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パラダイム・ロスト  作者: 雨宮吾子
殺人者の再生
8/20

龍馬という男

 渚が療養のために休暇を申し出たのは、その事件が起こってからすぐのことだった。休暇を取るとしても彼が担任をしているクラスのことがあるし、また様々な行事や定期試験のことなどもあって、夏休みの期間中をまるまる使って休暇を取るということで話がまとまった。

 渚は、不可侵の存在となりつつあった。純粋殺人者に一度襲われたときにはその醜聞は一部の人間にしか伝わらなかったけれども、今度ばかりは大々的に報道された事件に関わっていたということもあり、前回のようにはいかなかった。渚は被害者としてではなく目撃者としてその場にいたのだが、どうしてその場に居合わせたのかということが人々の関心の的となったし、その前にも一度殺人者に襲われていたという経緯などがワイドショーで取り上げられたときには、その辺りのことを口にするコメンテーターもいた。話題が大きくなればなる分だけ、渚は孤立していくようなものだった。

 ただ、中には何食わぬ顔で渚に関わってくるような生徒もいたし、特に副担任の教師は却って同情的な態度で接してきた。二十代後半の彼女は接する機会が多いために同僚の中では最も親しいといえる相手だった。渚は己の醜聞について何らの弁解もしなかったが、彼女のような同情的な態度を取られることはある意味で最も苛立たしいことだといえた。とはいえ、今となっては渚はそのような細事に拘うようなことはない。

 何故なら、彼は、完全なる殺人者となったのであるから。

 あの日、あの場所で起きた実際を知る者は二人しかいない。渚と、それから殺人者に襲われていた一人の青年。その青年は純粋なる被害者であったから、世間の関心がそちらへ向くことはなかった。しかし、実はこの出来事で最も大きな心理的変化を遂げたのは、その青年なのだった。




「龍馬?」

 渚は思わず目を丸くして聞き返した。

「ええ、龍馬です」

 彼は笑顔でそう答えた。

 帰宅しようと正門から出てきた渚の腕を掴んで物陰に引っ張ってきたこの男こそ、あの現場に居合わせたもう一人の生還者だった。彼はどこでどのようにして調べてきたのか、渚に会うためにわざわざ中学校を訪ねてきたのだと言った。

 そうして彼が名乗ったのが、龍馬という名である。

「君はそういう名前だったのか」

 あの後、刑事の同席する中で何度か顔を合わせていた二人だったが、こんなふうにお互いの名前を知る機会はなかったし、相手のことをまじまじと観察する余裕もなかった。それで今、突然ではありながらもこうして目の前に立っている男を観察すると、何か今時の若者らしい軽薄さのようなものが見てとれた。ブランド名が大胆に刻まれたジャージを着て、足元もサンダルのようなものを履いていて、そしてあの日と同じように使い古された自転車でやって来たらしい。尤も、年長者が年少者を観察するとき、そこに軽薄さを見るのはいつの時代も同じことであったかもしれないのだが。

「いや、本名はもっと簡単で地味な名前で。何ていうかな、ペンネームじゃないけど、一つの仮面のようなものです」

「仮面、か。それで、その仮面を被って何をするつもりなんだ」

「この国をぶっ壊すんです」

 龍馬と名乗る男からそうした言葉が飛び出てくるのにはぎょっとしないわけでもなかったが、すぐにおかしさがこみ上げてきた。そのように大上段に構えるというか、大げさな言葉を振りかざすのは若さの証明であるように思えた。そのような若さと出会ったのは久しぶりのことのようにも思われる。そこでいう若さとは、愚かさと背中合わせのようなものではあったが。

「いつだったか、あの菅原という刑事が言っていたことを思い出すよ。一人の殺人者に対して国家というものを持ち出したような、そんなおかしさがあるな」

「しかし結局、それも間違いではなかったでしょう。一人の連続殺人者の死は注目を集めたんだから」

「おまけを忘れているよ。一人の殺人者の死と、それから一人の若い刑事の死だ」

 そのように言う渚も、結局はあの若くして殉職した沢田という刑事のことをおまけのようにしか捉えていなかった。

 その本質を見抜いて、龍馬は内心で喜んだ。

「それはともかく、向こうが国家を持ち出したのなら、こちらも国家を持ち出しても構わないんじゃないですか」

「あちらとこちら……、私はそのどちら側にも立つつもりはないよ。君がやろうとしているのはテロか、それともクーデターか」

「……」

 口を噤んだのは龍馬の方だった。その先を考えていなかったのは、やはり若さの故だった。

「袖触れ合うも他生の縁とは言うが、今は静かに暮らしていたい気分なんだ。もう何もいらない、枯れるのを待っていたい、そんな気分だ……」

 渚がそう語ったのは、必ずしも龍馬を牽制してのことではなかった。一つの大きな事件を契機として、いよいよ己の不運を悟ったかのような気分になっていた。

 しかし、どこか達観したかのようなその眼を覗き込むようにして、龍馬の仄暗い感情が閃いた。

「一人の刑事を殺した後で、ですか?」

 渚の瞳が回遊魚のように動き回るのを、龍馬は半ば嘲りながら見ていた。

「しかしあれは、君が――」

「冗談です。あれはそう……、あの殺人者の反撃を受けて死んだ、それだけのことです」

 渚はこのときになって初めて龍馬の恐ろしさを、その心の奥底にある得体の知れなさを知った。単なる軽薄な若者だと思っていたが――いや、それ以外の何者でもないかもしれないが――、そうであるだけに一つの時代の結晶としての若者の、無垢な暴力性のようなものを感じ取った。

 実際のところ、あの沢田という刑事の喉笛にナイフを振り下ろしたのは、渚だったのだろうか。今となっては、あれがいつどこで起こったことなのか、もしかすると夢の中で起こったのかもしれないという、曖昧な記憶だけが残っている。それを無責任だと詰るような者がないことは渚にとっての幸福であり、それに反して人間としての規範から転げ落ちていくことを止める者のないことは不幸だといえた。

「結局、君は何を求めているんだ?」

「僕の計画に協力してほしいんです」

「計画?」

「この国をぶっ壊すんです」

 またその繰り返しか、と渚は思わずにはいられなかった。しかし同じ言葉の繰り返しが、冗談のように感じられなくなったのは何故だろうか。それはこの青年の恐ろしさを知ったためだろうか。それとも、そこに共鳴する何かが自分の奥底にあるのか。

「やりましょう、先生」

 そう呼びかけてきたこの青年には、いつかの純粋殺人者と重なるところは全くなかった。行為ではなく観念だけが、その身の内にあるように思えたから。

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