3.
ぼろぼろの拝殿の中は、神主さんもいないらしく、埃だらけだった。
スニーカーのまま、和泉はずかずかと上がっていく。酒寄はなにか言おうとしかけたが、肩を竦めるに留めた。本人だってよく賽銭箱を腰掛けにしているのだ。
「それにしても……座ろうにも座りたくねぇじゃん、これ。箒かなにか知らない?」
周囲を見回しても、板張りの床と、奥には昔、ここに祭壇かなにかがあったのだろうという程度の段差があるだけだ。和泉も、鳥居と神社の体裁をした建物とお賽銭箱だった箱などで、ここは神社だったのだろうと思っていたにすぎない。
もちろんお寺の縁起のようなものもあるのだろうが、果たして知っている人はいるのだろうか。そういえば、ここの神社の話なんて誰ともしたことはなかったな、と首を捻る。
初詣にも来たことはなかった。そもそもここが神社だと思ったのはいつだったろう。今回飛び込んではじめて気がついたようなものではなかったか?
考えれば考えるほどに混乱して、和泉は腕を組んで唸る。その背後で、酒寄は懐から紙切れを取り出していた。人のような形をしたその紙には、なにか文様のようなものが墨で書かれている。
「祓え清め祓えよ、急急如律令」
いつもとは全く違う声音で紙切れに吐息をかけるようにして囁くと、ふわり、宙にばらまいた。
ぽふり。
音がしたわけではないが、そんな感じにいきなり霧散したように見えて、次の瞬間にはもう、酒寄が小さくデフォルメされたような、手乗り酒寄とでも言いたくなるようなモノに変化していた。
すとんと床に着地すると、八体のちっちゃな酒寄は、わぁわぁきゃあきゃあとはしゃぎながら、いつの間に手にしていたのか、雑巾を持ち、わぁあ~っと一斉に床拭きをはじめた。
その騒々しさに、え?と振り返った和泉は、硬直して固まった。
小鬼みたいな怖さはないが、よくよく見れば酒寄のようだ。
ちっこい酒寄が一匹二匹……。
「……な、なななな……っ?」
思考停止してかくかくと顎を震わせるだけの和泉に、にっこりと振り向いた酒寄がゆらりとした動きで頷く。
「あれはぁ、式神ってぇモノですよぅ。ご存じないですかぁ?」
「しき……がみ? て、あの……安倍晴明とかで出てくる、あれ?」
本やメディアなどで見聞きするレベルの単語が出て、固まりかけていた脳味噌も動き出したようだ。
納得させようと思ったのか、酒寄は懐から人の形の紙切れを数枚引き抜き、ほぉら、と見せた。先程と同じ人の形のそれだ。
「可愛いもんでしょう~? なぁんでか、あたしとおんなじ恰好してるんですよねぇ。術者と似るとは、聞いたことなかったんですけどねぇ~」
言いつつも、疲れを知らずに猛スピードでちっこい酒寄たちが床を磨き上げていく。
邪魔にならないように移動して、その動きを見守るふたりだったが、和泉がふと隣を見ると、酒寄は静かに涙を流していた。
なにか言おうと口を開きかけたが、訊いてはいけない気がして視線を逸らそうとした時には、すぅ、と涙は乾いていた。貴重な瞬間を見たのかも知れなかった。
「そういやあ、酒寄、ここにいるって言ってたじゃん? まさか、ここで寝起きしてるとか言うんじゃあ……?」
綺麗になっていく床に、自分が土足で歩いているのを思い出して気が引けてきた。
「えっと、この裏にある、社務所……だったところ、ですかねぇ」
「ああ、よかった。てか、綺麗になったから、靴、脱いだ方がいいのかな」
「ああまぁ、そのままでいいですよぅ。どうせ神様もいらっしゃらないようですしぃ」
「そっか……て、ええ? 枯れてるなぁとは思ったけど、神様いねぇって、じゃあなんであいつら入ってこれねぇわけ?」
首を傾げて悩む和泉に、酒寄はのほほんと笑うだけだ。
「あんたが神様……でもねぇよな?」
ずいぃっと上からのしかかるようにして酒寄に詰め寄る。
身長差は十センチ以上、和泉が高かった。神様だったとしたら罰当たりな態度だが、酒寄は意に介していなかった。
「神様がこんなにいろいろ忘れていたら、みんなも困っちゃうでしょうに~。でもとりあえず、ここが綺麗になってよかったですよぅ。あたしひとりじゃあ、わざわざ綺麗にしようなんて考えなかったですからぁ」
酒寄はぱんぱんっと手を打ち鳴らす。
ちっこい酒寄たちは、きゃはきゃはっと笑い声を上げながら崩れ落ち、よれよれの紙に戻ってしまった。和泉が近寄って拾い上げようと手を伸ばすが、その紙切れは、青白く輝いて燃え尽きるかのように消えた。
「……これ……使ったら、いなくなっちまうんだ? 可愛かったのに」
問いかけるでもなく呟いて手を引くが、酒寄はにまにましていた。
「おやまぁ、あたしがかわいいとか、はじめてですよぅ~、照れますねぇえ~」
「……っ、ちげぇってっ、そういう意味じゃあ……っ」
和泉は焦って大きく手を振り空気を掻き混ぜ、しゃむなんちゃらに行こうぜっ、と拝殿から飛び出した。
「でさ。実際のところ、酒寄ってなんなんだ?」
酒寄が独り用サイズの冷蔵庫から取り出した麦茶を前に、唸るように和泉が訊いた。
人間ではないナニかにしても、もう恐怖心はなくなっていた。
前時代的な丸いちゃぶ台の上には、コップがみっつ。ひとつには、境内にも生えていた小さな花が一輪挿してある。
座っている畳は、掃除されてはいるがずいぶん古いのだろう、毛羽だっていたりへたれていたり擦り切れていたり、ところどころ黒ずんでいたりしていた。
「それがですねぇ~、あたしもわからないんですよぅ。記憶喪失っていうんですよねぇ、いろいろ思い出さないといけないような気はするんですけど、そういうのに限って思い出せなくて。どうでもいい、さっきの術みたいなのは、ふぅっと思い出して使えたりするんですよぅ」
麦茶をずずず~っと啜り、ため息を漏らす。
「本当に、なんなんでしょうねぇ……」
ぽつり、呟く声は寂しそうだった。
和泉は不思議そうに見つめ、小さく肩を竦める。
「でもよ、オレは酒寄に会ってから、今までとは比較になんねぇくらいいろんなモノが見えちまうようになったし、酒寄も、なんか変、なんだろ?」
「ですねぇ、思い出せないことがこんなにもどかしく思われたのは、はじめてかも知れないですぅ」
はぁ。
またもため息を漏らす酒寄だったが、だったらさ、と続ける和泉に目を向けた。
「オレたち、もしかして、出会うべくして出会ったんじゃねぇか?」
和泉の目に力がこもる。
「お互いにさ、助け合ううちに、なんか思い出せたり、オレの体質が改善されたりするかも知れないじゃん? 今はオレ、悪い方へと向かってる気がしてるけどさ、なにか、前兆みてぇなものかも、だし」
にっ、と口角を上げて親指をぐっと立てる和泉に、酒寄はにっこり笑みを浮かべた。
「そうですねぇ、だといいですねぇ」
「まずはさ、一時しのぎだろうけど、お札、もうちょい余分に欲しくてさ、書いてもらえるかな」
「それくらいはお安いご用ですぅ~」
にこにこと言いながら手の届くところに置かれていた道具箱を引き寄せる。どう見ても工具用だが、持ち運びにも便利だし頑丈っぽいから使い勝手はいいのかも知れない。
開けると中には、短冊タイプの紙と、人の形に切り取られた紙とが、きれいに仕切りの中に分けて収められていた。白紙のままのものとすでに書き込まれたものとも分けてあり、筆記具は筆ペンが何本か。
覗き込んだ和泉は、筆ペンかよ、とおかしげに笑った。
その時。
どこからか、小さな女の子の悲鳴らしき声が聞こえた。