第九話 エリザベス嬢篇
その夜、青年の寝室は静かにノックされた。ドアを開ければ、どこか緊張した面持ちの吸血鬼が立っており、部屋に招き入れるようにとせかしてくる。訝しげにしながらも中に入れてやれば、彼は小さくお礼を言って、ふっと息をついた。青年はドアを閉めた後、「何かあったんすか」と尋ねてみる。その時向き合って初めて、吸血鬼が胸に一冊の分厚い本を抱えているのに気付いた。
今日は昼前からゾンビ嬢の腕のことで大騒ぎし、おかげでみんな昼食を食べ損ねた。事が解決した後は揃って早めの夕食を取り、気疲れしたのもあってそのまま大分早めの就寝と相成った。日が昇らず常に沈黙に包まれた茨の森の中。正直、いつも起きている時間が本当に朝かどうかも怪しいくらいだ。時計の針が示す数字が多少早かったくらいじゃ、問題にもならず寝付ける。青年なんかは、日光に当たらないせいで体内時計が働かず、慢性的な寝不足となって、一日中軽い眠気を感じているくらいだった。睡眠時間は足りているんだ。なのに隈が消えないのは館のせいだろ。逃げよう。脱出する。必ずだ。
青年以外の館の住人について言うなら、吸血鬼とゾンビ嬢は、人間ほど規則正しい睡眠を必要としていない。しかし、人魚は毎晩大水槽の中で睡眠をとっているので、彼女が眠る時はゾンビ嬢もサロンに引きこもり、ソファで眠っているようだった。今頃も、二人仲良く就寝していることだろう。
青年も、今すぐベッドに転がってやろうというところだったのだ。シャワーだってもう済ませた。そこに吸血鬼が訪ねてきたのだ。館の住人が青年の部屋に来ることは珍しかった。ベッドと簡単な机、椅子以外は何もない部屋なので、そもそも用事がないのである。青年と遊ぶならサロンやダイニングで遊ぶ。
何か用かと問うと、吸血鬼はまず青年のベッドに腰かけた。古いが上等な布団だ、これ以上綿が萎むのは避けたい。文句を言おうと青年は口を開きかけたが、その前に吸血鬼が、
「レディ・アンデッドについて、今日気付いた話をしておきたくてね。彼女がサロンにいる以上、図書室ではちょっと気が引けたから」
と、大事に本を抱えたまま言った。
「エリザベート・バートリという女性を知っているかい?」
部屋に一つしかない椅子をベッドの横に引っ張ってきて、青年は吸血鬼と正面から向き合って座る。そこで吸血鬼が青年に見せたのは、『世界の奇妙な犯罪集』という分厚い本だった。
「知らないっす」
「そうかい。ま、聞いてくれよ」
吸血鬼は、その大判の本を膝の上に置き、すぐに目的のページを開いてみせた。そこには、てきとうなメモ用紙の切れ端が栞代わりに挟まっていた。
「エリザベート・バートリ。恐ろしげな伝説で有名な、昔の貴族だ。『血の伯爵夫人』の異名を持つ。女吸血鬼の元ネタになったとも言われる」
「知り合いっすか?」
「まさか。昔の貴族って言ったでしょ。1614年、彼女はこの年に死んだと、確実に記録されている」
吸血鬼がメモ用紙を退けると、左側のページからエリザベート夫人の略年表が顔を出した。その年表の一番下、「寝室で死没」と書かれた欄を、トントンと指で叩いて示される。しかし、青年の目を引いたのは年表よりもその横の肖像画だった。赤いドレスに身を包み、まっすぐに立つ女性。リボン装飾が可愛らしく、肌は真っ白で顔は幼げ。赤が似合う、という印象を直感的に受ける人物だ。
「私が生まれた時代と、彼女が生きた時代は、一切被りもしていないよ」
「そうなんすか。いや、あんたが何歳か知りませんから、そう言われてもって感じっすけどね。でも吸血鬼って寿命が長いんなら、このエリザベートって人も、実はまだ生きてたりするんじゃないすか?」
「それはないよ。彼女は別に、本当の吸血鬼というわけではないからね」
吸血鬼は青年の目の前に、もう一度本の表紙を掲げてみせる。そして、念押しするようにタイトルを読み上げた。
「『世界の奇妙な犯罪集』。彼女は人間の、連続殺人犯だよ」
「人間の……連続殺人犯?」
青年は、途端に鼻をつぶすように擦って、眉間に皺を寄せた。なんだか、鮮明な血の匂いが漂ってきたような気がしたのだ。
「なんだって、そんな物騒な人の話を?」
「ほら今日、レディ・アンデッドの肌を見ただろう」
「え」
あっけらかんとこちらを見つめて言う吸血鬼に、青年は罰の悪い思いに苛まれた。顎を引いて、下から様子をうかがうように正面の男を見る。声は落ち着いているようだったが、よく見ればその表情は少しひきつっているようだった。
「その話、していいんすか? 姉さんは嫌がってたんじゃ……」
「ま確かに釘を刺されたけれど。彼女、今はもう眠ってしまっているし」
「まずいっすよ。結構マジの怒り方されたでしょうが。ヒヤッとってか、怖かったもん。あんただってわかってんでしょ? ああ、だから、図書室で話せなかったんすね?」
「でも、君、館の謎を解かなければならないんでしょう」
「あ、え、それは……」
青年は言葉に詰まることになった。唇を噛む。青年は混乱に陥ろうとしていた。青年の目標はもちろん、館の脱出だ。そのためには、謎だらけのこの森や館を調べ上げ、脱出の方法を見つけなければならない。その青年の意志に、吸血鬼はわりと協力的に接してくれていた。しかし、わからないのだ。なぜここでそんな話が出てくる? 館の謎とゾンビ嬢の肌とに、何の関係があるのか。それから、ゾンビ嬢の肌と連続殺人犯の女とが、どうやって繋がるのか?
青年は吸血鬼に、すべての疑問をありのまま伝えた。吸血鬼の応答は、まず次の点から始まる。
「『血の伯爵夫人』の有名な伝説というのは、こういうものだ。彼女は夫の死後、自らの美しさや若さを保つことに憑りつかれた。自分の美貌を保つために、彼女が選んだ方法は残酷なものだった。若い娘の血を搾りとり、風呂に溜めて浴びる。血を直接飲むこともあったみたいだよ。彼女は領主の未亡人だったから、所有する村の娘を自宅に集め、必要なだけ血を摂取することができたわけだ。私としては、羨ましいことだけどね」
「それ、本当にいた人の話っすか……!? 作り話じゃなくて……?」
「驚いたことに、きちんと記録された実際の犯罪だよ。犯行の動機やら彼女の出自やらの話も書かれているけれど、それは一旦脇に置いて、私が見てほしいのはここの部分だよ」
「はい?」
吸血鬼の指が指し示したのは、小さな枠に囲まれたコラム。補足的な情報が載っている部分であった。
「黒魔術とのつながり……?」
「そもそも、黒魔術っていうのは眉唾ものとされることが多いからね、この本では、知ってるとちょっと面白いでしょ、くらいの扱いで書かれているが。血の伯爵夫人の所業は、見るからに悪魔的で、黒魔術みたいだろう?」
「確かに、そうっすけど。これがゾンビの姉さんと何か関係あるんすか?」
「黒魔術というのは、美貌と関係深いよなあ、という話だよ。要はね」
青年は首をかしげてみせた。みせたあと、ふと思うところがあって顔をしかめた。館の謎と解くんだと自分で言い出したわりには、こういう本から情報を探すようなことは吸血鬼に頼りきりである。それは、ちょっと本意ではないな、と思った。今度、図書室に行って、自分でも調べものをしてみよう。今は取りあえず、目の前の男の解説を聞いておく。
「エリザベート・バートリ夫人が行った残虐な所業は、実際には若返りの効果などなかったと言われている。けれど、若い血を浴びれば若さを保てると考えるのは、魔術的な発想であることに間違いはないよね」
「なんでですか」
「魔術とは、その根本に『見立て』の発想があるから……しまった。黒魔術の本も探してこればよかったね。……拙い解説をすれば、『若くなる』という目的のために、『若者の血』に塗れることを、『若くなる』行為に見立てる。見立てた行為は、不思議な力で現実になっていく……」
「はあ、なんとなくわかりました」
「よし」
吸血鬼は、一つ頷いて続ける。思考を続けているからか、眉間の皺は、だんだんと深くなるようだった。
「夫人が美貌のために黒魔術的な方法を選んだことには、いろいろ気付かされるものがあるよね。人がどれほど美貌に執着し、狂えるか。それと、美貌に関する、黒魔術の可能性」
「さっきから遠回しっすね。結局何が言いたいんすか」
「君、もちろん、黒魔術で死体を動かすことができるのは知っているね?」
「……まあ」
「つまり、黒魔術でゾンビが作れるのは知っているね?」
「……なんか、多分、知ってると思います。墓から這い出てきたり……、そういうイメージありますよ」
「うん、レディ・アンデッドはゾンビだから、まずは確実に、黒魔術の産物だ」
吸血鬼は、一度、口元をもごもごとさせた。
「それから、女性の美貌への執着を加味したとき、私はこう考えるんだよ。レディ・アンデッドは、不老不死を手に入れるため、自らゾンビになったんじゃないだろうか。レディの肌には継ぎ接ぎがあるが、あれは死体からゾンビを作る過程で、肉体の腐敗した部分を取り換えたものではない。なぜなら、継ぎ接ぎされているのは皮膚だけで、腐食が広がるはずの肉の部分は全て彼女自身の体だったからだ。では、なぜ皮膚だけ、他人や他の動物のものが張り付けられているのか。おそらく、皮膚を継ぎ接ぎする作業は、ゾンビの作成に関係なく、生前に行われたものだったんだよ。その目的は推し量ることしかできないが、若々しい肌を永延に保つためではないかな。若い人間や、動物の皮膚を加工して、皺やシミが増えた自分の肌の代わりに貼り付けていたんだよ。彼女は貴族時代の女性だもの、説得力があるだろう? 彼女に美貌への執着という要素を付け足すと、彼女の正体についても辻褄が合うんだ。彼女は、永遠の若さを保つため、最終的に不老不死となる黒魔術を実行した。しかし、その魔術は彼女の想像したものとは外れた結果をもたらす。彼女は、確かに不老不死となったが、醜い動く死体として、永遠の時を生きるようになってしまった……」
「あ」
吸血鬼は、ここまで饒舌に語り続けていた。その様子を黙って見ていた青年は、普段不遜に見えるこの男が、ゾンビ嬢の醜い正体を暴くことにかけては、非常に言い出しにくい葛藤を抱えていたのだとわかった。常、彼はゾンビ嬢のことを「レディ・アンデッド」と、丁寧に呼びかける。ただでさえ愛嬌のある彼女の、かわいい彼女の、過去を、「血の伯爵夫人」になぞらえて暴くのだ。何のためか。青年のためか? 違う、この人は、暴かずにはいられない、そういう理由があるんじゃないか。
でも。
「あんたの、想像ですよね」
青年の、絞り出したようなその言葉に、吸血鬼は思わずという風に噴き出した。それから、喉の奥で笑い、本をパタン、と雑に閉じる。
「いや、そう」
「ですよね。その、エリザベートって人が、姉さんだってわけでもないんでしょ」
「そうだよ。レディ・アンデッドの佇まいに私の同郷レーダーが反応している。彼女は、私と同じイギリス人のはずだ。だけど夫人の名前はエリザベスではなく、エリザベート」
「なら……」
「だけど、そんな風に考えられるなーと思っちゃったんだよね。ほら、あの子、動物の血を好んだりするだろう? 生肉食べたりさ。私は以前からエリザベート・バートリの話を知っていたから、今日の肌の秘密のことも相まって、邪推してしまったのさ」
「本当のことなんかわからないのに、わざわざいやな想像をすることないでしょう。姉さんにも失礼っすよ。確かにゾンビだけど、きっと悪い黒魔術師の実験の被害者とかっすよ。あんなに、いい人なんだから」
「あはは、被害者かぁ。それもありかもしれないけれど……」
そこで一度言葉を切り、吸血鬼はうつむいた。どこに向かって言っているのか。床か? 床に向かってしゃべっているのか、彼は、顔に前髪の影を落として、声を潜めて言う。
「もし何も悪いことをしていない子なら、じゃあ、今日みたいに私を睨みつける必要があったと思う? 後ろめたい事情もないのに、肌のことを何か言われそうになっただけで、あんなに普段優しい子が。君をすくませるほど、攻撃的になるかな?」
吸血鬼は、影落ちた目元で、青年をすがるように見つめていた。
なるほど、今日わざわざ本を持って寝室を訪ねてきたのは、不安だったからなんだなぁ。青年は、目の前の血を吸う化け物が大して怖くなかったので、一旦ため息をついてみた。確かに、俺だって、姉さんに嫌われたと思ったらショックっすもん。吸血鬼さんは頭がいいから、嫌われた理由を探そうとするのかも。
あいにく、青年は、吸血鬼の問いには答えられなかった。だから、「わかんないっすけど……」と前置きして、答えられるところだけを答える。
「俺、あの時の姉さんにはビビッてないことになってるんで、そういうことはあんまり言わないでください」
「……ビビッて、ないことになってるって、なんだよ」
「そういう設定でいってるんで」
「どういうことかな?」
「だって……、姉さん、いつも俺に優しくしてくれるでしょ? あんただけ睨みつけて、俺には何もしなかったのって、俺を怖がらせる気はなかったからだと思うんすよ。だから」
言って、不安げにというか、気恥ずかしげに唇をとがらせる青年を見て、吸血鬼はやっと、いつものように眉をハの字に下げて笑った。
「君は優しいね」
「優しいのは、姉さんですよ」
吸血鬼はさらに可笑しそうにニンマリと微笑んでから、本を持って立ち上がった。
「そうだね、そんな優しいあの子の過去は、あまり詮索しないようにしておこうか。思えば、レディの見た目について不躾だった……」
私も疲れているのかもしれない。今日のところはお暇するよ。吸血鬼はわざとらしく伸びをしながらそう言い、青年に向けて人差し指を立てウインクする。
「君も早く寝なね」
「あんたが来なけりゃとっくに寝てますよ。……図書室に戻るんすか?」
「いいや、このまま自分の寝室で休もうと思うよ」
「あんた自分の寝室あったんか」
そうだ。
戸口に向かう吸血鬼が、ドアノブに手をかける直前、もう一度青年を振り返る。
本が読める程度に、卓上のランプのみがつけられた青年の寝室。寝る直前の静謐さを取り戻さんとする部屋の中で、わずかな光源に反射して、赤い瞳の吸血鬼が、鋭い光をにじませた。
「だけど君、自分が人間のつもりなら、この館で生活する上で一つ意識した方がいいと思うことがある。この点、レディはわかりやすい。……ただの被害者には、手錠はつけられないのだよ」
バタン。吸血鬼が、ドアの向こうに消えた。
青年は、ランプの明かりを消して、ベッドに潜り込む。
吸血鬼の、去り際の妙な恐ろしさが、青年の頭の中をぐるぐると回っていた。「自分が人間のつもりなら」。彼の独特の言い回しは時々、理解できないことがある。けれど。手錠。ポップでかわいい、ポケッとした見た目に馴染みすぎて、普段あまり、その意味を気にされなかった手錠。よく、吸血鬼をしばく鞭になっていた。あれ。あれの話ね。
青年はふと、「血の伯爵夫人」の肖像画を思い出した。赤の似合う、可愛らしい印象の女性だった。赤が似合うのはゾンビ嬢も同じだ。赤いドレスをよく着ているから、そう思うのかもしれない。いやいや、姉さんは、ピンクのフリフリを着ていることの方が多いはずだぞ。だから大丈夫だ。何が? そういえば、あの残虐な犯罪者が着ていたリボンドレスも十分に可愛らしく、ゾンビ嬢によく似合いそうだった。
吸血鬼は、ゾンビ嬢の正体についての自分の推理を、信じるつもりなんだ。青年には、それだけしっかり理解できた。




