第一話
そこは『極夜の館』。怪物の住まう地の彼方。月影も通さない茨の森の中。
棘に覆われた黒色の大小さまざまな枝が、網のように絡みあっている。そんな空間を、青年は悔しさに任せてくぐり抜けていった。スピードは落とさず、枝同士の大きい隙間を見つけては器用に飛び込んで、ああ慣れちまったなぁ、何で慣れてんだ、慣れたくねえんだよこっちはよぉ。茨の森に飲み込まれた洋館。辿り着いた勢いそのままに古ぼけた木戸を開く。
「なんで出れねえんすかねぇ!?」
ピッと、青年の良い耳が、間抜けな電子音を拾った。ひくり、いらだちに震えるこめかみに、伸びの良いテノールが答える。
「先月より0.02秒縮んだね。可哀そうに、辿り着かない門に向かって、いつもより粘っていたようだったから、実質最高記録なんじゃない?」
英国マナーハウス風の玄関ホールには、入って正面奥に両階段が構えられている。その斜めに伸びる左翼の中腹で、小洒落たタキシードの若い男が、ストップウォッチを片手にこちらを見下ろしていた。
「人の気持ちも知らねえで計ってんじゃないっすよぉ!」
「じゃあ、その気持ちとやらを表明してもらおうか。今回は何だって飛び出したの? 食器棚に虫がいた? 枕の臭いが気になった?」
「だから、俺はもうここから出たいんだって! 怪物だらけの家にたった一人放り込まれた人間の気持ち、吸血鬼のあんたにはわからないでしょうけどねえ!」
「だから、それはいつも聞かされている建前の話だろう。そうじゃなくて、今日このタイミングで館を飛び出した理由を聞きたいんだよ。あ、もしかして、朝食のジャムが気に入らなかった? それはねえ、私も少しだけ思った。賞味期限が先々月で、まあ行けるかなと思ったんだけど――」
「あああああもういいっす! あんたとマトモに口利くだけ無駄っす。近づいてこないでください」
「うああ」
階段を下りてくる吸血鬼から逃げるように、青年が後ずさる。そこで、頭上から低いうめき声が聞こえ、青年の茶色い短髪が何か柔らかいものに包まれた。
「な、え、あ、タオル? あ、ゾンビの姉さん。ありがとうございます」
「うああ」
青年の背後にいたのは長身の女性である。ハイヒールを履いているのもあって、青年より頭一つ分は大きく、長いおさげ髪とフリルのボンネットで迫力はマシマシである。まあ特徴と言えば、何よりもまず顔面や腕にある肉皮の継ぎ接ぎだが、青年はこれを、合いびき肉にしたら丁度いい割合になりそうだなという風に思っていた。それよりも、彼女に近付いた時に漂う死臭が苦手で、青年は礼を言うと、そのゾンビの女性から少しだけ距離を取った。両手を繋ぐ手錠は生前からのものだろうと、以前吸血鬼から聞いたが、青年が見る限り死臭以外は心優しい女性である。
「ほら、レディ・アンデッドは君が大好きなんだよ。君がケガして帰ってこないか、いつも心配して待っているんだ。こんな健気な子を置いてここを出て行こうなんて、どうかしていると思うんだけど。というか、正直、この茨の森を徒歩で出て行こうなんてどうかしてると思うんだけど」
「うるさいっすね、あんたいちいち……」
いつの間にか傍まで来ていた吸血鬼が、ブロンドの前髪をかき上げている。やれやれといったその様子に、イラっとして脇腹を殴ると、ゾンビ嬢もまた青年に続いて、手錠の鎖を鞭のようにして彼の脇腹を殴った。
「痛っ、なんで。この私がせっかく出迎えてあげたというのに」
「いやいらないんすよ、出迎えとか。てか嫌なんすよ、出ていきたいんで。ほんと、入れたのに出られないとか意味わかんねえんすよ。あの茨はなんなんすか。なんであんなに大きいし、いっつも形が変わってんすか」
「いや、茨の気持ちは君の気持ち以上にわからないものだよね。だって植物なんだもん」
「姉さんこいつもっかい殴っていいよ」
「だけどね、私は長年この極夜の館に住んできたから、君よりはわかっていることもある。茨が中に招くのは、ここにふさわしい人物だけだ。なぜふさわしいのか、何がふさわしいのか。それこそわからないけれど、きっとふさわしいのであると私は確信しているよ。そう何度も説明したし、君もわかっているはずだ」
「……」
青年はこのわけのわからない言い分を聞くたび、決まってここに来た日の光景を思い出していた。森の外から森の中を見た、最初で最後の時である。青年の記憶は、森の入り口につっ立っている場面から始まっていた。そこで茨を眺めていると、不意に尖頭の黒門が木の間に現れたのだ。その地点からまっすぐ、森が割れるように小道が伸びて、極夜の館は建っていた。青年は、紛れもなくここに招かれていた。招かれていたと感じるから、吸血鬼の話もはっきりと否定できないし、森から出られないと悟れば、館まで帰ってくるのである。
「姉さんとかは、どうやってここに来たんでしょうねえ」
ゾンビ嬢を見上げて言ってみるも、彼女は目も口もぼやっと開けたままで、喉から漏れるような声しか出さない。青年のことを心配してくれていたと言うが、その様子は一見するだけでは中々わからないのだった。青年は笑って、タオルを畳み直し、吸血鬼の横を通り過ぎて二階に向かった。
「え? どこ行くの?」
「風呂ってきますよ。走って汗かいたんで」
言って、青年は向かって左側の廊下に消えた。吸血鬼は、青年の後ろ姿の面影を辿るように、玄関ホールから上を見上げる。ホールの天井は吹き抜けになっていて、高い所に採光窓が設けられている。しかし、そこから光が入り込むことはなく、壁の燭台の明かりだけが館の中を照らしていた。どの窓からも、見えるのは大きな茨の枝か、朝の来ない黒い空である。どこかの姫のように眠らされているわけでもないのに、永遠にこの景色を見続けるのは辛いだろうが――。青年の気持ちは理解できても、元々長毛だったであろう絨毯や、上等な構えだが灰っぽい暖炉は、たった一人の引き込もりには不釣り合いであった。
ゾンビ嬢の手錠の鎖が、吸血鬼の背中をドンと殴った。
「痛っ。なんで?」
「ううああう」
振り返ると、ゾンビ嬢は玄関扉を両手で支えていた。視線を辿ると、扉の上の方の番が外れかけている。吸血鬼はそのキイキイと鳴る場所に近付いて観察した後、眉を下げて笑った。
「ネジが外れただけのようだね。後で直しておこう。あの子には、扉は丁寧に開閉するようにと注意しないとね」
「うああ」
その時、ダダダダダと二階から激しい足音がして、館全体が揺れた。何事かと見上げれば、先程バスルームに行ったはずの青年が、再び階段の上に現れた。
「あああああのぉ!!! そうだった!!! そうでした!!! これっすよ、今日俺が出ていった理由!! 風呂! 人魚!! あいつまた私物化してる!!!」
ダンッ、ダンッ、地団駄で階段を揺らしながら、来た方を指さす青年。古い踊り場が軋むのを、吸血鬼は穏やかに見つめた。
「ああ……人魚さん……」
「いやなんすよ俺! 定期的にあの人と二人で風呂に入ることになるの! 湯舟使えないし!」
「それは君、私も嫌だよ。だけど少しは多めに見てやれないかな? だってあの人は人魚なんだ。たまには水槽以外の水に浸かりたいときだってあるはずだろう」
「姉さん!」
「うあう」
「痛っ。わかった、私から言うよ」
青年を促し、ゾンビ嬢も引き連れて、三人で二階のバスルームまで赴く。一階には大浴場があるが、そちらは掃除が大変だという理由で使っていなかった。館の住人は、寝室の並びにある、一人用のネコ足バスタブが備わった方の浴室を共同利用しているのである。
脱衣所に入ると、シャワーの音が聞こえてきた。続いて浴室の扉を開ける。大理石の床の、明るく広い部屋の真ん中を贅沢に使って、白いカーテンが円状にかかっている。カーテンに透ける、シャワーを手に持ったシルエットは、ちょっとネッシーに似ていた。
誰も入ろうとしないので、まず吸血鬼が裸足になってズボンの裾をまくり、浴室に入った。それにぞろぞろと二人が続くのを確認すると、吸血鬼はバスタブを囲むカーテンを豪快に開けた。
「わっ、何?」
「何じゃないですよ、人魚さん。この子がお風呂に入れなくて困っているじゃない」
バスタブから飛び出た尾ヒレが、ぶるんと震えて雫を散らした。狭苦しく体を折り曲げていて、鎖骨から上は水に浸かっていない。人間なら耳にあたる場所に生えたヒレの状態が心配なところだが、シャワーをかけ続けているので乾燥することはなさそうだ。赤くやわらかなロングヘア―は、およそ乾いてサラサラである。
「この子~?」
人魚はぐるりと首を回し、吸血鬼の後ろに隠れるように立っている青年の姿を認めると、バスタブの水の中にシャワーを突っ込んだ。場の音が小さくなる。
「あ、小僧じゃん。お風呂入りたいなら、服脱がないとだめだよ」
「馬鹿か! 入りたくても入れないんだっつーの! お前がシャワーも何もかも占領してるせいでさ!」
「え、言ってくれればシャワー貸すよ? 横で風呂ってくれて全然いいけど」
「俺が気になるんすよ! あんた女の子でしょうが!」
「ええ……? 半分、魚なんだけど……(笑)」
グルルル、と青年が喉を鳴らす。人魚が半笑いでクイと首をかしげるのを見て、青年の手に力がこもった。いよいよタキシードを破られそうな吸血鬼が、まあまあ、という風に青年の肩を押し、でもね、と人魚に向かって続ける。
「レディ。人魚さん。あなたには水槽があるでしょう。あの全身入る大きなやつが。あれがあるのに、どうしてわざわざお風呂を使うの?」
人魚は再びシャワーを水から出して、鎖骨辺りに当て始めた。
「あれもいいんだけどね。あれって、わたしにとったら家じゃん? たまには別の所にも行ってみたいっていうか。……一番の理由は、ここにはシャワーがあることだよね。肩凝りに効くんだわ」
言って、あ、と、突然上体を起こした。バスタブから出ていた尾ヒレが引き寄せられてバシャンと水に浸かり、水面が大きく揺れて溢れて、三人は一歩ずつ後ろに下がる。
人魚はバスタブの縁に手をついて、吸血鬼を見上げて言った。
「水槽にシャワー付けてくれるなら、もうお風呂来ないよ」
しれっとした顔で言った。悪気も他意もなさそうな、可もなく不可もない提案をちょっと言ってみた感じの真顔であった。吸血鬼は、なるほどね……と、顎に手をあてて目を伏せる。
「……わかりました。検討しましょう。だから今日の所は、お風呂を明け渡してくれませんか?」
「ええ~? それってひどくない? もうお風呂来ないってことは、今日が最後の日になるかもしれないんだよ?」
「出ていかないと、水槽にシャワー付けませんよ」
「なるほどね。わかった~。ゾンビちゃん、水槽まで連れてってぇ」
ゾンビ嬢は、うんと頷き、人魚の脇の下に手を差し入れて持ち上げる。手錠で両手が繋がれていても、そのまま軽々と横抱きができる、とってもパワフルな嬢である。宙に浮いた尾ヒレがピチチッと細かく震えて、雫を飛ばした。
「人魚さんはいつもどうやって自力で風呂まで来てるんすかね?」
「誰も現場を見たことがないよね」
「じゃあね~」
「うあああ」
ゾンビ嬢に抱えられて浴室を出ていく人魚が、こちらにニコニコと手を振る。その誰も振り返すことのないファンサービスを無表情で見つめていた青年が、二人の姿が見えなくなった直後にポツリと呟いた。
「ゾンビの姉さんって、濡れても大丈夫なんすかね」
「え。さあ……?」
その時脱衣所から、ベシャッという音がした。振動が足下に伝わってくる。さては、人魚が床に落ちた。
「待ってやばいんだけど! ゾンビちゃん、急に力が抜けちゃった! 腐敗が進んだかもしんない!」
「うううあ……」
「姉さん!」
「レディ・アンデッド!?」
人魚の言葉を聞いて、青年と吸血鬼は血相を変え脱衣所に出る。浴室からそう進んでもない所に、人魚が仰向けに転がって床をベシャベシャにしていて、そのすぐ横で、ゾンビ嬢がこちらに背を向けて立っている。腕をだらんと下げ、猫背で、その生気を感じられない様子に、青年は慌ててゾンビ嬢の正面に回った。
「うわああ、大丈夫すか、姉さん! なんか顔色悪いっすよね? 元気なくなっちゃったんすか!?」
「顔色は普段と変わらない気がするけどね」
「それな」
「むしろ思いの他、重症というわけでもなさそうで安心しているよ」
「何言ってんすか! え? こんなもんだったっすか? ほんと? 姉さんこっち向いて! しっかりしてください!」
「確かに、小僧の方全然見ないね。めっちゃわたしと目ぇ合ってるわ」
「うああ」
「え? 気にしないでいいよ。わたし全然痛くないよ」
「これ、単に手を滑らせただけなんじゃないのかな。ほら人魚さん、つるつる美肌だから」
「そゆこと? ごめん?」
「あ、腕乾かした方がよくないっすか! 姉さんこっち来て! ドライヤー!」
青年は、人魚と吸血鬼の話を大して聞いていなかった。青年はゾンビ嬢の手を引き、ドレッサーの前に座らせる。鏡横の棚に備えたドライヤーを手にとって、慎重な手つきで、彼女の腕を乾かし始めた。
どん、と足に衝撃が走る。殴られた。吸血鬼は足下を見下ろす。人魚はいつの間にかうつ伏せになって、頬杖をついて青年とゾンビ嬢の様子を見ていた。丁度、こういう姿勢を人間がする時、膝を曲げるのと同じように尾を曲げていて、ヒレを左右に揺らしている。ヒレは、さっきの一撃以来、吸血鬼の脛を殴ることはなく、メトロノームのように大人しくしていた。
吸血鬼は、顔を上げてドレッサーの鏡を見た。鏡には、ゾンビ嬢の他、青年の横顔が映っている。縦長の楕円形で、枠縁は金色、しっかり磨いている鏡だ。
青年の鏡像は、黄褐色の毛皮に覆われた狼の顔をしていた。三角形の耳はやや伏せて見え、心配げに薄く口を開けており、表情はどうにも人間くさい。しかし、ちらりと覗く丈夫そうな牙、長い鼻筋の輪郭は、確かに狼のものであった。
鏡の前の青年は、丁寧に片方ずつ、ゾンビ嬢の腕を乾かしている。目の前の青年は人間の形をしている。開けっ放しの口に目を凝らしても、吸血鬼にあるような牙は見られない。肌が毛深いわけでもなく、特別鼻が長いわけでもない。丸っこい目は犬っぽいと言えるかもしれないが、その目の下にくっきりとついた隈は、この朝の来ない森で生活リズムが崩れてできたと言っていた。鏡中の狼との唯一の共通点は、毛皮と同色の髪の毛だ。
ドライヤーの風の音で、青年には聞こえないだろうか。いや、どうやら聴覚が鋭いようだから、聞こえてしまうかもしれない。吸血鬼は努めて言葉を選んで、先程の無言の訴えに、つぶやくように答えた。
「やはり、極夜にふさわしい者だけが招かれるということですよ。まだ黙っていてあげてくださいね」
「え? なんて?」
「そうか、こっちに聞こえなくなるんだね……」
青年には、鏡の中の自分がどう見えているのだろう。彼は毎朝、普通に鏡を見ながら、気に入りだという赤いスカーフを首に巻く。それでも、彼は自分のことを、「人間」であると断言するのだ。
「はい、できましたよ! どうっすか? 大丈夫そう?」
ドライヤーを切って、青年がゾンビ嬢の顔をのぞき込んだ。ゾンビ嬢は立ち上がって、力こぶを作る。青年は彼女の顔を見上げて、人間の顔でにっこりと笑った。
ここは『極夜の館』。怪物の住まう地の彼方。茨の森に招かれた迷い子たちは、今日も平和に暮らしている。