先生が来ませんでした
小さな手を必死に伸ばす。上へ上へ。
どんなに背伸びしたって、思い切り助走をつけて跳んだって届くはずないのに、そんなことにも気づかず天を目指す。届くことを疑いもせずに。
葉子が告白すると宣言した翌日。朝の会に安藤は現れなかった。
「安藤先生は?」
という質問が葉子から出るのは自然な流れだろう。安藤の代わりに朝の会を担当してくれたのは厳格そうな印象の女性教師だ。俺はまるで面識がなかったのだが、うちのクラスの音楽を担当しているのが彼女らしい。
「安藤先生は今日は忙しくて来られません。もしかしたらしばらくの間は来られないかもしれません。その間授業も手が空いてる先生が担当することになっています。病欠とかではないのでその辺りは心配しなくて大丈夫です」
切れ長の目でいて仏頂面なもんでどこか怖い印象の先生が、そんな表情を少しも崩さずに返答した。
しかし、忙しいって。
教師が本職なのに少しも顔が出せないなんてことがあるものなのだろうか。今日だけならまだしもしばらくの間だなんて。
かといって詳細を尋ねたとしても小学生にまともに答えてくれるとは思えないしな。そのうち戻ってくるのを待つしかないのだろう。教師の仕事なんてよく知らないがどうせ出張とか研修とかそんなんだろうしな。
葉子は不満そうだが、こればっかりはしかたない。
朝から熱血な安藤の時とは違い淡泊に進んでいった朝の会は、いつも通り何事もなく終わった。
「ま、準備期間ができたと思えばいいじゃん」
俺は不服そうな葉子にそうとだけ声を掛けて保健室へ向かった。
――準備期間。
準備どころかこの時にはもうあらゆることが手遅れだった。いや、手遅れになっていたのはもっともっとずっと前のことだった。それに気づくことになるのはそれから間もなくのことである。
――俺には葉子も安藤も救えない。
「朝礼にいなかったんですけど、安藤先生って何かあったんですかっ!」
言葉とともに放った俺のアッパーは虚空を切り裂く。
「今朝職員会議で話題に挙がったんだが、安藤君に保護者からクレームが入ったらしい。陽ノ下は三年一組だったよな、上山葉子って知ってるか?」
俺の拳が当たるはずだった飯田は、白衣のポケットに手を突っ込んで腰から上をわずかに反らしている。
つまりはまあ俺のアッパーは回避されたわけだ。
「知ってるも何も仲良くしてもらってますし、放課後とかもよく一緒に遊んでますよ」
状態を反らしたということは下への注意は疎かになる、と足払いを仕掛けるが――
「ふっ、小学生とよく一緒に遊んでるって……」
バク宙であっさり躱される。
着地点でバカにするように笑った飯田には返す言葉もない。
どうやったら平然とそんなアクロバティックな動きができるのか……。
「まあその話はさておき、葉子さんがどうかしたんですか?」
一度止まって呼吸を整える。
「ああ、安藤君がその上山に触ってるだとか近づきすぎだとかでクレームが入ったんだそうだ。それで安藤君には子供の指導を任せられないってんで揉めてて、とりあえず安藤君は児童の前に出られないことになってる。学校には来てるんだがな……」
「それは葉子さんの親がクレームを入れたってことですか?」
厳しいと言っていたしそういう感じなのかもしれない。葉子が家庭でも安藤のことを好き好き言っていたら親も心配になるだろう。そう思い尋ねたのだが、安藤は首を横に振った。
「いや、関係ない児童の保護者からだ」
「他の子の親? どうしてそんな人が安藤先生と葉子さんの関係のこと知ってるんですか?」
葉子なら安藤とのことを無邪気に言い触らしていてもおかしくはないと思うが、触られたなどとネガティブに受け取られそうな表現はまずしないだろう。
「どうやら昨日の写真が原因らしいな」
「写真……。あー、なるほど」
昨日の写真と言うと文化祭の写真展示のことだろう。昨日は授業参観で誰でも全ての写真を見られるようになっていたから、安藤と葉子の写真が保護者の目に留まるのだって自然な事だ。ただでさえ安藤の写真のほとんどは葉子と写っていたし、距離が近いといえばそうだったかもしれない。
しかし触っているなどと問題になるような写真なんてあったか?
「これだこれ、今朝配布された資料の一部なんだが」
安藤はポケットから小さく折りたたまれたプリントを取り出し広げて見せる。
歩み寄って見てみると、そこに問題の写真として貼り付けられていた画像には見覚えがあった。
脚立から落ちそうになった葉子を安藤がお姫様抱っこでキャッチした瞬間の写真。昨日葉子が自慢げに見せてくれたものだ。
「お姫様抱っこがダメだったってことですか?」
確かに教師と生徒の距離感としては近すぎるといえばそうなのかもしれない。だがそもそもこれは葉子を助けた際の写真だし、そうでなかったとしても問題視するようなスキンシップには到底思えない。葉子本人は嫌がっているどころか喜んでいるわけだしな。
「まあ、お姫様抱っこがってよりは安藤君の手が太ももに触れているのがいやらしいとのことらしい」
「えぇ……」
いや、まあ触れているか触れていないかで言えば触れているようにも見えるが、いやらしいかいやらしくないかで言えば俺にはいやらしくは思えない。
「俺も言いがかりだと思わないでもないがな。それでもやはり神経質になるんだろう。特に女の子の親なんかはな」
「そうかもしれないっすね……」
飯田も俺も大人だ。理不尽で納得できないことでも理解しなくてはならないことはある。
飯田の言うようなことも事実だしな。もしも飯田がヤバい性癖の持ち主で葉子に手を出していたとしたら、親目線からしたら次は自分の娘が手を出されないとも限らない。
「それで誤解が解けるまでは安藤先生は教室には来られないってことですね」
「まあな。安藤君が復帰できるよう保護者説明会の準備は急遽進めてるらしい」
「保護者説明会って。そんなに大事になってるんですね」
「そうだな。俺からしたら騒ぐほどのことでもないと思うが、当事者からしたら大問題なのかもしれない。上山と仲がいいのなら説明会前に陽ノ下も話を聞かれるかもしれないな」
「ですね。でもありのままを話せば何事もなく終わるでしょう。安藤先生の行動に問題なんてなかったわけですし。ていうか飯田先生は完全に安藤先生の味方なんですね。写真と本人の言い分しか判断材料がないでしょうに」
俺の視点からすれば安藤が悪くないのは明らかだが、実際に安藤と葉子のことを見たわけではない飯田たち教師からすればその限りではないだろう。飯田なら安藤を疑うまではしなくても真実が分かるまでは中立くらいの考え方をしそうなイメージだったが。
「安藤君の人柄を知っている教師陣はみんな彼がそんなことしないことくらい理解しているさ」
「人望あるんですねえ」
あの若さにしてそこまで信頼されてるのか安藤は。絵に描いたような好青年だよな、ほんと。
――と、俺が不意打ちで放った右ストレートは、軽く上げられた飯田の手にいなされる。
「今のは良かったな」
「あっさり止めたくせに」
「あと少し速かったらヒットしてた」
「どうだか……」
「なるほど、陽ノ下さんの言っていることも他の子と同じですね」
さっそくその日の放課後に俺は生徒指導室に呼び出されていた。俺の前にはまな、さらにその前には今日香も順番に呼ばれており、一対一で例の音楽教師に安藤について訊かれている。
彼女は事件については一切触れなかったが、飯田からことのあらましを聴いた俺以外の二人もおよそ今回の事件について知っていた。どうやらメッセージアプリやらなんやらで共有されたらしくクラスではすっかり噂になっているのだとか。さらに元を辿るならクラスメイト誰かの親が昨日の時点で子供に話したのだろう。ということは親の中では子供達以上に広まっていると考えてもいいかもしれない。よく分からんがママ友とか結構繋がっていそうだしな。
「放課後に時間を作ってくれてありがとうございました。もう大丈夫ですよ」
安藤の話をひとしきり聴くと先生は表情を変えずにそう言った。俺は、失礼しますとひとこと挨拶をして扉に手をかける。
「そうそう、訊き忘れてたんですけど、やっぱり安藤先生って何かしらの処分を受けたりするんですか?」
安藤は何もしていないのだからこれで処分を受けるのなら理不尽極まりないとは思うけどな。
「……現状ではなんとも言えません。少なくとも何事もなく終わるようにこうしてお話を訊いているところです」
なんか小学生相手にするにしては難しい言い回しをするな。彼女の場合みんなにそうなんだろうけど。
「そうですか。これもまた別の話なんですけど、葉子さんに話を聴くのってこれからですよね……?」
「ええ、そうです。教室で待っててもらっているはずです」
「葉子さん、かなり参っちゃってるみたいです」
さっきまで教室に一緒にいたのだが、今朝までのような元気はなく、責任を感じてしまい安藤を心配しているようだった。もちろん葉子は何も悪くないのだが、それでも安藤が教室に来られなくなったのは自分と写った写真が原因であることには変わりないのだから無理もない。
「ええ、分かっています」
「……そうですか」
まあ葉子は帰りの会でもすっかり暗い顔をしていたからな。程度はどうあれ彼女も葉子のことを気にしてはいただろうし気づかないことはないか。
「陽ノ下さんは友達想いなんですね。上山さんを呼んできてください」
先生は僅かに口角を上げて、優しそうな笑顔を作った。
この人、鉄仮面ってわけでもないんだな。
やや失礼なことを考えながら、生徒指導室を出た俺は三年一組の教室へ戻った。
「あなたが上山さんだよね。災難だったね」
教室に入ろうとしたちょうどその瞬間だった。中からそんな声が聞こえてきたのは。
廊下を歩いてきている時に明るい髪色をした大人の女性が教室に入っていくのが見えたからその人の声なのだろう。
ギャルっぽいというかかなり若そうな話し方をする人だな。物腰は柔らかそうだ。
「誰……?」
答えるのは葉子だ。
「この間授業参観に来ていたじゃない。竹田さんのお母様よ」
これは今日香の声だろう。
「急に話しかけちゃってごめんね。竹田翔子のママだよ」
「あー、翔子の」
「いつも娘が仲良くしてもらってるのかな?」
「翔子とはあんまり話さないな……」
竹田翔子っていうとうちのクラスの……確か結構派手めの子だよな。俺が佐藤と話してると睨んでくる子の筆頭だ。ちなみになかなか可愛い。まなと俺の次くらいには可愛いかもしれない。
「そうなんだ。可愛いからうちの子と仲良いのかと思ったのだけれど」
可愛いからって、それ仲いいとか仲悪いとかに関係あるのか……?
「……あの、竹田さんのお母さんがどうして今日ここに?」
この声はまなか。
竹田翔子ならもうとっくに教室にはいないはずだ。今日呼び出されたのは俺、まな、今日香、そして葉子の四人だけだからな。
「安藤って教師のことでちょっとね。上山さんがもう辛い想いをしなくていいように」
「辛い想い……?」
「安藤に手を出されていたでしょう?」
「手を出されてた……?」
「よく分からないけど安藤先生とうちは両想いだぞ」
「両想い、か……」
竹田母の声のトーンは、嫌悪感を隠そうとして隠しきれていないような低いものになる。
それはさておき葉子と安藤は両想いではないだろ。
「いや、両想いではないでしょう」
今日香がつっこんでくれたことに安心しつつ、俺は今度こそ教室の扉を開ける。
「安藤がそう言ったのかな? だとしたら上山さんは騙されてるよ」
冬の廊下は寒いし、このままだとややこしいことになっていく気がするしな。
「騙されて……?」
「そう。大人と子供が恋愛するなんて――」
「竹田さんのお母さん!」
早口で話し始めようとした彼女の言葉を遮る。止めなければろくな事を言わないであろうことは容易に想像できる。
「あなたもこのクラスの子かな?」
振り返った竹田母。初めて直接顔を見たが若いな。俺と同い年くらいなのではないだろうか。
明るい茶髪で厚化粧気味。派手な高校生がそのまま大人になったような雰囲気がある。
そんな彼女が口元だけに笑顔を浮かべて、きらきらにメイクされた目で俺を睨む。話を遮られたのが気に入らなかったのだろう。
「そうです。陽ノ下ひかりっていいます」
「……ふーん。翔子ちゃんのお友達?」
それは俺が可愛いからってこと?
照れるなあ。
「いえ、竹田さんとはあんまり話したことないですね」
「そうなのね。それで私に何か用かしら?」
「いえ、用事というほどのことではないんですけど、安藤先生は何も悪いことしてませんよ」
「……そうかしら」
訝しむような顔をした竹田母の口調はとても冷たい。
「安藤先生はとても素晴らしい先生です。葉子さんはそれを純粋に慕ってる。それだけのことの何が悪いんでしょうか? ていうか竹田さんのお母さんは先生に話があるんじゃないんですか? 職員室は下の階ですよ?」
「……そうだったね。翔子ちゃんの忘れ物を取りに来たの。言われなくてもすぐに職員室に行くわ」
「その方がいいですよ。でも保護者説明会は後日やる方針って言ってたけど、もしかして日程間違ってないですか?」
つい嫌味っぽい口調になってしまう。葉子の本気の気持ちも安藤の真摯な姿勢も、何一つ知らずに否定しようとしている彼女には無性に腹が立った。
翔子の机にかかった手提げ袋を回収した竹田母は俺を睨みつけて、さらに聞こえるように露骨な舌打ちを残すと教室を出ていった。
大人気ないなあ。
まあ、それは俺も同じか。
彼女は我が子のこと、もしかしたら葉子のことも本気で心配していたのかもしれないけどな。
「……ひかりさん、おかえり」
「ああ、うん……」
暖房で暑くすら感じる教室の空気が凍りついているのは葉子が今にも泣き出しそうな顔をしているからに他ならない。
「うちが安藤先生を好きになるのってそんなにいけないことなのか……?」
「それは……」
「そんなことないわよっ!」
言い淀んだ俺とは真逆に力強くそう言い切った今日香。
「誰かを好きになるのがダメなことなんて絶対にないわ」
まったくもって彼女の言う通りだ。そんなの当たり前のことだ。それにも関わらず俺はそんなことすら葉子に言ってやることが出来なかった。
「そうかな……?」
「当たり前よ」
「わたしもそう思うかな」
まなも優しく微笑む。
二人の言葉に曇りや穢れなんて少しもない。
「……ありがと」
葉子は力なく笑うと、立ち上がる。
「ひかちん、次うちだよな?」
「う、うん。言うタイミング逃しかけてたけど先生呼んでたよ」
「そか、じゃあ行ってくるな」
いつもの元気はどこへやら。葉子はうつむき加減で教室を出ていってしまった。
今期のアニメはわたゆりが好きです。




