番外編 王太子妃、やらかしを知る
アンジェラ・ブラインは王太子の婚約者候補であったが、実質正式な婚約者として扱われている。
決まった日程で城を訪れ王太子と親睦を深めるよう指示され、8歳の時からそのようにしていた。
王太子レドニスは最初からアンジェラとの将来を逐一匂わせていた。そんな彼の期待にアンジェラも応えようと必死で勉強し、淑女教育を学ぶ。
もう一人の候補、ミカル・アーティラとは個人的に話をした事もなく。
(彼女はどう考えてるのかしら)
ミカルもアンジェラと同じように扱われ、現在選定中。そう当然のように思っていた――。
「彼女も……候補じゃ無かったのですか」
青天の霹靂。アンジェラは、まさかあの淑女が他の自称候補たちと同じだったとは思えなかった。
このアンジェラ。一見愛らしく人畜無害な少女のような風貌でありながら、王太子妃に望まれる資質を備えている。人間という生き物の本質を良くも悪くも熟知していた。
どれだけ外面を取り繕っても、汚泥が心の底を満たす貴族を幼い頃から見てきた彼女。そんなアンジェラはつい最近、突っかかる他の候補たちを一人でやり込め、墓穴を掘った彼女たちの立場を初めて知ったばかり。
「婚約者候補は君一人だけだ。それも見極める期間の肩書きというだけであって、ほぼ正式な婚約者なんだと覚えていてほしい」
誤解されてはならないと切実に言い募るレドニス。
そうか、と納得はしつつも、どこか腑に落ちないアンジェラだった。
ある時、レドニスが青い顔をしていたのをアンジェラは当然のように心配した。
アンジェラは正式に婚約者となり婚姻を認められた。今回はそのための登城だったのだが、王太子が不安定な様子であるからアンジェラまでも不穏を感じたのだ。
「どうかなさいましたか」
彼女はそんな無難な問いを投げかけるのがやっと。
「……アンジェラ。私の失態を聞いてほしい」
これほどまで落ち込み後悔する王太子を見たのは初めてで、一体何をやらかしたのかとアンジェラはただ頷くしかできない。
その自白は予想外だった。
「何故、そんな事に」
あまりにも噛み合わなかった故の現状に、彼女は唖然とそう言うしかない。
そして、当事者のようで終始部外者だったアンジェラからこの因果の輪を見下ろした時、やはり結果論で語ってしまうのは仕方がない事であった。
「子供たちだけで候補を管理させようなんて」
もう少し、大人が関与出来たのではないか。責任者たちが率先して幼い王子を導いてやるべきだったのではないのか。やはりアンジェラは若干王太子寄りで擁護してしまう。
「確かに、子供だった。だが今は違うだろう? 子供の頃の過ちが継続しているのは今の私たちの責任でしかない」
だが王家としては、王太子と側近たちの失態、と一言で片づけられない事態では。そうアンジェラが思うのも至極当然だ。
「候補の管轄と責任者は私の判断を仰いで現状を維持していただけで、言う程過失はないんだ」
私欲での情報漏えいの総責任者は論外として、あくまでも王太子と側近たちの杜撰さと思い込み。彼はそう言う。だがアンジェラはそうは思わない。
「片方どちらかが悪かったという話ではないですね。流石にこれは……公表はしないのでしょう?」
「ああ。アーティラ嬢には悪いが」
王太子の失墜に関わる弱みになりかねない。
ミカル・アーティラへの、既に遂行中である礼遇の詳細を聞いたアンジェラ。
側近筆頭が推薦するのだから、と憔悴中のレドニス王太子にアンジェラは呆れる。
「……また過ちが起きるかも知れませんよ。ユーゴ殿を信頼しているのでしょうが、件の男爵の事はしっかり調べた方が」
はっと顔を上げてアンジェラを見る王太子。
「それから、彼女が候補から外れたと知った周りを把握しておく事も必要かと……もう遅い気もしますけど」
アンジェラは憂いながら、自称候補たち、そして嗤っていた令息たちの行動を予想した。
(いっぱいいっぱいだったんでしょうけど……もっと早く教えてほしかったわ)
ミカルへの処遇が決定する前に知れていれば、アンジェラは素早く動けていたというのに。
そんな彼女のほぼ確信に近い嫌な予感は半分的中した。
「金をかけたのに捨てられたなど……何を考えているんだ」
慰謝料を含んだ支度金を渡し、もう終わると思っていた一連のやらかし。王太子自身にも火の粉が降りかかるような噂に頭を抱えた彼は、もうどうしていいかわからない。
「そういうものです。一度は掴みかけた王太子妃という立場を逃し、後は自らの価値を落とさないよう常に戦い、他人の足を引っ張り続け……必死なのです」
それが貴族の女の生存戦略である。
アンジェラは、自分が彼女たちの立場であったならそのようには動かない、とは断言出来なかった。
個人の意思で行動している令嬢は果たして何人いたのだろう、アンジェラの脳内を嫌な顔がちらつく。
(私は偶々……レドニス様に目を掛けられて愛してもらえた。私以上の女がいたなら……私も同じように候補から外されたら、きっとお父様は許さなかった)
がちがちの貴族思想を持つ父、言いなりの母、家族に無関心の兄、さっさと留学して家族から離れた弟。孫子を道具と考える両祖父母。
そんな環境において、見える場所にまであったレドニスの寵愛まで得られなかった『もしも』のアンジェラはきっと、愛を求め狡猾に立ち回っただろう。
周りが見えなくなるくらいには、必死に。
「噂の元を消す必要がありますね。私があなたの名代として動きます。任せてくださいませ」
アンジェラは人脈を使い、噂の元から、その道程を辿り先々で噂の訂正を試みる――予定であった。だが、時間が無さすぎたのだ。
ミカル・アーティラは予想外に早くベッターの籍に入り、領地へ向かってしまった。
(そうか、伯爵はご存じだったのだから当然そうなるわね。それなら元を消すだけでいいかしら)
ミカルが王都から離れた男爵領にいるのなら、元を絶った噂などゆっくり腐り廃れるとアンジェラは別に頭を切り替えた。
幸いなのは、ミカルに目をつけていた一部の令息たちが行き場を無くした事だろう。
(ジリオン・アーティラ伯爵。ものすごい子煩悩とも放任主義だとも言われてるのよね、どっちなのかしら)
レドニス王太子の話を聞く限り、前者のようでもあり、王家の弱みに付け込んだだけのようにも見える。
どちらにしても羨ましい限りだ、と一瞬頭を過ったアンジェラ。
(後は彼女が王家からどう処理されたように見せるのか……さすがにこれは上手くやっているのでしょうけど)
彼女はすぐに王太子に確認をとった。
「アーティラ嬢にはどのような理由をつけて候補から外したのです?」
「ああ、王家に連なるには気質が合わないと理由を……伯爵からの提案だったんだが、私には正直彼女の人となりは分からない」
何ともばつの悪い顔のレドニス。
実父の提案ならミカルも納得するような理由なのだろうと、アンジェラは荷が一つ下りた。それと同時に後悔も襲う。
(私ももう少し彼女たちと触れ合うべきだったわ)
あれ程アンジェラは婚約者確定だと言い含められていて、レドニスからもそういう対象――色恋の話だ――として見られ口説かれていたのだから。アンジェラが婚約者候補筆頭として彼女たちを掌握しておくべきであった。
しかしアンジェラは、欲した愛を一番身近な血縁に砕かれ慣れていた。たった一人愛をくれた他人であるレドニスの言葉に満たされ同時進行で修復されながら、心の奥底ではどこか懐疑的で。
レドニスの愛を信じるという勇気が備わった今でこその後悔である。
それにしても、と。
(何もかも報連相よ。物事はそれが行き届いていれば大抵上手くいくのだわ)
少し周りを見直す必要があると気を引き締めたアンジェラに、レドニスはとことんまで頭が上がらなくなった。
「アンジェラ、面倒をかけてすまない。本当なら今頃君は花嫁として楽しい時間を過ごすはずだったのに」
「あら、私、今結構楽しいですのよ」
確かにアンジェラも女としてそういうものに夢を見ていた時期もあった。だが幼い頃から王太子妃に望まれ現実にその座が見え始めた辺りで、彼女は王太子妃としての自覚も備わってきた。
義務的にも、個人的にも。
なんだかんだ、アンジェラはこのレドニスを好いて、愛したのだ。公私共に支えようと決意した。
「アーティラ嬢には悪いですが、こうして貴方と物事に取り組む……夫婦になる前の共同作業のつもりですのよ」
「アンジェラ……」
甘い空気になりかけて、二人は気を引き締める。
「そうだ。ベッター男爵の事も調べたんだ。何というか、結論、彼はよく分からない」
アンジェラも頷くしかない。
なんせ彼は噂の広がりに反して社交の場に出てこないのだ。彼の真を知る人間も、噂を真実としてさも見たように語る者もいて、ハウロ・ベッターという人間像は様々なのだ。後者の方が声は大きいが。
ただ、アンジェラを始めレドニスも「暴力沙汰」に関しての噂は眉唾ではと若干思っている。
「他国の姫君に日常的に手を出して今無事であるのも変だな」
「ええ。裏で処罰があったようにも見えないですし。彼の囁かれる人格とはまた別の話ですわね」
ただ、アンジェラは彼の――正確にはビルノーツ公爵家にあまり良い印象を抱いていない。アンジェラが反吐が出る程嫌いな典型的な貴族が、まさにその男爵の兄、ラウノ・ビルノーツだからだ。
お綺麗に見えるその仮面の奥を彼女は見抜いている。
(間違いなく腹の底は真っ黒だわ。その弟が善良とも思えないんだけど……あのユーゴ殿が友人だと言っているのよね)
その後、確かな事は言いたくないユーゴから、男爵は兄の被害者でしかないと教えられた。
ベッター男爵夫妻に招待状を送ったレドニスとアンジェラは話し合った。
秘密裡に目に見える謝罪、彼女の名誉の回復方法など。綿密に、側近たちと相談し、時には上の了承を得つつ。
失態による謝罪の失敗など笑い話にもならないのだから。
「彼女が候補だったのは、私を護るため。自ら盾となる事を志願した彼女は実はずっと好いている男性がいた。その男性も彼女を待ち続け……そして王太子後見の元、結ばれた」
「それで行こう。……狡い話だがな」
だが謝罪はしつつもこれ以上手を尽くす必要はない。変に下手には出られないのだ。
この設定を大っぴらに吹聴したりはせず、男爵夫妻が参加する夜会にて少し匂わせるだけにする。簡単に尾ひれが付き勝手に泳ぎ出すような話だとアンジェラは溜息を押し殺す。
(過剰になりすぎないようにこれくらいに留めておくのがいいわね)
実際にミカルたちを見たアンジェラは、これでも過剰だったかと少し後悔したのだとか。
「まあ色々ありましたけど、私たちも負けずに幸せになりましょうね、レドニス」
「ああ。今までも、多分これからも苦労をかける。その分君を愛し抜くと誓おう」
「私も貴方を愛し抜くと誓いますわ」
たった一人の大きな愛を得たアンジェラ王太子妃。
既に婚姻式で行った儀式を、今度は個人の思想を込めに込めて。
王太子夫妻は沢山の祝いを受け取ったのだった。