名もなき死
渚と殺人者は河原からさして遠くもない喫茶店に入り、しばらく腰を落ち着けることにした。初めて出会ったときもそうだったが、彼にはこの辺りに土地勘があるのか、迷うこともなくこの店に渚を導いてきたのだった。彼が本当はどこに住んでいるのか、そうした疑問は話の種としては絶好のものだったが、妙な深入りをしたくないという理性の働きがあったし、そのようなことを尋ねるのは自分があの菅原という刑事の姿に重なってしまような気がしたので、ぐっと飲み込んだ。
それにしても彼はどうしてあんなところで渚を見つけたのだろう。ひょっとすると、渚は自分が付け回されていたのではないかという疑惑を抱いた。
「そんなことはありませんよ。ただただ死の臭いに惹かれてきたんです。そうしたらふらふらと歩いている人影を見かけて、それが」
「私だった」
「そうです」
彼はそう言ってみせたが、渚にしてみればどこまで信じて良いものか分からない。
「死の臭いというのは?」
「臭いとは言いましたがね、実際には第六感というのかな、そういうところで感じるものですよ。死の観念というか想念というか、そうしたものは人の肉の内に留まっていられずに、皮膚の毛穴かどこかから漏れてくるんです。だから臭いなんです」
「……」
渚は否定も肯定もせず、ただ冷水を飲んだ。すると、話の行先が少し逸れた。
「どうもね、先生がどこぞの文学者のように入水自殺でも企んでいるかのように見えたんです」
「入水自殺だって?」
「ええ。しかし、あそこは玉川上水ではないし、お伴も連れずに向こう側へ行くようなことはしないだろうからと思って、念のために近付いていったら」
「見知った顔だったというわけか」
「そうですそうです」
自分はそんなに弱くはないと抗弁しようとしたが、弱い人間ばかりが自殺を図るものでもないなと、ただ何となくそう思わないでもなかった。
しかし、考えようによっては不思議なことだと、渚はそう思わざるを得ない。相手は仮にも自分を殺そうとしたことのある男である。そんな男とまた出会い、白昼の街中をふらふらと歩き、今やこうして喫茶店で向かい合ってコーヒーを飲んでいる。それが不思議でないはずがなかった。人知を超えた何かが、この唯物的な都市の中に蠢いている。そのことがまた不思議に感じられた。
そして重ねるように不思議なことは、河原で腕を掴まれたあのときの感触だ。柔らかく温かみのある血の通った人間の感触が、そこにはあった。人は彼が犯してきた犯罪の実際を知れば――それは渚自身も未だ知り得ていないことではあるが――、きっと人ならぬ者として、あの菅原刑事のように殺人鬼と呼ぶことだろう。しかしそうした意味付けでは割り切れないものが、あのときの感触にはあった。渚は一転して、彼のことを知りたいと思うようになった。もしも彼が殺人者でありながら同時に人であると言い得るのなら、渚もまた殺人者であると同時に一個の人間として認められるのではないか、そんなことを考えもした。
「残念なことに、私には一緒に旅立ってくれる者もなくてね。君はどうなんだ?」
渚は話題を続けながらも少しばかりの方向転換を試みた。
「俺には妻がいて、子供も一人います。もしものときは、道連れですよ」
彼の言葉に渚は頭蓋を殴られたかのような驚きを覚えた。渚と彼とを一人の殺人者として対等に置くとして、彼が妻と子供を抱える身であるというのなら、尋常な生活を諦めようとして諦めきれずにきた渚の背負ってきた煩悶とは一体何だったのだろうか?
そして同時に驚かされたのは、彼の人格が立派な殺人者としての強度を持っていることだった。善良な人間の皮を被って生きてきた渚にしてみれば、家族二人の運命をまるで自分のことのように扱う彼の姿勢には憤りを感じさえした。
「そんな顔をしないで下さい。妻と子供は知っているんです、俺のやっていることを」
「……異常だ。そんなの、異常でしかない」
「それは先生も既にご存知のはずでしょう」
「それでも異常だとしか思えないんだ」
渚の語気が強まるのを、殺人者は目で制した。渚はまだ冷静でいたから、店内の雰囲気を乱さずに済んだ。しかし、それと同時に緊張が生まれもした。
「……どうしてそんなことになった?」
「家族の歴史を語るにはあまりにも時間が足りませんがね、運命とだけ言っておくことにします」
「君が構わないなら、私はどこまでも付き合うがね」
「しかし、あちらの雲をご覧なさい」
殺人者の指差した方向を見れば、休日の黄昏に忍び寄ろうとしている黒雲を認めることができた。
「ごまかすつもりか」
「そう、その通り。先生のその目は、何か怖いものが宿っていますから」
渚の瞳の色が少し変わった。その瞳は、殺人者をじっと見つめていた。
「一つだけ、教えて欲しいことがある。簡単な質問だ。どうして人を殺さなければならないんだ?」
「簡単に思えるものこそ、最も難しいものではありますがね……、答えないというわけにはいかないようですね」
殺人者は軽くため息をして、姿勢を改めた。
「実は俺にもその理由が分からないんです。あえて言うならば、生きる欲望として人を殺さなければならないんです」
渚は口を噤み、感情を閉ざした。すると堰を切ったようにして殺人者は言葉を語り始めた。
「先生は人間を解剖したことはないでしょう。俺は解剖しようとしたことはあります。人間というものがどういう構造をしているのか、学校で習うようなことではなく、自分の目でその本質を知りたいと思ったんです。しかし、俺は成し遂げることができなかった。人間はどんなに綺麗な顔をしていても、またどんなに高邁な理想を抱いていても、そこにある肉体の奥の奥は誰しもが醜いんです。その醜さに俺は耐えきれなかった。そこで俺は気付いたんです、人が好きであるとか嫌いであるとか、そんな理由で人を殺しているわけじゃないと。もっと、マクロな視点から人を殺していたんだと。だから俺は感情で殺人をしているのではなく、思想の表現として殺人をしているんです。つまり、社会への、文明への挑戦です。彼らはきっと、そこに何かの動機が、容易に理解できるところの動機というもの、物語として噛み砕いたものを見聞きして理解したつもりになるんでしょう、そうして社会に理解できないものはないとして、そうして暴こうとしたものを社会に還元しようとするはずです。しかし俺はそれを拒む。一つの割り切れない不気味な何かとして、そこに存在していたいんです」
殺人者が滔々と語るのを渚は黙って聞いていたが、聞けば聞くほどに理解不能の肉片が語っているかのような、そんな印象を持った。それはある意味でこの純粋殺人者の意図したものを肯定するようなものであったかもしれないが、渚はそれだけではなく、何か失望のようなものを感じもした。純粋殺人者に肯定できるような思想があったのであれば、それは反射する光となって、渚の暗い過去を肯定するようなものとなり得たかもしれない。そのような淡く、勝手な希望を抱いたこと自体を、今の渚は後悔していた。
「君は、自分自身から死の臭いを感じるか?」
「自分の臭いは、自分には分からないものです」
「……私から、死の臭いはするか?」
殺人者は渚の瞳を見つめて、こう言った。
「ええ、はっきりと」
殺人者はそう言って微笑むと、腕時計を瞥見し、伝票を取って立ち上がった。渚はすかさずその手を掴み、
「忘れ物だ」
自分のコーヒー代を殺人者の手の中に押し込んだのだった。
店を出ると、西からの風が強く吹き、黒雲が威風堂々と進軍してくるのが肌で感じられた。二人はどちらから合図するでもなく、先程出会ったところへ向かって歩き始めた。そこではもう会話が交わされることもなく、付かず離れずの距離で二人は歩いた。やがて河原まで戻ってきたとき、二人はようやく決別の時を受け入れることができたかのように、正反対の方向へそれぞれ歩き始めた。純粋殺人者は渚を殺そうとはせず、渚もまた殺人者を倒そうとはしなかった。二人がそれを永遠の別れであるように感じたかどうかは分からなかったが、再び出会うこともないだろうと、一方の渚は感じていたのだった。
駅への道を急ぐ渚の心に妙な予感が兆したのは、何が原因だったのだろう。雨に濡れまいとして一歩でも前に進もうとする足の動きに反して、後ろ髪を引かれるような何かを感じ、それが鼓動を妙に高鳴らせていたのだ。山高帽を被った老人とすれ違い、テレビ番組の撮影をしている芸能人たちを見かけ、飼い主の手から逃れて何匹もの犬たちが足元にすり寄ってきたとき、渚は常ならぬものを感じ、次の瞬間には確信していた。
渚は、彼らのやり方を直感した。あの菅原という刑事は、渚の心の中に淀んでいる暗闇を、しっかりと見抜いていたのだ。
渚は立ち止まり、そして次の瞬間には歩いてきた道を、今度は駆け足で遡っていった。その先にあるものが何かの破局であることを知りながら。
渚が河原まで戻ってきたのは風雨の先駆けが通り過ぎていった後で、見える限りの世界を覆い尽くす程の強雨が降り始めていた。渚は雨に濡れる目元を拭いながら殺人者を追いかけていった。しかし、渚にはあの殺人者のように第六感を云々するような力はなく、しかも雨の中とあっては死の臭いが分かるはずもなかった。それでも芒の生い茂る一帯へと足を向けたのは、まさに何かの運命であるのかもしれない。
芒の途絶えているところで少し古びた自転車が雨に打たれて喘いでいた。しかしよく耳を澄ませば、それが人間の喘いでいる声であることが分かった。芒をかき分けていくと、そこに蠢いている三つの人影があった。渚の持っているようなくたびれたスーツの男と、それに対峙している殺人者、それから少し離れたところで尻餅をついている若い男。渚が目を凝らしたちょうどその瞬間、乾いた音が雨の中をかい潜って、聴覚に響いた。想像するよりも簡単に、殺人者が地面に倒れた。何事もなかったかのように雨は降り続き、そこで終わってしまった一つの生が、渚の心を打った。
足を踏み出したとき、スーツの男が拳銃を渚の方へ向けた。それは、以前に会った沢田という刑事だった。彼は新たな人物の登場に驚いたという様子ではなく、反射的にそうしただけであるということを仕草で示そうとした。それが、渚が彼に尾行されていたことの一つの証となった。渚がそのことに想いを馳せる暇もなく、事態は動いた。すっかり油断していた沢田の脇腹を、殺人者の刃が貫いたのである。今度こそ本当に、生というものが真っ赤な血という証拠を伴って溢れ出てきた。しばらくもみ合いになったが、しかし殺人者の抵抗も虚しく、二発目の発砲音の後ではっきりと一つの死が訪れた。
渚が駆け寄ったのは、生き残った勝者ではなく死んでしまった敗者の方だった。純粋殺人者は、雨に濡れたせいか青ざめた色をしている。渚はその手に握られていたナイフを、自分の手の中に収めた。死者にナイフは似合わないから。
渚が立ち上がって振り向くと、沢田は地面に倒れてうめき声を上げていた。苦痛に顔をしかめながらも意識ははっきりとしているようで、しかし身体の自由は利かないようでもある。歩み寄ると、刑事は心配ないとでも言いたげな顔をして、渚を見上げた。
渚は、決断を強いられた。この場にいるもう一人の人物、おそらく殺人者に襲われたのであろう若い男に見つめられているのを、渚はそのときになって察した。彼は、渚の決断を見抜いていた。
次の瞬間、渚のナイフを握る手に力が込められた。
いつまでも降り続く雨だけが、事態の全てを観察していた。
翌日の新聞に掲載された事件の記事は、次のような第一報を伝えた。
これまでに連続して殺人を犯してきたとみられる氏名及び住所不詳の男が警察官の銃弾を受けて死亡した。発泡した警察官もまた男の反撃を受けて殉職。その経緯は現場にいた二人の男性によって証言されたものであり、警察は全容の解明に向けて捜査を続けている。