、気恥ずかしげに唇をとがらせる青年を見て、吸血鬼はやっと、いつものように眉をハの字に下げて笑った。


「君は優しいね」

「優しいのは、姉さんですよ」


 吸血鬼はさらに可笑しそうにニンマリと微笑んでから、本を持って立ち上がった。


「そうだね、そんな優しいあの子の過去は、あまり詮索しないようにしておこうか。思えば、レディの見た目について不躾だった……」


 私も疲れているのかもしれない。今日のところはお暇するよ。吸血鬼はわざとらしく伸びをしながらそう言い、青年に向けて人差し指を立てウインクする。


「君も早く寝なね」

「あんたが来なけりゃとっくに寝てますよ。……図書室に戻るんすか?」

「いいや、このまま自分の寝室で休もうと思うよ」

「あんた自分の寝室あったんか」


 そうだ。

 戸口に向かう吸血鬼が、ドアノブに手をかける直前、もう一度青年を振り返る。

 本が読める程度に、卓上のランプのみがつけられた青年の寝室。寝る直前の静謐さを取り戻さんとする部屋の中で、わずかな光源に反射して、赤い瞳の吸血鬼が、鋭い光をにじませた。


「だけど君、自分が人間のつもりなら、この館で生活する上で一つ意識した方がいいと思うことがある。この点、レディはわかりやすい。……ただの被害者には、手錠はつけられないのだよ」


 バタン。吸血鬼が、ドアの向こうに消えた。

 青年は、ランプの明かりを消して、ベッドに潜り込む。

 吸血鬼の、去り際の妙な恐ろしさが、青年の頭の中をぐるぐると回っていた。「自分が人間のつもりなら」。彼の独特の言い回しは時々、理解できないことがある。けれど。手錠。ポップでかわいい、ポケッとした見た目に馴染みすぎて、普段あまり、その意味を気にされなかった手錠。よく、吸血鬼をしばく鞭になっていた。あれ。あれの話ね。

 青年はふと、「血の伯爵夫人」の肖像画を思い出した。赤の似合う、可愛らしい印象の女性だった。赤が似合うのはゾンビ嬢も同じだ。赤いドレスをよく着ているから、そう思うのかもしれない。いやいや、姉さんは、ピンクのフリフリを着ていることの方が多いはずだぞ。だから大丈夫だ。何が? そういえば、あの残虐な犯罪者が着ていたリボンドレスも十分に可愛らしく、ゾンビ嬢によく似合いそうだった。


 吸血鬼は、ゾンビ嬢の正体についての自分の推理を、信じるつもりなんだ。青年には、それだけしっかり理解できた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=209549578&size=200
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ