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男爵、トラウマを告白する


 薄暗い自室、床に両膝をついたままソファに顔を埋めているのは、この屋敷の若旦那、ハウロ・ベッター。

 情けない恰好の主人を見下ろしても執事の決意は変わらない。戦に赴く戦士もかくやな表情だ。


「旦那様。直に日付が変わります。まだ遅くはありません」

「む、むりだ……あの、つっ、ミ……あ、あいつを、俺が。だ、抱く……無理だ!」

 妻ともミカルとも口に出せないハウロは、自分がいかに不甲斐なく情けない男であるのかを誰よりも自覚している。女を悦ばせる自信など彼には微塵も無いのだ。どうしても失敗した時の事ばかりが頭を過り、羞恥と恐怖で体が動かない。

 過去、兄目当てに誘惑してきた女との顛末を思い出してしまって、ハウロは震え出す。

「旦那様。奥様は、ただ一晩共に居るだけでもいいと仰っていました。一時でも体面が整えば後には響かないから、と」

 だが、ハウロはがばりと顔を上げてクレースを信じられないと見上げた。

「あ、あれと一晩寝室にいろだって!? 本気か!? お、お前男じゃないだろ!」

 ハウロは、つい、妻の姿を脳内に映し出してしまう。

 小顔の輪郭は形が良く、表情は理知的だが淑やかで柔らかな笑顔が印象的だった。目の覚めるような紺碧のやたら艶やかな髪、それが流れる細い肩。男ならば食指が動くメリハリのある体型。

 静かで、耳の奥に沁み渡る優しい声。


 唸りながら頭を振ってそんな煩悩を払う主に、クレースは容赦がない。

「男ですとも、失礼ですな。それより旦那様、覚悟の程を。貴方は奥様に触れてもなんら問題はない関係なのですから」

「ぐ、ぅ……それが出来たら、今こうしてうだうだしてないんだよ……!」

 あまり体が丈夫ではないハウロは、いつもなら既に就寝している時間だ。眠気に抵抗してまで、くだを巻くようにぐちぐちしているのは彼なりに思うところがあるからだ。一人待っているであろうミカルを想い、彼の胸は軋み続ける。

「それなら先に寝てしまえばよろしいのでは?」

 クレースは、ハウロにそれが出来ないと知りつつ嫌味を込める。

「か、可哀相だろ……」

 小さくなりまたソファに顔を埋め始めたハウロ。クレースはそんな主を労わることなく、はた、と考える。そして閃いた。

「そうです、先に寝てしまえばいいのですよ! 我ながら名案です!」

「だ、だから、あいつを無視して先に寝るなんて俺には無……」

「いえ、そうではなく。お二人の寝室で、旦那様だけが先に一人でお休みになられて、それから奥様に同床して貰いましょう!」

 ハウロは、あんぐりと口を開けた。

「は?」

「旦那様、物凄く眠いでしょう? 今なら目を閉じるだけで眠りに落ちそうでしょう? 奥様は今宵無理に旦那様と契ろうとは思っておられないのですし、いい案だと思いますが」

 根本的な事を分かっていない執事に、ハウロはとうとう立ち上がって対面した。

「お、お前、それやるなら俺に黙ってやってくれよ! 折角の名案を口に出すなよ! 後からミ……あいつが来るって分かってて眠れたら苦労してないんだよ……」

 ハウロは、この無茶苦茶な執事のお蔭で感情が振り切れた。彼の横を素通りして、自室の扉を乱暴に開ける。


「くそ……寝てろよ、頼む。もう寝てろ……」

 せめて眠っていたなら、そんな女性に無体を働く事はない、とハウロは一抹の望みにかけて夫婦の寝室へ勢いだけで歩を進めた。

 静かで仄暗い廊下をずんずんと進むハウロの背を見送って、クレースは万感の思いで涙を拭った。

「ハウロ坊ちゃん……どうか御武運を」

 クレースとて本当は、とことんまでハウロを甘やかしたいのだろう。

 しかしそれだけでは真に彼のためにならないと知っているのだ。心を鬼にしても、たとえ煙たがられても、こうして背を押す役目を担おうと決意した。

 これからハウロを甘やかすのは伴侶の役目となるのだと、彼は予感を抱いたのだ。



「まあ、旦那様……今夜はもう来られないかと」

 無慈悲にも、ミカルは起きて夫を待っていた。

 ベッドランプの灯りに照らされたミカルは、襟ぐりがゆるやかなネグリジェを身に纏っており、ハウロの脳をかき混ぜた。

「良かった……」

 妻の心底ほっとしたような呟きをハウロは耳に入れてしまい、罪悪感と高揚が同時に襲う。

 半ば混乱して茫然自失状態のハウロはしかし、思いの丈をぶつけ、妻に分かってもらうためにここに来たのだ。しっかりと脳内で文章を組み立てている。

「お、お前に、言わなければならない事がある」

 目をきつく閉じ何かを決意したかのような夫に、ミカルは無情な薦めをした。

「あの、旦那様。まずはお座りになりませんか?」

 夫婦のベッドを目線で指し示したのだ。ハウロが折角組み立てた文章が崩れ落ちた。

「ま、待て! それはまだ早い!」

 体を引いて強く拒絶するハウロだが、その顔は真っ赤でミカルを直視できていない。なのでミカルも先走ったと思い申し訳ない気持ちになった。

 結局ハウロは椅子を引っ張ってきて座り、ミカルは今までそうしていたようにベッドの縁へ腰かけた。


(愛人の話……ではなさそう)

 たとえ短い時間でもミカルはハウロを見て、話を聞いて、人――特に女性に対して何か含みがありそうだと考えていた。

「俺は、その、昔、色々あって女が怖い」

 ぽつぽつと語るハウロだが、時計の振り子が音を刻む方が耳につく程には静寂。ミカルは焦らずじっと待つ。

「女性恐怖症、ですか」

「い、いやそこまでじゃない……」

 むしろそうであったなら楽だったのだろう。

 ハウロは女性自体に恐怖を抱いてはいないし、実際ミカルに対して今、間違いなく情を孕んでいるために苦悩しているのだ。確かに世間一般の価値観を持った男である。

「俺は昔女に誘惑されて、その、あんまり上手くいかなくて、わ、笑われた事がある。あいつ……違う男と一緒に、笑って……」

(っ、それは……酷いわ……)

 同情も慰めも怒りも安易に口にできないミカルは、何とも言えない不快感を顔に出さないよう黙ったまま頷いた。俯いているハウロにそれは伝わらなかったが問題はなかった。

「だから、女が怖い、ってよりも……笑われたり、自分が情けなく……お前にそう思われるのが怖い」

 ハウロはこれを暴露して、ミカルがどう出るとしても半ば観念していた。

 例え離縁の道を辿ったとしても、相手と経緯で周囲はミカルに同情するだろう。そうなったら彼女などあっという間に誰かのものになる。彼女を悪意のある噂から守れるような力のある男のものに。

 ハウロは――。

「お前なら、他の」

 その苦しい呟きの先は言えなかった。張り裂けそうな心がミカルに縋り付きそうになって、彼はもう手遅れだったと知ったから。

「だ、だから、だから! 今日はもう寝る!」

 笑うなら笑え、とヤケクソになったハウロは、ぴっ、とベッドを指さした。

「まあ、一緒に……寝てくださるのですね」

 確かに、妻は笑った。

 安堵したような、どこか嬉しそうな、でも夫を案じた顔で。


(むりだろ)

 ハウロは、もう、ミカルに惹かれ始めている。

 いい顔をしてみせる女を過去の経験から警戒し、言葉の鎧と不本意な噂で自身を守っていたハウロだったが、新妻には容易く陥落した。

 人を疑い遠ざけても、結局彼の根本的な人の良さは消えなかったのだ。他人を疑いきれない甘さも。

 ミカルの容姿も目を惹く要因である事は違いないが、それに関してだけは大きすぎる懸念があった。

(あいつにだけは……知られたくない)

 それはハウロの中で燻り始め警鐘を鳴らしたが、今はこの時間を乗り切る事が彼の最大の課題。要はただいっぱいいっぱいだった。

 ハウロの不幸は、この妻を無視できないどころか惹かれてしまった事。いつも女性から向けられる忌避や侮辱の態度も、自分を通り越した分かり易い媚びもない事だ。この妻が夫を目に見えて毛嫌いしていたのならハウロはここまで悩まなかっただろう。

 真っ当な夫婦になれるかもと希望を抱いて、それでも足が竦んで怖気づいているのだ。


「旦那様、お体の具合は……」

 ミカルは夫婦として共寝できると安心はしたが、無理をさせていないだろうかと――初日なのだからと自分の意思を押し付けたようで不安にもなった。

 ハウロとしてはそれどころではないのだが。

「だ、大丈夫だ。いや、お前が大丈夫か……? 俺と寝るとか、い、嫌じゃないのか……?」

 まさかそんな事を言われるとは思わないミカルは、不意に胸の中心が鳴った。

(……優しい人。優しくて……)

 何となく言葉がつっかえて切なくなるミカル。

 そんな、ただ黙って頷く妻に、ハウロは弱弱しく立ち上がってからおずおずとミカルの少し離れた隣に座る。

 双方に切なさを孕んだ空気感が夜独特の静寂に滲んだ。


「くそ……何でお前みたいなのが俺の嫁なんだ……」

 がっくりと項垂れる夫に新妻は胸を痛めた。

(旦那様……私、我儘だったわ……)

 彼の過去を聞いて、やはり無理を言ってしまっていたのだとミカルは後悔した。

 しかし当のハウロは夜を共にするのだと決死の覚悟で、ベッドに手で線を引き始めた。

「くっ……ここからこっちには来るなよ! な、何するか分からないぞ! 知らないからな!」

「はい、旦那様。お休みなさい」

 二人はそれぞれ広いベッドの端で、背中を向け合って、暗がりに意識を揺蕩えた。


 ミカルは、感謝とは似て異なる今まで感じた事のない感情を抱える。

 知られたくない過去を、辛い気持ちを押し殺して聞かせてくれたハウロ。初夜を夫婦として過ごせない理由を真正面から打ち明けた、ほぼ他人の夫。

 彼の隣で睡眠という無防備を晒す事に微塵も抵抗がなくなって、ミカルはふわふわとした浮遊感に身を委ねた。

 そして一つ、ミカルは夫について分かった事がある。

(この人……きっと、『物凄く人が良い』のね……)


 心身の疲れからすぐに寝入った妻の横で、結局一睡もできなかった夫であった。


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