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男爵、身を守る


 天窓から明るい陽射しが降り注ぐ玄関ホールは、派手ではないものの明るい色調でミカルの心をどこか和ませた。

 中央に立っていたのは一人の執事。きっちりと分けた髪は白いものが混じり上品で清潔な髭を蓄えている。


「お待ちしておりました、ミカル・アーティラ様。既に入籍されたとの事ですので、奥様とお呼びさせていただきます」

 綺麗に礼をした執事にミカルも軽く礼を返した。

(ご当主様はおられないのかしら)

 少しの疑問を決して表に出しはしないミカルだが、その心情は当然であるとして初老の執事は続けた。

「申し訳ありません。本来であれば当主自ら出迎える予定でしたが、今朝方急に発熱の症状が出てしまいまして、今は安静に、別室で奥様をお待ちです」

 ミカルは釣書の『持病持ち』という備考を思い出した。

「そうですか。ご当主の体調が第一です」

 特に気を悪くした様子もないミカルに、ほんの一瞬だが執事は僅かに目を瞠り、慌てて頭を下げた。


 案内された部屋は談話室。温暖色の家具の配置と窓から見える庭園が絶妙で部屋の色調に反して暑苦しくない。そんな部屋の壁際、大きなソファーに力なく座る男がいた。

「旦那様、奥様をお連れしました」

 声掛けして入室してきた執事に男は目をやり、そして、連れられた女へと釘づけになった。

 その女――ミカルもまた、立ち上がる男をじっと観察した。


 腫れぼったい虚ろな鋭い目は極限まで見開かれ、頬はこけ顔色は悪いのに赤ら顔。急に立ち上がったせいか足元はふらついている。くすんだ金の髪。無造作に伸ばした前髪ごと後ろに撫でつけ、ただまとめただけの襟足。痩せた体によれたシャツを着崩して明らかに身嗜みには気を遣っていない。

(この人が、ハウロ・ベッター様。お休みになられていたのね)

 ミカルはこの男の身嗜みを、体調が悪く横になっていたため、と解釈した。

「初めまして、ミカル・アーティラと申します。いえ、すでに姓はベッターとなりました」

 なるべく好印象を、と微笑みで以て自己紹介をするミカルだが、ぽかんと口を開けたままの男――ハウロ・ベッターは固まっている。

「あ」

 しばらくそうして無言の空間を作り上げていた男から、本当にただ一言、声が漏れた。

(あ?)

 内心どうしていいか分からないミカルは、彼が何を言い出すのか不安半分、期待半分で待った。

「ありえない……」

 呟いた男は、一気に力が抜けたようにソファに座る。座るというより足の力が抜けて全身で体を預けたといった感じであった。

「旦那様!」

 後ろでミカルを案内した執事が静かに諌めるように呼びかける。

(え、ありえない……? 有り得ないっておっしゃった? な、何か手違いが?)

 初対面の妻に対する言葉としては最悪である。しかし、ミカルは唖然とするものの不快には感じなかった。何故なら。

 眉を下げ、眼球の動きは忙しなくミカルの周囲へ向けた後、頭を抱えるように上半身を曲げたハウロ。警戒するようにまるで見えない壁を打ち建てるその様子に、既視感があったからだ。

(お父様……そういう事なの)

 アーティラ家を出発する際、ミカルは父から貰った謎の言葉を思い出した。


『ミカル、思い出した。あれだよ、あれ。人に捨てられて痩せ細った野良猫』

 どういう意味かと問うたが、伯爵は一人ですっきりした様子で頷くだけ。ミカルは呆れてそれ以上の追及を辞めたのだ。


(唐突に野良猫の話をし出したから、また関係のない事を考えていたのかと思ったけれど……ハウロ様の事を言っていたのね)

 父の謎かけに納得したミカルだがまだ疑問がある。

(有り得ない、というのがよく分からないけれど……)

 それはすぐ、分かり易過ぎるくらいに解消された。

「旦那様。奥様が美しすぎて有り得ないなどと逃げずに、挨拶くらいはきちんとなさるべきです。当主として、夫としての自覚を」

「わ、分かってる!」

 顔を上げたハウロは赤ら顔が更に赤くなっていた。余計な事を言うなと若干執事に非難の目を向けつつ。

「ハ、ハウロ・ベッターだ。今日からお前の、おっ……夫となる」

「はい、よろしくお願いします。ハウロ様」

 ぎょっとしたハウロは胸を押さえて、勢いよく立ちあがった。

「な、名前……!?」

 案の定、彼はまたすぐにふらついてソファに身を沈めた。茹で上がった蛸のような様子に、ミカルはいやおうなく悟る。

(人嫌いじゃなくて、極端な恥ずかしがり屋なんだわ……)


 ワゴンを運んできた執事がお茶の用意をする。

 その僅かな茶器の音を聞きながら今日夫婦となった二人は、部屋の中央、対面でそれぞれ一人掛けソファにただ黙座していた。

 先程からちらちらと妻となったミカルを見ては視線を外し、何か言いたそうにしているハウロ。

(私から話題を振った方が)

「ハウロ様……旦那様」

 名前を呼ぶと逐一反応して会話にならないので、ミカルは呼び方を変えた。

「だっ……!? な、なんだよ」

(それも、駄目?)

 だが、返答を促したので大丈夫なのだろうと思い、ミカルはまず会話のとっかかりとして礼を言った。

「こんなにも迅速に私を迎え入れて下さって、本当に感謝しています。あのままではいき遅れるところでした」

「お、お前は、無いだろ、それは……」

 ハウロは三白眼を細め、視線だけでミカルの姿を確認している。

「あのような噂のある女を貰ってやろうという奇特な方は、中々おられないと思います」

(どうしたって王太子のお下がり、という認識はついてまわるのだから……男の人はいい気分はしないのではないかしら)

 だが、この男爵は半ば強制的な結婚自体に乗り気そうではなかったものの、正式にミカルを妻にするとして婚姻を結んだのだ。ミカルはただただ感謝しきりである。


 ハウロは、柔らかく微笑む対面の妻に少しずつ焦点を合わせ、観察した。

 ミカルは確かに美しい令嬢であった。曲がりなりにも王太子の婚約者候補に名を連ねるだけの見目をして、その立場になった事で更に磨かれた。外面も内面も手を抜くわけにはいかないのだ。例え王太子本人に目を向けられず他の候補と同じ土台に立たずとも、その義務を怠ってはならなかった。

 その結果が『かけ捨て令嬢』などという渾名なのだから、世の中はおかしい、とハウロはミカルに同情した。だが、王太子の目が腐ってたんだろうと不敬にも思ってしまったのも彼の本心だった。

 利発そうな表情と色素も相まって一見冷たい印象を受けるが、良く見るとその紺色の瞳は大きく、優しい面差し。

 ハウロの目にはそうは映らないが、王太子にかけ捨てられた事を気にしているに違いない、と内心穏やかではなかった。


「噂なら俺の方が酷いものだろ。出来の悪い、酒浸りの人でなしだぞ、俺は」

 ふん、と自嘲するハウロ。ミカルは逸らされたその目をしっかりと見た。

(その噂が広まった経緯は何だったのかしら……私には、とても)

 ミカルとて、まだ会って数刻も経っていない夫の人となりを見極めるには、時間も会話も足りないと分かっている。だが、彼女はどうしても目の前の、まるで傷付いたような男がそんな人でなしには見えなかった。

(確かに見た目は酔っているようにも見えるけど、お酒の匂いもしないし、持病があるのだから不健康そうでもおかしくはないわ)

 それに、語気を強めがなっている風な印象を受けるがその実、表情も声も弱弱しい。そのせいかミカルは彼の言葉の悪さに恐怖を感じなかった。

 ミカルは確証もなしに人を決めつけるのは良くないという信条を持っている。良くも悪くもだ。

「私にはとてもそうは見えませんけれど……」

 だが、まだ彼の事を何も知らないというのについ、そんな事を口走ってしまった。らしくなく緊張しているのだとミカルは口を噤む。

 一瞬驚いたハウロだが、鼻白んでそっぽを向いた。

「今までも……そうやって俺に近づいてきた女もいた。公爵家と兄が目的でな」

 ミカルは、ハウロがただ極端な照れ屋なだけではない事を理解した。

(人間不信というか……人を怖がっているのかもしれない)

 正しくアーティラ伯爵が形容した『人に捨てられた野良猫』が当を得すぎているのだ。

「媚びへつらってても、結局は()()()と一緒になって俺を笑う。いつも……お前もいつか」

「わ、私はこれからあなたを見て、私自身の目で判断したいと思います」

 ミカルはつい反論する。少し引っかかる言葉があったが、彼女はそれよりも自分の矜持を優先した。どれほどの人間であっても笑ったり扱き下ろしたりなどという行為を彼女は好まない。

「私はこの縁を組める程の立場にいません。言ってしまえば成り行きの婚姻ですが、きちんとあなたという人を……知りたいのです」

 ハウロはこの結婚の経緯を思い出して、大いに恐縮した。確かに、ミカルは王家からの『施し』を拒否できなかったのだ。それはハウロにも言える事であるが。

「ですから、旦那様もどうぞ私を見極めて下さい。私はその、折角家族……夫婦になるのですから、旦那様と仲良くできれば、と」

 困ったように笑うミカルを、とうとうハウロは直視できなくなった。煩く鳴る心臓を押さえて。

「む、無理だ」

 呟いたハウロは立ち上がってミカルに吐き捨てた。

「お前っ……お前は自覚がないのか!? お前程の女が、よりによって俺みたいなのと結婚させられて……もっと嫌がれ! む、無理だ、お前が嫁……俺の……」

 ハウロは、出された紅茶に口をつける事なく、あっという間に談話室を飛び出して行った――。


(……え)

 しばらく唖然としながらも、ミカルは少しばかり冷静であった。同じく茫然とする執事に目をやって声を掛けた。

「クレース、だったわね」

 呼ばれた初老の執事は、ミカルにおずおずと頭を下げた。

「あの、今夜、旦那様は大丈夫かしら」

 今夜は、夫婦の初夜である。

 使用人を束ねる執事のクレースは、喉を詰まらせながらも必死で答えた。

「わたくし共が総力を挙げて旦那様を奥様の元へお連れします。どうか、旦那様を信じて奥様は心安らかにしてお待ちください」

「あ、あまり無理はさせないでね。体調が悪かったのでしょう?」

 ミカルとしては個人の体調を無視してまで初夜に拘るつもりはなかった。せめて同じ部屋で一晩過ごせば、それらしくはなるだろうとの発言だったのだが――。

「いいえ。とんでもない。旦那様は今や男爵なのです。ご夫婦の営みは義務でもあるのだとご理解して貰わねばなりません」

 この執事はハウロの事情を知りつつも、それでも心を鬼にするべく決意した。

 一変、顔付きを戦士の如く力強くして、給仕を別のメイドに引き継がせハウロの元へ向かったのだ。

 執事クレースの、いや、この屋敷に仕える使用人一同の思いはひとつ。


 あの奥様を絶対に逃がしてはならない――! 円満に二人の仲を陰から取り持つのが我々の使命だ!


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