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六月、梅雨の季節。今日は朝からジトジト雨が降っていた。
「ただいまー。愛夏悪い、職場に弁当箱忘れてきた」
夜に仕事から戻った嵐星が私の顔を見るなり言った。
「やだなーもう。カビちゃうから明日は絶対に忘れないでよね」
「ああごめんな。でも今日のも美味かったよ、ありがとう」
そう素直に言われてしまうともう何も言う気は起きない。
「それと明日は中田のウチでスマブラ大会だから」
「オッケー、でもちゃんと帰って来てよね」
「次の日もみんな仕事あるし終電までに帰る」
これは仕事に余裕が出ると時折開催される嵐星のワクワクイベントで、主催者の中田君は嵐星の同期でゲーム仲間。
「いつメンでスマブラするならウチでもいいのに」
「おーい、中田はお前に遠慮してるからウチに来れないんだろうが。察しろ」
「私のことなんか全然気にしなくっていいし」
「馬鹿め、男は繊細なんだ」
去年の夏、私はそれまで何度か家に来ていた中田君から映画に誘われた。
家に遊びに来た彼と、たまたま好きなドラマや映画の話をしていた時。
『へえ愛夏ちゃんもそういうの観るんだ?』
「はい、嵐星と一緒によく観ますよ」
『じゃあさあ今度の劇場版公開、一緒に行かない?公開日にさ。席は僕が予約するし』
正直見た目はちっともタイプじゃないけど、話しやすくて面白い事ばかり言っては笑わせてくる中田君。
「え、どうしよう。嵐星は?」と私は隣にいた嵐星に言った。
『俺その日は仕事だし趣味が合うなら行ってみたらいいじゃん。中田だし』
仲がいい中田君の誘いだからか嵐星の勧めるノリが軽くて私は寂しくなる。
全く、私の気も知らないで。
そう思ったけど中田君はいい人だし断る理由もなく彼と出かけて映画とお茶をした。
でもその後で『愛夏ちゃん、これからも僕と二人で遊んでくれない?愛夏ちゃんが好きなんだ』と告白された。
中田君と二人でいて楽しかったし嫌じゃなかった。
でも、好きという思いには応えることができない。
私はその申し出をお断わりしてしまった。
「私、気になっている人がいて。だから、ごめんなさい」
『そうか、残念だなあ。あ、それならこの事は忘れちゃってね』
優しく笑ってさらりとそう言ってくれた中田君には申し訳ないと思った。もしも付き合えたなら楽しく過ごせたのかも知れない。
それでも気持ちに嘘はつけない。
私が心から大好きなのは嵐星だから。
いつも笑わせてくれたり特別優しくしてくれるわけじゃない、機嫌悪い時なんか全然喋んないし。
それでも並んで歩いて時々横顔を見上げて、マイペースぶりにイラッとさせられたり意地悪されることもあって……。
でも、それでいい。それがいい。お兄ちゃんだし。
だから今は他の誰かと付き合うなんてできない。
私が一番そばにいて欲しいのは嵐星なのだから。
嵐星がスマブラ大会に出掛けたその夜遅く、一人で録画した連ドラを観ていたらインターホンが鳴った。
「愛夏ちゃん?こんばんはー、開けてくれる」
「あれ中田君?」
「うん。嵐星を連れて来た」
ドアを開けると中田君がベロベロに酔った嵐星を抱えるようにして立っていた。
「わっ、お酒臭い!嵐星どうしたの?ごめんなさい、どうぞ上がってください」
中田君の後ろにはもう一人、嵐星のリュックを持ったショートヘアの女の子が居た。
ゲーム大会って女子も参加してたの?聞いてなーい。
「こんばんは、お邪魔します」
「すみません荷物まで持たせて。ほんと最悪です」
「いえいえ、こうなったのは私のせいなんで、ごめんなさい。妹さんですか?私、伊勢エリカって言います。中途で入った嵐星君の同僚です」
「兄がいつもお世話になってます。妹の愛夏です」
「愛夏さん。嵐星君にお弁当作ってあげてる妹さんですね、可愛いな」
小柄でボーイッシュな感じの伊勢さんは酒気を帯びたピンク色の頬で、ウルっとした大きな瞳を私に向けて言った。
「え?」私がお弁当作ってることも知ってるの。
「五人で色んな対戦して負けたら呑む流れになってさ、嵐星イマイチ調子が出なくて結構呑んだ」中田君はクタッとなった嵐星をベッドに寝かせてくれた。
「あーあ、もともとお酒強くないのに」そのうえ負けず嫌いなのだ。
「伊勢と張り合うから。この人ゲームも酒も強いのに」
「ごめんね、年上のくせに私もついマウントとっちゃって。嵐星君の事ガチで潰しにかかりました」と伊勢さんは私に言った。
嵐星よりも年上なの?そう見えないけどな。
「容赦ないのよ、ひどいぜこの人。愛夏ちゃん悪いけど僕お水貰ってもいい?」
嵐星を担いでくれた中田君の為に冷蔵庫からミネラルウオーターを注いであげた。
嵐星も起こしてお水飲ませなきゃ、それに冷たいタオルでも持って行こう。そうだ伊勢さんにもお水を出そう。
タオルとお水を持って嵐星の部屋に戻った、そうしたら。
ベッドに寝てる嵐星、その側に膝立ちして身を屈めた伊勢さんが居た。
目を閉じて眉を寄せ苦しそうな嵐星、その頬に唇を寄せた伊勢さんが。
キスをした。
「あ、……」と声が出て、私はその場に固まった。
「見つかっちゃった、ごめんなさい。なんだか可愛くてつい、出来心です」微笑んで伊勢さんが言った。
出来心って何それ、嵐星の寝顔を見られた上にキスまでも。
やめてよ、こんなのって嫌ーー!と心の中で叫ぶ。
嵐星はちっとも気付いてない。
幸か不幸か、いや私にとっては明らかに不幸な出来事。
「お水、持って来たのでどうぞ」
内心の動揺を隠して伊勢さんにグラスを手渡し、私は嵐星の頬をピシャピシャ叩いた。
「嵐星、ねえ嵐星起きてよ。起きてお水飲もう、二日酔いしちゃうよ」
「うううー、愛夏か?あれ、俺どこに居るんだ……」
「もう!ウチだよ。中田君と伊勢さんが運んでくれたんだよ、起きてちゃんとお礼言いなさい」
クククッと伊勢さんが笑う。「妹さん、可愛い」
「おー嵐星、起きたのか?ここで吐くなよ」と中田君が顔を覗かせた。
「中田ぁ、伊勢ぇ、どうもありがとうー。感謝してます……」
トロンとした目を向けくぐもった声で言う嵐星に、伊勢さんは腰に両手を当てて言った。
「嵐星君、いいもの見せて貰ったゾ。また私にかかって来たらいいよ」
「伊勢ぇ今日は手加減して……いや、お前には完敗だ」
「嵐星、愛夏ちゃんが心配してるからお前は早く水飲んで、明日休むなよ。ほら伊勢、もう帰ろ」
中田君が言って、まだクスクス笑う伊勢さんと一緒に帰って行った。
「あ、そうだ嵐星。昨日のお弁当箱持って来た?」
「リュックに入ってる。ごめん、愛夏出してくれる?」
「しょうがないなあ、いいよ」
「あーあやっちまった、中田をウチに来させるとは失態……」
「そうだね、男は繊細なのに嵐星のお馬鹿」
そう言って冷たいタオルをおデコに乗せてやると「うわっ冷てっ!」と身を縮めた。
お弁当箱を洗いながらさっき目撃したキスを思い出す。
不覚を取ったのは嵐星で伊勢さんも酔ってる感じだった。
とはいえ出来心なんて言われてもモヤモヤするばかり。私も中田君も居るというのに大胆すぎるよ。
もう一杯お水を持って嵐星の部屋に戻った。
「ああタオルが冷たくて気持ちいいよ」
「お水もっと飲んで、はい持って来たよ」
嵐星は起き上がって水を飲んだ。
「お陰でだんだんスッキリして来た。あとはもう自分で何とかするから愛夏も休めよ」
「うん」
「大人しいな、眠いの?怒らないし親切すぎる。ちょっと怖いぞ」
「怖いなんてひどい。だってさっき私、見ちゃったんだもん」
「何を」
「伊勢さんが嵐星にキスするとこ」
「伊勢が俺に、いつ?」
「嵐星がベッドに寝かされたすぐ後くらい、私が中田君にお水出してたりしてた時」
「……マジで?どこにしたの」
「ここだよ、ここ!」
さっきキスされた嵐星の頬っぺたをつついた。
「気づかなかった。伊勢もかなり酔ってたのかなあ、そうでもなさそうに見えたけど」
「私に見つかった時に『可愛くて出来心です』って言ったよ。伊勢さんて、嵐星のことが好きなんじゃないの?」
「はあ?それはないだろ、知らん。よってこの件は終了、お前ももう寝なさい」
「嵐星は何とも思わないの?」
「酔ってたなら意味なんて不明だし、あっちも覚えてないかも知れない」
キスに気付いていなかった彼は取り合わず平静に見えるけど、行き場を失った私のモヤモヤが急激に心で渦を巻く。
「……やだ、嵐星。私はこんなの嫌なのっ!」
「愛夏どうした。あれ、涙目?なんで、泣く事ないだろ」
腕にしがみつく私にそう言いながらも彼は頭を撫でてくれた。
「だって嵐星が好きなんだもん。だからこういうのは嫌」
「あーあ、困ったやつ」
嵐星は軽くハグしてくれた。
この腕の中は昔から私の絶対安全圏で、しかもこの世で一番ドキドキするバリアー。
その中に包まれたらたちまち安らいでいく。
「なあ、これは愛夏が傷つくような事じゃない。だからもう泣くなよ」
「……うん」
嬉しい。あともう少しだけこの温もりの中に居たいな。
でも、これ以上はいけない気がしてわざと言った。
「やだ、嵐星めっちゃお酒臭い!」
「勝手だなあ、落ち着いたならもう寝ろよ。明日遅刻するぞ」
ヒュルン、とバリアー解除の音が響く気がして、私をハグしていた腕が解かれた。




