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「え、春兄が。ここに帰って来たの?」
訪ねてきたのは春兄こと長兄の片山春星だった。
春兄は私よりも十歳年上の二十九歳。だけどもうかれこれ六年も会っていない。
それには訳があった。
六年前のこと。
大学を卒業後S市で就職した春兄は、このマンションの部屋で当時大学生の嵐星と二人で暮らしていた。
その頃私はまだ実家暮らしの中学生だった。
その年の暮れ、春兄も嵐星も実家に帰省してこれから家族揃っての夕食という時に、父の部屋から声高に言い争う春兄と両親の声が漏れてきた。
「どういうつもりだ、それが仕事だっていうのか。到底認めるわけにはいかんぞ!」そう声を荒げた父に「仕事だよ。僕は真剣にやってる、だからこそ自分で直截父さん母さんに話したかった」と反論する春兄。
明らかに不穏な空気が家中に濃く立ち込める。
私は両親に叱られているらしい春兄が気がかりで、廊下に漏れ出す暗く重い空気を払いのけたい気持ちに駆られた。
「ねえ母さん、さっきから父さんと春兄と何話してるの。深刻な話?私お腹すいてきたんだけど……」
何気ない感じで障子を少し開け、入り口に座っていた母に言ったけれど。
「ちょっと待って!春ちゃんとのこれは大事な話だから、愛夏は口を挟むんじゃない」とすぐにシャットアウトされてしまった。
子供に聞かせる話じゃないって事か、春兄が心配なだけなのに傷つくよ。
せっかく家族皆んなで年越ししようって言うのに、この流れは何なの?こんなのは嫌。
すると「おいで愛夏、こっちで一緒にゲームしよう」と、自分の部屋から顔を覗かせた嵐星がことさら優しい口調で私を呼んだ。
「ねえ嵐星、さっきから春兄ずっと父さんに叱られてるよ。仕事辞めたとか?でも一度勤めたからって自分に合わない仕事だったって事もあるよね。父さんは自分が堅い仕事してるから、そういうのは許さないってわけ?なんか春兄、可哀想じゃない」
障子の向こうから小耳に挟んだ情報をもとに私は嵐星に気持ちをぶつけた。
うちの父は小学校教師をしていて当時は教頭だった。
ちなみに今も現役で校長をしている。
「うーん、それはな。でも春兄も思い切ったことしたわけだし、隠すのも良くないって思って覚悟決めて話してるんだろ」
「隠すような事なの?私わかんない」
困ったような顔の嵐星はいつになく歯切れが悪かった。
全然スッキリしない。
暫く一緒にテレビゲームして、その後お菓子を買いに二人で家からちょっと離れたコンビニまで行って帰って来た。そうしたら。
玄関先で一人座り込んだ母がエプロンを握りしめて泣き、父の部屋からは濃い煙草の煙が漂って廊下にまで立ち込めていて。
そして春兄が居なくなっていた。
帰省したばかりの春兄は両親と揉めたあげく勘当騒ぎになり、あげく実家で一緒に年越しをする事もなく帰ってしまったのだ。
後から母に聞いた話では、春兄はもう半年も前に仕事を辞めていて、しかも年明けには女の人と同棲する事にしたと両親に言ったそうだ。
それは家族の誰に相談するでもなく、ずっと同居していた嵐星にさえ秘密にしていた。
頭が冷えたら春星は戻って来る、と両親は言ったけど春兄はそのまま音信不通になり、流れのままに嵐星と暮らしていた部屋からも出て行ったのだった。
その春兄が、ここに帰って来た。
「久しぶり、入ってよ」
「急で悪いな、お邪魔します」
嵐星に促されて居間に現れた春兄は私を見るとにっこりして言った。
「ああ愛夏だ、久しぶりだなあ。大きくなった、てかもう大学生なんだよなあ」
懐かしい春兄の笑顔と声。
六年ぶりに会った春兄は、変わらない深くてとても良い声をしてる。
昔から、見た目は全体に嵐星より男っぽい骨太な感じで笑顔が人なつこい。
サラリーマン時代の黒髪が、うっすらと茶髪に変わって体型も以前より筋肉質な感じになっている。
「春兄こそ、すっごく懐かしい。戻って来たの?嬉しいよ。ねえ、茶髪にしたんだね。それに体鍛えてるの、なんか前よりマッチョじゃない?」
「週一、二回ジムに通ってるからね。もうアラサーだし」
「ジムなんて偉い。春兄、結構ストイックなんだね。ねえ今何してるの、この辺に住んでたの?」
「いいや、今は埼玉で暮らしてる。仕事もずっと続けてるよ」
そう言った春兄はちらっと食卓に目を向けると「これから食事するところだったの?ごめん、これ一応お土産ね。お菓子なんだけど」と私に紙袋を手渡した。
「ありがとう。嵐星がご飯まだなの、春兄は何か食べる?トーストくらいならできるよ」
「いや、いいんだ愛夏。僕はこの後仕事があってさ、お前達も出掛けるんだろ。ひとまず顔が見られて良かった。今夜食事でもしないか?店は僕に任せて」
「私はいいよ、ね嵐星?」
そう言って私は側に立ってる嵐星を見上げ、春兄も彼を見つめた。
「春兄が時間あるならいいよ」と嵐星。
「ならそうしよう。愛夏は何が食べたい?」優しい深い声で春兄が私に尋ねた。
少し顔を寄せた春兄が動くとほんわりといい香りがする。なんの香りだろう。
「うーんと、私は焼肉かイタリアンがいいな」
「オッケー探しておくよ。嵐星に後で連絡するから」
そう言った春兄は靴を履き早くも帰ろうとしていた。
春兄の仕事ってスーツじゃなくていいのかな。
今はVネックのボーダー入りカットソーにライトな色のジャケットだけど。
「もう行っちゃうの春兄?」
「ああ、でも後でまたね。愛夏は綺麗になったね」
去り際に春兄はまたにっこり笑って、ジャケットの胸ポケットに挿していたサングラスを掛けた。