03 都住姫子の澄んだ瞳
「ただいまあ! 」
純和風家屋の玄関から廊下や奥の居間や台所へと向かって、ひんやりとした早春の空気を吹き飛ばすような、少女の快活で元気な声が響き渡る。
「姫ちゃんどうする? 先にご飯たべる、それとも支度してからにする? 」
台所から廊下に顔だけ出した母が、玄関を上がって来る巫女服の少女に声をかけると、娘は笑顔でお腹ぺこぺこだよと朝食をせがむ。
少女の名は都住姫子、地元の女子校に通う高校二年生で、ここは姫子の生まれ育った実家。長野市の北側を護る霊山、三登山の中腹にある刈田神社境内の母屋である。
古来から都住家は善光寺さんの鬼門でもある三登山を、刈田神社と共に護って来たのである。
巫女として毎朝のお務めを果たしたのち、学校へ通うために支度を行う時間帯なのだが、今日はお腹が空いたのか着替えよりも先に朝食を摂る事を選択したようだ。
「はあ、この瞬間がたまらなく幸せ」
姫子が居間にたどり着きテーブルを前に正座すると、既に朝食の準備は出来ており、昼のお弁当よりも豪華な夕飯よりも、姫子が一番好きだといってはばからない朝食のメニューがズラリと並ぶ。
氏子衆の中で米農家をやってる轟さんから頂いた米、ツヤツヤのご飯。信州味噌で作った母自慢のダシが効いた味噌汁は、姫子の大好きな豆腐とワカメと刻みネギ入り。
そしてご飯と味噌汁の周囲を飾るのは、『ご飯が進むおかずを』と念じて止まない姫子が垂涎ものの、魅惑的なおかずの数々が並んでいるのだ。
まずは脂の乗った鮭の切り身が塩焼きになり、テラテラと切り身の表面を輝かせながら姫子が箸を付けるのを待っている。
そして味付け海苔と挽き割り納豆が脇を飾り、ご丁寧にのりたまふりかけの小瓶もしっかりと置いてある。
だが、今朝姫子が熱い視線をより置いているのは、これらのおかずでも味の素がふりかけられたコリッコリのたくあんでも無い。
テーブルの反対側には刈田神社の神主である父の分の朝食が用意されているのだが、ちょうどその中間地点……テーブルの真ん中に、ボウルのような深底の鉢に入れられた「鯖缶&大根おろし」があり、姫子はそれに釘付けになってしまっていたのだ。
「ふひひ、いただきまあす! 」
「姫ちゃん、ちゃんとお父さんの分を残しとくのよ! 」
姫子の声に何かしら思うところがあったのか、母の慌てた声が台所から飛んで来る。ーーそう言えば、姫子は鯖缶&大根おろしを出すと、情け容赦無く旦那の分まで食べきってしまう娘だった! そんな意味を過分に含んだ叫びだ。
「大丈夫よ、ちゃんと残しとくから! 」
鯖缶&大根おろしは姫子だけでなく父も大好物。
前回のように、もう一口もう一口と全部食べてしまい、空っぽの鉢を見かけた父がガチで泣きそうになった苦い記憶がある。……それもつい先週の話
“大丈夫よお父さん、もう姫子は大人だから、お父さんに悲しい想いなんかさせないわ”
「むふん! 」と荒い鼻息を一つ放ち、鯖缶&大根おろしは半分だけ食べる事を心に誓った姫子、既に母親の分は頭に無いらしい。
「いただきます! 」
背筋をピシッと立たせて挨拶した姫子は、ご飯茶碗を手に取り、先ず一膳目は焼き鮭で頂こうと箸を伸ばす。彼女の作り上げたプログラムはどうやら、一膳目は焼き鮭でたいらげ、二膳目は納豆と味付け海苔、ラスト三膳に鯖缶&大根おろしを食べれば、ご飯のお代わり無しでフィニッシュ出来ると言う作戦であり、父親の分を残すと言うコンセプトにおいては確かに理にかなっているのだが、花も恥じらう思春期の乙女十六歳が朝からご飯を三杯たいらげる事については、この都住家において父も母も姫子本人も、誰一人として不思議だとは思っていない。
色気より食い気、育ち盛りと言われればそれはそうなのであろうが、朝から元気ハツラツでな微笑ましい少女である事は間違い無かった。
“自分の分”を食べ切って一服のお茶でホッとした姫子は、台所の母に感謝しながら自分が食べた分の後片付けを終え、母にそろそろ登校の時間よと促され、自分の部屋へと赴こうとした時、社務所から帰って来た父と廊下で鉢合わせそして呼び止められる。
朝のお務めの際に言い忘れた事を思い出したのだが、その表情がいつもの父のそれとは違う。溺愛する娘にデレデレしつつ、冷たくされると泣き出しそうなクシャクシャな表情を見せる父ではなく、酷く険しく厳しいのだ。
そして、そんな表情を見せる時……父が何を言おうとしているのかが理解出来る姫子。姿勢をピンと張り、父親以上に真剣な顔で真正面に向き直った。
「昨晩、氏子衆の多野中さんから連絡が来た。吉田団地に住む親族の事で相談したい事があるらしい」
「……はい」
「その親族の息子さんが中学生でな、“見えてしまう”事で悩んでいるらしいんだ」
「見えてしまうか……なるほど」
「今夜多野中さんが社務所を訪れる、詳しい話はそこで聞いてくれ」
姫子は分かりましたと頭を下げ、踵を返して自分の部屋へ。父からの言い付けを胸に通学のための支度を始めた。
古びた純和風の都住家、姫子の部屋ももちろん畳敷きで廊下との境は障子で仕切られているのだが、可愛い可愛い一人娘のためにと両親が配慮したのか、畳の上にはピンク色の絨毯が敷かれ、シングルベッドが据えられている。
調度品かと見間違うような立派な勉強机に女性を意識させるかのような化粧台が詰め込まれた八畳の部屋はまるで、田舎の純和風建築の部屋とは思えない今時の乙女の部屋。姫子はそこでいそいそと巫女服を脱いで学校指定のブレザーに着替え始めた。
大好きな学校へ行く準備なので、いつもならウキウキ顔で鼻歌混じりに支度を整えるのだが、今日の姫子は違う。ぽってりとした口を真一文字に閉じ、覚悟と闘争心を秘めた瞳で、何か見えないものを射抜いているような切迫感の塊になっていたのだ。
ーー久しぶりに舞い込んだ「祓い」の相談。父から聞かされた話は間違いなく祓いの部類に入る内容であり、自分の力が求められている局面だと悟り、必要以上に気負っているのだ。
完全に着替え終わり、乱れた髪をブラシで整え、カバンの中身を確認し終えた姫子は、さあ出かけようと自室を後にする際に、ふと化粧台の上に視点を定める。
そこに並ぶのは、まだ使った事すら無い化粧品やポーチ、そして友人たちから貰ったファンシーグッズや可愛いキャラクターグッズなどがあるのだが、異彩を放つ“あり得ない”品が一つ、それらに紛れて飾られているのだ。
それはタバコ、マルボロメンソールの箱。
未成年が吸うと罰せられるあのタバコの箱であり、中身は入っていないのが幸いではあるが、今の姫子とは対極に存在している箱が飾られていたのだ。
それだけならば、背伸びした田舎のレディースが格好付けてタバコの空き箱を飾る程度の可愛さなのだがこの箱だけは違う。
誰かの乾燥した血がびっしりとこびり付いた、いわくありげなタバコの空き箱なのだ。
良く見れば、血で拇印を押したかのように指紋すら残っており凄惨さすら漂って来そうなそれを、姫子は澄んだ瞳で見詰めながら、独り言のようにポツリと呟く。ーーもう誰も傷付けない、もう誰も悲しませない と
それでは行って来ますと、マルボロメンソールの空き箱に挨拶した姫子は、肩で風を切りつつ意を決したかのような表情で出かけて行った。