私は太陽が憎い
それから二人はしばしば顔を合わせるようになった。渚はその密会を望んでいたわけではなかったが、自分の領域に他人が土足で入り込んでくるようなことは避けたかった。実際に学校へ現れた龍馬のことを思えば、それ以上に渚の生活が侵される可能性は充分にあったから、その暴発の予防として渚は龍馬の頼みを聞き入れた。
二人は最初、公園や喫茶店で話をすることが多かったが、いつの頃からか庭園で落ち合うようになった。公園ならその辺りにいくらでもあるので都合が良かったが、込み入った話をするには子供たちの声が賑やか過ぎた。庭園と呼ばれるようないくつかの場所は、少額の入園料を払わなければならない代わりにゆっくりじっくりと話すことができ、何か都会の中の避暑地のような、言い換えればオアシスのような趣きがあって、渚は好きだった。折しも暑気が高まってくる頃のことだったから、木陰で話をするというのも気分が良いものではあった。そうした庭園で会うのが渚の好むところではあったけれど、龍馬はどう感じていたかは分からない。もしかしたらわがままになってしまっているかもしれないと思いもしたが、龍馬はいつも同じ自転車に乗って同じような格好でやって来て、喋りたいだけ喋ってさっさと帰っていくから、静かな場所ならばどこでも良かったのだろう。あるいは子供のいる前で演説をしても良いくらいには思っていたかもしれず、いつもそれだけの熱量を持って話を進めるのだった。
龍馬はいつもどこから仕入れてきたのか分からないような話をした。受け売りの陰謀説を語ったかと思えば、次のときには全く反対の説を語ったりもした。龍馬は新奇なものに目がないというのと、そうしたものを抵抗なく受け入れて自分の血肉にしようと努力しているという意味では、まさに龍馬的な存在だった。あるときには渚が、
「君の考えているようなことは、まさに船中八策だね」
と半ば皮肉混じりの言葉をかけたとき、
「それはどういう意味ですか」
などと言って渚を驚かせたりもした。そうした詰めの甘さがあったものの、概ね熱心な若者であるという渚の印象は変わらなかった。
龍馬は、しかし近代の人間とは違って、舗装された道を歩んできた現代人で、毎日有象無象の情報をシャワーのようにたっぷりと浴びて育ってきたのだった。そうした情報に振り回されて情熱を燃やしているという意味では賢くはない。ただ、その賢くないという点を自分でしっかりと認識できているという意味で、無知の知というわけではないが、しっかりと物事を教えればまっすぐ育ちそうな予感はした。渚は一人の教師として、次第に龍馬を見るようになっていた。
二人を分かつものは世代の違いであり、その生まれ育った環境だった。先に言ったように沢山の情報を受容しながら育った龍馬と比べれば、渚の幼少期は牧歌的とも言えるくらいの速さで世の中が進んでいたものだった。そういう時代だったのだ。その安寧は、しかしある出来事によって安寧な生活は破れた。
「先生は以前に人を殺したことがありますか」
いつの日か、龍馬がふとそんなことを尋ねたことがある。そのときの渚は、降り注ぐ光の加減に表情を隠した。
そしてはっきりと、こう言ったのだった。
「一度だけだが、ある」
ある日、落ち合った庭園が何かの都合で休園となっていて入場できず、仕方なくふらふらと歩き回った。この年の梅雨は梅雨らしい表情を見せずに夏が駆け足でやって来ているような具合だった。照りつける日射しに二人は辟易とし、自然と行き着いた場所はとある霊園だった。その辺りの飲食店に入っても良かったが、休日ということもあってどこへ行っても落ち着いて話ができるような場所というのはないだろうし、食事をするような腹具合でもなかった。それで日陰となるようなところを求めて入ったのが、霊園の敷地内だったのだ。
二人が直近に体験した死というものは、二つあった。純粋殺人者の死と、沢田刑事の死。二人が二つの死を思い起こしたのは、そうした場所に足を踏み入れたことの必然的な結果だった。しかしその二つの死は、様々な意味で異なる質のものだった。
あの日、二人は沢田刑事を殺した。そのことは、動かしようのない事実だった。
それは、龍馬にとっては初めて犯した殺人だったが、渚にとっては二度目の殺人だった。渚は、あの日の出来事を、一度目の殺人のことをはっきりと思い出すことができる。その実体が、今目の前に浮かび上がってくるように感じられた。
「渚!」
不意に呼びかけられ、渚は思わず背後に向き直った。それは渚が最も親しくしている友人の姿だった。しかしそれは今現在の友人の姿ではあり得ず、渚が殺人者としての道を歩まなければならなくなったあの日の、中学生の頃の姿だった。そして向き直った渚もまた、幼さの残る顔付きをしていた。
「――!」
「――!」
呼びかけてきた彼は、渚に何かしらの弁解をしているような表情なのだが、その言葉がよく聞き取れなかった。また、渚もそれに応答しているのだが、その言葉が自分でもはっきりと分からない。そうこうするうちに渚は走り去るのだが、その後を彼がまだ追いかけてくる。少し走ったところで階段の傍にある窓から、黄昏時の日の光が差し込んでくるところまできた。その光を瞳で浴びたとき、力尽きようとしている太陽の最後のあがきが、渚に軽い目眩をもたらした。そこへ後を追ってきた彼がやって来るのが分かった。目眩と、それから何かの感情――おそらくはネガティブなもの――が押し寄せてきて、渚は身体にまとわりつくヴェールを剥ぐかのようにして身をよじった。
一瞬の記憶の欠落の後に、渚は彼が階段の下に倒れ込んでいるのを見た。何が起こったのか、渚には分からなかった。けれども何かが起こったことは分かった。赤い記号が流れ出していない分だけ、その深刻さが増していくようでもあったが、そこからの記憶はなかった。忘れてしまったのか、それとも意図的に忘れてしまったのか、それすらも分からなかった……。
「私は太陽が憎い」
我に返った渚が口にした言葉は、しかし必ずしも理性に基づいて発せられたものではない。未だ酩酊の中にあるような気分で、渚は過去に起こったその事件を、どうにかしなければならないと思った。
「龍馬」
呼びかけられた龍馬は驚いた顔で渚を見た。その名で呼ばれたのは、初めてのことだったから。
「……はい!」
「今度の夏、休暇を取って帰省するつもりでいる。一緒に来ないか?」
「えっ、あ、はい!」
夏は、あたかも彼らを待っていたかのように始まろうとしている。