名もなき都市
渚の体験したことがどのように伝わったかは分からないが、彼に接する同僚たちの態度は一見すると大して変化はなかった。ただ、よく注意してみると、そこには微かな憐憫や軽蔑の色が目の奥に浮かんでいて、普段は他人の顔色を窺うようなことのない渚も流石に辟易とさせられた。実際に起こったことを列挙してみれば、酔った挙句に見知らぬ男に殺されかけて路上に倒れていたのを救急車で運ばれたのだから、そうした感情を沸き立たせるのも仕方のないことではある。いっそのこと、分かりやすいところに傷でも残してくれていたならと真剣に考える程に渚は阿呆ではないが、そうした発想が全くなかったかといえば嘘になる。渚の味方になってくれるような人物は一人もおらず、今更ながらに都会の闇の深さというものに接した気分にもなった。そんなつまらないことで都会の闇の深さを知った気になるとは馬鹿らしいと、自嘲せずにはいられないのもまた難儀なものではある。いずれにしても、肩身の狭い思いをする羽目になってしまった。
財布に入れていた金が少しばかり減っていることに気付いたのは、あの後自宅に帰ってからのことだった。その額を計算してみると、あの殺人者を名乗る男と飲食をしたときに自分が飲み食いをした分だけ減っていたので、律儀な男だと不意に笑いがこみ上げてきた。そのことからも分かるように、渚は殺人者を憎めずにいる。あの菅原という刑事に比べれば、逸脱者であるはずの殺人者の方がよほど人間味があって、好ましく思えさえした。それにしても、渚が他者に対してこのような好ましさを覚えたのは実に久しぶりのことだ。そもそもそこまで深い人付き合いをすることがなかったためでもある。実家のある千葉にはしばらく戻っていないから親類縁者と会うこともなかったし、それ以外に親密な付き合いをする人間は、女性を含めて全くなかった。
そこへ一通の報せが届いたのは全くの偶然とも思えないのではないかと、珍しく湿った気持ちで渚は考えた。それは大型連休を利用して同窓会を開くという報せだった。彼の現住所を知る唯一の人間である母親から律儀にも転送されてきたもので、渚は何やら重い荷物を背負わされたかのような息苦しさを感じた。その感情の表面をなぞるとすれば、大きな連休があると毎度のように帰郷を促してくる母への鬱陶しさがあり、そうした感情の奥にもまた別の暗い感情があった。とにかく渚はその報せに返信することもなく、はがきをチェストの上に放り投げた。
季節外れの暑さに辟易としながらも渚はその春を何とか過ごしていた。生活上に起こった僅かな変化、つまり例の事件には渚を突き動かす程の衝撃はなかった。それまでのように最低限の情報をテレビから得る生活が続いた。報道される事件には痛ましいものが多かったが、やはりそれも対岸の火事のようにしか感じられず、却って国際情勢の変化の方が渚には現実味が感じられた。ただ、殺人事件の報道があると渚はそれまでとは違って興味を持つようになった。菅原刑事への不協力によって、渚は野を駆け巡る殺人者を陰ながら助力する形になったのだが、その行いがもたらす結果というものには必ずしも自覚的はなかった。あのとき、もっと熱心に情報を提供していれば救い得た命があったかもしれないし、既に奪われた命への弔いができたかもしれない。それをしなかったのは、根本的には渚自身が殺人者となってしまったことが影響していたに違いない。
渚はどのような経緯で殺人者となったか。それについて知るには、まだしばらくの時間が必要となる。
次の日曜日、渚はふと街中を歩いてみようという気になった。自宅でできるような仕事はいくらでもあるし、たまには家の大掃除をするなどしても良かったのだが、その日は出歩きたい気分だった。思えば、昼間の街中を意味もなく彷徨い歩くようなことはこの数年間で何度あっただろうか。そのくらいに久しぶりのことだった。
周縁部の端に近い地域に住む渚は、都心部に出るために駅へ向かった。駅までは歩いて十五分もあれば着く距離だ。日曜日ともなるとどこへ行っても人が多いに違いないが、この大都会に住み始めてからはそんなことは気にならなくなった。嫌でも他人と顔を付き合わせなければならない環境の中にいると、人に酔うという感覚も鈍ってしまった。それが進歩であるのか退歩であるのか、一概にはどうとも言えないものではあるが、しかしそうした感覚の鈍化は年齢を重ねるにつれて強まってきている。そうして感覚が鈍る中でも、あの日あの瞬間の光景、感触、そして血の気の引くような思いというものは、一向に色褪せる気配がない。その出来事というのは、もちろん渚が殺人者の階梯を登らざるを得なくなった事件のことだ。
故郷から逃れるようにしてやって来たこの都会の中では、溢れんばかりの人の陰にそうした出来事も覆い隠される。それは別に渚に限った話ではなく、例えば時々すれ違う隣近所の人間にしても、何かしらの後ろ暗い過去があってもおかしくはない。平然と太陽の下を歩く人間こそ、陰では淫蕩の限りを尽くしているかもしれない。しかし、そうしたことは渚にとって何の慰みにもならなかった。むしろそのような、過去を洗い流すことをせずに上からどんどん土をかけていくようなことをしている限り、自身が殺人者であるという重荷を下ろすことはできないのだった。そしてこの大都会のそこかしこで同じようなことが行われているという事実は、遠い未来の破綻というものを否が応でも想像させるのだ。
この国は衰亡している。数年後に開かれる国際的な祭典は少なからず人々の気持ちを高揚させるはずだ。それは打ち上げ花火のように大きな光となって世界へ向けて咲き誇るものとなるはずだが、同時に一種の虚無感をいよいよ募らせるだけのことになりはしないかと危惧させるものがある。また、そうした祭典に、つまり一種の権威に縋らなければならない程にこの国が衰亡しているのかもしれないという想念は、渚の中で強まってきているのだった。一つの出来事を捉えるとき、最近の渚は何でもそうした虚しさを伴わずにはいられなくなってきているから、それは杞憂に過ぎず、意外にこの国の将来は明るいのかもしれない。しかし、忘れてはならない。明治国家という一個の人格が造り上げられたときから、この国が楽観的な観念で国際情勢に接することができた瞬間などなかったのだということを。
もしも外からの揺さぶりを無視するとしても、この国の屋台骨が腐り始めているのだとしたら、自然と内部から崩壊していってしまうだろう。もし、この国を丸ごと筒の中に詰め込んで打ち上げられるとするなら、そこにはどのような模様の花火が浮かび上がるだろう。少なくとも綺麗な色ではないだろう。しかし、もしそんなことができるのであれば、渚はその身を賭してでもこの国を打ち倒してしまっても良かった。
渚はいつになくとりとめのないことを考えてしまっていた。いつもならそうした考えに傾倒するようなことはなかったはずなのだが、例の殺人者との出来事が渚の何かを変えてしまったのかもしれない。そして、そうした考えに対する彼なりの解答を与えるよりも早く、駅に着いてしまった。都心部へ行くのは止めよう、そう思ったのは歩きながら考えるあれこれが、その内容に反して意外にも楽しかったことによる。彼は駅の脇を通り抜けようとして踏切に遮られた。
線路は続くよ、どこまでも。すべての道はローマに通ずと言うけれども、この線路を辿っていけば北海道から九州までどこへだって行くことができる。そのことが、渚にとってはひどく理解しがたいことのように思われた。そうした認知機能の限界を、言い換えれば想像力の限界を悟るのは、とても久しぶりのことだった。幼い頃は自分の関与し得る世界というのはもっと小さく、その分だけ意識の及ぶ範囲の限界をよく知っていた。それが長ずるにつれて世界の見え方が変わり、また広がり、そうした限界を感じられる機会は随分と減った。ある言い方をすれば、この世界が自分を中心にして転回しているわけではないという事実を知ったのだ。
今、あの殺人者は何をしているだろう。
ふと思い至ったそのこともまた、何かしらの限界を教えてくれた。どこかで食事をしているのかもしれないし、あるいはどこかで人を埋葬しているのかもしれない。不思議なのは、自分の認知し得る空間に存在していない人物が、それでも間違いなく自分と同じ世界に存在しているということだった。そして、この場にはいない人物を鮮明に思い描くことができるということもまた不思議だった。
そんなことを考えているうちにいつの間にやら近所の商店街の中に足を踏み入れていた。シャッターの閉まっている店も少なくはないが、それでもまだまだ活気のある商店街で、渚もたまにここへ足を運ぶ。ただ、日曜日の昼下がりということもあって、今は人影がまばらだった。先程から考えていることにまとわりついているのは、死というものだった。この昔ながらの商店街も、いずれは何かもっと大きなものに押し潰されて消え失せてしまうのだろう。
この都市もまた、いずれ死に絶えてしまうのだろうか。少なくとも今はまだその気配はない。建物や道路や地下の工事など、あらゆるところで普請の音が聞かれるこの都市からは、何か死というものから逃れようとしているかのような印象を受ける。何事においても完成の瞬間こそがその現象の頂点で、それ以後はもう死に向かって坂を転げ落ちていくようなものだが、そのような完成というものから逃れるために、この都市は改造され続けているのではないだろうか。
ただ、そうした改造が同時に死を孕んでもいることに渚は気付いていた。どこかの街角に何か新しい建物が建つ。それは誕生でもあるが、その前提として死を孕んでいるのだ。最もおぞましいのは死というものが記憶されないことだ。その誕生以前にそこに何があったか、人々の記憶は定かではない。たとえ最初のうちは昔の建物を覚えていても、それもいずれは忘却され、やがてそこにあった真新しさすらも生活の中に組み込まれていき、遂には全てが忘れ去られてしまう。そうした、建築の死と再生の中で、人々は人間の死をも忘れてしまう。そのことが、今の渚には恐ろしく思えた。
少なくとも、渚は殺人者となってしまったきっかけを忘れない。しかし、四半世紀もすれば渚という存在そのものが消え、そしてその記憶の中にある一つの死というものもまた立ち消えてしまうのではないか。そのことがとても恐ろしいのだ。今ここで思い悩んでいることそのものが、まるで最初から存在していなかったかのように消滅してしまうこと、それは絵空事ではなく、おそらくは現実に起こってしまうことなのだ。そのことがひどく虚しいのだ。
文明と野蛮とを対比したとき、現象を記憶したり記録したりするのはどちらかと問われたならば、まず間違いなく文明の方だと答えるだろう。しかし、渚の考えてきたことを辿ってみれば、それは必ずしも正しくはない。むしろ野蛮の中にこそ、生命への神秘、生きることと死ぬことへの神秘が色濃く存在している。それと同時に、文明は進化というものに囚われ続けている限り、死というものを追い求める宿命にある。進化の極点には死があるのだから。そうして、死を追い求める文明の一つの結晶である大都市の底を往く人々もまた、死に取り憑かれた生者たちである。お互いを殺し合うのならばまだ幸せな方で、自らで死を選ぶというのも珍しいことではなかった。渚はそうしたことに対して、潮風に身を曝すような心持ちとなった。
結局、渚はどこへ辿り着いたのだろう。少なくとも今はまだ、自分の名をこの世界に刻むことを欲するわけではない、それでいて自分の痕跡が消えてしまうことが恐ろしく、また同時にいつかは一人の殺人者が歴史の闇の中に埋もれていくことを思うと、そこに何かしらの救いがあるようにも思えた……。
いつしか川沿いに漂着した渚は、少し前にシェイクスピアのジュリアス・シーザーを読んだときのことを思い返した。どうしてここでそのことが思い出されたのかは明瞭ではないが、そうした記憶が家を出てからの思考と絡み合って、やはり後ろ向きな観念を形成していくのだった。さっき、何事においても完成の瞬間こそがその現象の頂点なのだと何の疑いもなくそう思ったものだが、人間においてはその完成というものはどこにあたるのだろう。実は渚の中ではもうとっくにその答えが出ていて、それは誕生の瞬間なのだった。となれば、人は生まれながらに転落を宿命付けられているようなものだが、死者といわず生者といわず全人類を巻き込んだその結論は、結局は渚の存在を擁護するために編み出されたものだった。そこで出てくるのがシェイクスピアで、どこでどういう文脈でそのような言葉が出てくるのかはまるで覚えていないが、人間が泣きながらに生まれてくるのはこの阿呆ばかりの世界に突き出されたのが悲しいからというような一文があったはずだ。世界というのは、言い換えれば舞台とも言える。
一期は夢よ、只狂え。
ふと、また思いもよらぬところからそのような言葉が飛び出してきた。この世界が一幕の舞台であるとして、その地獄の閻魔帳にはきっと渚の名は記されていない。ただそこにあるのは殺人者という漂白された一概念で、渚はもうその性格を帯びた以上はどうにもならないものだと感じざるを得ない。ならば、何を思い悩むことがあるだろう。ここから先は、その役割を身に引き受けて生きていくしかないではないか。
渚はだだっ広い河原にしゃがんで水の流れを眺めていたが、物憂げに立ち上がってその川面に煌めく光の粒を凝視した。縁に立っている、自分は世界の縁に立っていると思いながら、そこから足を踏み出す勇気が持てず、しばらくそこで立ちすくんでいた。ざっ、と砂利を踏む音が聞こえたかと思った次の瞬間、彼の腕を掴む柔らかい感触があった。
「どうしたんです、先生」
それは、あの純粋殺人者だった。