妻、芽生える
ミカルがベッターの籍に名を連ね、ハウロと夫婦となってから一週間――、二週間――。更に数日が経った。
未だ明確な男女の営みはないものの、毎日ベッドを共にしている二人。
初日は一睡もできなかったハウロだが執事クレースの助言などを貰い、安定して睡眠できるように軽い運動などを日常に取り入れ始めた。もちろん持病の事があるので医師の許可を得て、仕事の合間に様子を見つつ、ではあるが。
「旦那様、お待たせしました」
ハウロと共に領地を散歩がてら視察する時間。ミカルは軽く動きやすいワンピースドレスに着替え、つばの広い帽子を持ち、夫の待つ談話室へ顔を覗かせた。
「ああ……って、別に待ってない。お前、結局それか……」
言葉足らずで顔をしかめるハウロの言いたい事を、理解できるようになってきたミカル。思わず顔が緩む。
「値段の割に上質な生地だし着心地も素晴らしいわ。それに、私のためと旦那様が洋服を買ってくれるのが何よりも」
「わ、わかった。わかったから、もう黙れ……」
ハウロは顔を覆い乱暴に立ち上がって、ミカルを置いてずんずんと玄関へ向かう。これが照れ隠しであると知ったミカルは、こそばゆくなって小走りに夫を追いかけた。
領地には、農民や労働者が主に暮らす村と、ハウロの主治医が開業する診療所、小規模な工場。
最近舗装された石畳を走り抜ける子供たちに手を振りながら、ミカルはハウロと共にゆっくり歩く。
「うちだって別に金に困ってる訳じゃない。もっと、その、欲しい物とかあるだろ」
「いえ、今の所は十分すぎるくらいだわ」
男爵という階級である若輩のハウロから見ても、元伯爵令嬢にしては物を欲しがらないミカル。だが彼女は特段倹約家という訳でもないらしい。
「いいの、普段使いはこのくらいで丁度。ほら、これからお金を沢山使う機会があるのだから」
「……あれか」
げんなりしたハウロにミカルは苦笑いを返す。
「あれ、だなんて言っては駄目よ。あのお二方のお披露目ですもの」
「行きたくない……」
ミカルとて、ハウロを夜会になど行かせたくはない。だが彼は男爵とはいえ領地を持ち多税を納めている立場。招待されるのは必然であり、既に王太子と婚約者の披露夜会への招待状を貰っている。当然、夫婦でとのお達しだ。
「私が旦那様の傍にいて守りますから」
「お、お前、それ、そういうのは俺が……っ、くそっ」
ハウロは不甲斐なく感じながらも、自信を持って妻を守り切るとは言えなかった。心情としてはこの限りでないのだが。
それに、今更な悪評をミカルにだけは聞かれたくなかったハウロ。
共に寝起きする相手が現れた事で日々の生活習慣を変えたハウロは、その反動で今まであまり興味の無かった食事にも意識を向けるようになった。とにかく食事が美味しいと感じる。
「一日に一度でいいのです。一緒に食卓を囲む時間を下さい」
結婚二日目に、ハウロが「何か希望は」と聞いた際の妻の返事がこれで。
「そんなんでいいのか」
そう言いながら、夫婦は時間があれば毎食向かい合って食事を摂るようになった。美味しい食事と和やかな妻との語らい。楽しくない訳がない。
ハウロは最近、気分と体の調子がとてもいいのだ。
小さい庭が見える談話室を気に入ったらしいミカルを見て、庭師の手も借りながら当主自ら庭に手を加えたりもして。そんな彼が園芸の楽しさに目覚めたのも最近だった。
だからこそ、少し前からは考えられない今の幸せを崩したくないハウロ。そんな夫の不安をミカルは肌で感じつつも。
(私には社交界の噂をどうこうするなんて力はない。この人の傍にいて、ずっと笑いかけて、楽しい思いをさせ続ける事しか……)
王家が妃として不十分だと判断したと思われるミカルの性格や気質。
人を俯瞰で見て公平に人となりを判断できる目はあるが、それだけである。時に悪意には悪意を以て尊大に応じ、けん制する地位には立てない。気が弱くもなく強くもない。
ハウロの噂を何とかしたいと思ってはいても、自分にはその力がない。そう断じてしまう気概の無さがミカルの短所でも、長所でもあった。
「旦那様、楽しい事を考えましょう。ほら、あれ」
村の公園、その先の屋台を目線で指すミカル。甘く香ばしい匂いが二人のいる道まで漂ってきた。
常連とも言い難いが、視察という名の散歩をする際、二人はこの屋台の前をよく通る。年配の男性店員だったはずだが、今日は若い無骨な店員に変わっていた。
「カステラ! ねえ、旦那様、買ってくださいな」
「し、しかたな……いや、俺も食いたいんだからな!」
見上げてくるミカルを案の定直視できないハウロは、思わず彼女の手を引いて屋台へ足を向けた。
ミカル以上にハウロも甘い物が好きなのだと気付いたのは最近の事。特に散歩途中に食べるカステラは二人のお気に入りになった。
大昔、遠くカステーロという国が発祥となった菓子。この地方では、それは指で摘まめる程の丸い形状の物を指すようだ。
手を引かれたミカルは、これでもかというくらい優しい手に残念な気持ちを抱えた。
(こんなにも優しい人なのに……どうにか)
考え込んでいたミカルは、ハウロと屋台店員との会話に意識を戻す。
「はぁ、男爵様にお出しできるような上等なモンはありゃしませんよ」
「…………」
ムスっと不機嫌になったように見えるハウロだが、その横顔をミカルは知っている。警戒し、防御している時の顔。
ここで仏頂面の店員を強く咎められないのがミカルの性格というもので。
彼女は、するりとハウロの腕に手を絡ませる。
「な、お、おい……」
顔を赤くして慌てるハウロを見上げて、ミカルは敢えて普通に彼と接した。
「私たち別に普段から上等な物を食べてる訳じゃないわ。屋台料理も大好きよ。ねえ、旦那様」
「あ、ああ、そうだが、そうなんだが……! はなれ」
「前の店員の方は快く売ってくれました。どうか、私たちを『差別』しないで下さいな」
申し訳なさそうに笑う領主夫人に、若く無骨な店員は、ばつの悪そうな顔をして頭を下げた。
「すまな……すいません」
紙袋にぽいぽいと焼きたての丸いカステラ放り込んでいく様子を見ながら、ミカルは何とも言えない空しさが胸をついた。
「あなた、王都から? ここは初めて?」
勘定する店員にミカルはそうなのだろうと思いつつも聞く。
「はい、今日、着いたばっかでして、その」
店員は、ちらりとハウロを見て、目を逸らす。
(……この人は噂を知っている人なんだわ)
ミカルの予想通り、新しい店員はここ男爵領に派遣となった事で領主の噂を予め聞いていたのだ。
「ここはとてもいいところよ。私も良くして貰っているわ」
店員と談笑する腕を組んだままのミカルを、ハウロはじっと見下ろした。
金を払い二袋を受け取り。
「店員」
ハウロは平坦な声で店員に呼びかけた。恐縮する無骨な彼だが。
「お前が勤める商会の屋台はどれも村の子供たちに人気だ。あまり怖がらせるなよ。しっかり励んでくれ」
「へ、へい」
ミカルが横を見上げると、そこには領主がいた。いつもミカルの前で見せる怒ったような慌てたような憔悴したような、照れた顔ではない。
三白眼は落ち着いて影が差し、細く高く伸びた鼻筋、外出の際は整えるようになった髪が一房額にうねり、頬にかかり、なんとも退廃的な長身の男がそこにはいたのだ。
ミカルは何故か心臓が握られたような心地になった。
(当然よ……旦那様はあの公爵家の血筋だもの)
噂と普段の口の悪さを知らずにハウロを見たとき、その妖しげな空気と風貌に惹かれる女性は間違いなくいるのだろう。未だ顔色は悪く頬は扱け、生まれつきの赤ら顔で薬の影響で目は腫れぼったく、不健康に痩せてはいるものの。
(……知らずあの不名誉な噂が女性避けになっていたのかしら)
嫉妬とも違うもやもやが何なのか分からないミカル。
いつもと様子が変わったミカルに気付くハウロ。
「おい、本当に、何も不足してないか? 不自由は……」
いつの間にか、ハウロはいつもの彼に戻っていた。眉を寄せ、眼球はきょろきょろと忙しなく動く、ミカルの良く知る夫。
「はい、全く。旦那様のお蔭で毎日が楽しいわ。旦那様は楽しくない?」
「ばっ……そんなわけ……お前、俺が毎日つまらなそうに見えるのか!?」
「いいえ、全く」
結婚前のハウロの様子など当然ミカルは正しく知る術もないが。「奥様を娶られてから旦那様は本当に楽しそうで」。使用人たちからそんな言葉を尽くされていたのだ。ミカルはそんな彼らの言葉に自信を持った。
心から幸せそうな若妻を伴い屋台を離れた、これまた周りに花でも飛んでいそうな領主の背をぼけっと見送った店員。彼はこの領地では貴族も村人も同じ屋台を利用するのだと覚えた。
そして。「噂もアテにならねえな」と呟き、前任の言葉を話半分で片づけた事を後悔した。
「お、おい、いつまで腕」
「旦那様、お嫌でしたら振り払ってもいいのよ」
「ば、馬鹿、それは危ない! い、嫌!? 嫌だなんて誰が言っ」
「あ、座りましょう、旦那様」
「おい……」
休憩がてら煉瓦のベンチに座って、近くの屋台で喉を潤せる飲み物も買って、出来立てのカステラを摘まむ領主夫妻。
その光景はここ最近で住民たちからは馴染みになりつつあった。二人が座る空間が日に日に縮まっていくのも。
「焼きたては特に美味しいわ」
「本当にそれ好きだな」
「美味しいんですもの」
店員とミカルが楽しそうに談笑――ハウロにはそう見えた――する光景に彼が感じた僅かな苛立ちは、既に無くなっていた。基本的に彼は他人に対する負の感情に自ら神経が削がれてしまう性質だ。
「……疲れた」
「お疲れには甘いものがいいと聞くわ。しっかり食べて、午後も頑張りましょう、旦那様」
「ああ……いや、疲れたって別にそういう」
ちらちらとミカルとの距離の近さを気にするハウロ。
いつもミカルの前で見せる照れた夫の顔。
静かに影を纏った雰囲気を漂わせる堂々とした領主らしい顔。
(どちらも旦那様は旦那様よ。でも私はやっぱり)
ちらりと見上げた先には、もしゃもしゃと丸いカステラ頬張るハウロがいる。
「な、なんだよ……」
見られている事に気付いて、ハウロは目を泳がせた。
「いえ、その」
とくとくと鳴る鼓動と共に、ミカルの中で着実に芽吹くものがある。
(私はいつもの旦那様の方が)
「好き、だわ」
ミカルは、ついぽろっと零れ落ちそうになり、咄嗟に口の中で呟いた。
先程のもやもやはこれだったのだと納得するのと、ハウロがぽかんとするのは同時であった。
「お前……俺だって好きだからな。やらんぞ!」
ハウロは自身が持つ紙袋を僅かに横に逸らしてみせた。
ミカルは一瞬理解が追い付かずに目線を下げる。自分の膝の上には空になった紙袋があって――。
自分でもよく分からない羞恥に襲われたミカルは。
「い、いりません……」
赤くなった顔をハウロに見られないように背けた。
「? おい、拗ねた、のか? 珍しい……や、やるから、ほら」
感情の起伏が無い訳ではないが、ミカルは普段決まった顔以外はあまり見せない。笑顔だったり唖然としたり、哀しげだったりはハウロも良く見る、いや、よくさせてしまうのだが。
「いりませんってば。私が凄く食い意地が張っているみたいじゃない……」
反論しようとミカルは振り向いてハウロを睨み上げた。まだ顔の熱が引かぬまま。
ミカルはこの日、自分が思わず発した「好き」がどういう類のものなのか、はっきりと自覚した。