菅原と沢田
目を覚ましたときの静けさと微かに漂う薬品の臭いと白く統一された室内の様子から、そこが医務室か何かだというのは容易に察することができた。自分の身を包んでいる毛布にはそうした薬品の臭いが染み付いていたけれども、今は暖かさの方が勝って嫌な気持ちはしない。実際にはかなりの時間が経っているのだろうが、直前には冷たく乾いた、そして汚れた舗道の上に倒れていたものと知覚していたから、柔らかく温かい毛布に包まれることは無条件に幸福を呼び起こした。
渚が身を起こそうと試みるのを抑える手があった。続いて聴覚に優しく訴えかけてくる声があった。それは女性の声だった。
「まだ寝ていて下さいね」
「ここは……?」
「病院です。道端に倒れていたのが見つかって、外見に異常はなかったのですが念のためにこちらまで運ばれてきた、ということみたいです」
「ああ、特に異常はないと思うが……。しかしどうしてそんなことになったんだろう」
「それは、私の方から話しましょう」
急に低い男性の声がしたので渚は驚かされた。それでも意識はまだ鮮明とは言い難かったから、表情や仕草にはその驚きは表れなかった。
「私、こういうものです」
そう言って渚の視界に伸びてきた手には、黒い手帳が握られていた。
「ドラマなんかで見たことがあるでしょう、警察手帳」
「あいにく、テレビはあまり見ませんが、まあ馴染みがないわけでもないですね」
「へえ、そうですか。端的に言うと、あなたは道端で酔っ払って倒れていたというわけですが、そうやって警察に厄介になった経験がありますか」
「いや、そういうわけでもありませんが……」
「これは失礼、警察に厄介というのは無礼でした。まあ、それだけならわざわざ病院に運ばれてくることもないんですよ。事情はお分かりですか」
渚は沈黙した。気分がまだはっきりしなかったためでもあるが、あの男が最後に漏らした言葉を思い返していたためでもあった。
その沈黙を、この刑事がどう判断したのかは分からなかったが、表面的には疑念を持たれたようには思われなかった。
「では、一から説明しましょう。沢田、代わってくれ」
室内にはもう一人の刑事がいたらしく、推察したところ渚よりも少し若いくらいの男だった。
年配の刑事は一歩下がったところで何をしているのか、おそらくは渚の様子を観察しているのだろう。
「失礼します。あなたは駅の近くの蕎麦屋で酒を飲んでいましたね?」
「ええ、その記憶はあります」
「ある男と一緒でしたね」
「ええ」
「その男が何者か、ご存知でしたか?」
「何だか、尋問を受けているみたいだ」
「失礼。ただ、大事なことなんです」
「たったひとりの人間の正体が、ですか」
「そうです」
「誰にとって大事なことなんですか。少なくとも私にとっては大事なことじゃない」
「国家。いやもっと大きなものかな……」
年配の刑事が呟くように言ったので、他の二人は口を閉じてその続きを待った。
「いや、失敬。それほどのことではありませんが、少なくともこの地域の人間にとっては大事なことです。ひいては東京都民にとってね」
「私は千葉から上京してきた身なんですがね、千葉県民にとっては無関係なことですか」
「……随分と偏った価値観をお持ちなのか、それとも我々警察に恨みがあるのか分かりませんが、あなたも公務員の端くれでしょう。少しは協力してくれませんか」
その論理に渚が納得できるだけのものはなかったが、それでもこれ以上の意地悪は厄介なことになりそうだったし、あの男と関わりがあると思われても面倒だった。
「まだ状況が掴めないのと、慣れない酒を飲んだのが残っているもので……。悪いことをしました」
「そういうことなら仕方ないですね。それで、あの男とは知り合いですか?」
渚が謝ってみせると、若い刑事がそう言った。
「実は全く面識のない人物だったんです。相手が私を知り合いと間違えて話しかけてきたのがきっかけで」
「偶然ではないんですよ、それが」
「そう、あの男は、殺人鬼です」
再び年配の刑事が口を挟んできた。
渚は微妙な感情を覚えたが、それでいて表情では驚きを示した。その驚きを沢田という若輩の刑事は満足そうに受け止めた。
「殺人鬼、ですか……」
「そう。人ならぬ鬼ですよ、あれは。これまでに何人もの人間が餌食にされています」
「その鬼を生んだのは誰でしょうね」
「それはどういう――」
沢田が呆気にとられるのを尻目に、年配の刑事は渚を見つめながらこう言った。
「この広い都市圏にはどこから入り込んできたのか、恐ろしい鬼が潜んでいますな」
「つまり、鬼は外からやってきただけであって、この都市がそうした鬼を生み出すことはあり得ないというわけですか。その傲慢さに足を取られないようにしないといけませんね」
年配の刑事はまた一つ、渚に対する印象を悪くしたようだった。渚は汚点を身に背負っている分だけ、却って強気になれる自分を感じた。
「そろそろ現実的な話をしましょう。その男の特徴を聞きたいんです」
「人の顔を覚えるのは苦手だし、酒の席だから服装ですらも覚えていませんよ」
「そうだとしても、あの男と話したあなたにしか分からないことがあるでしょう」
「というと?」
「話の内容、例えばどこに住んでいるとか家族構成はどうとかどんな仕事をしているとか。他には癖や方言や傾向、まあ広く言えばその男の人格のようなものです」
「さあ、どんなことを話したものだか。どこの生まれなのかは知らないし、政治の話なんてものもしていませんね。思い出せるのは……贔屓の球団くらいでしょうか。あとは好きな力士とか」
「スポーツの話題ですか、まあそれも一応聞いておきましょう」
渚がそれら最低限の表情を伝えると、沢田は僅かな収穫を律儀に書き記した。その後ろから近付いてきた年配の刑事は、一片の紙を渚に差し出した。
「他に何か思い出したらご連絡を」
菅原という刑事の名前と連絡先が記されていた。渚には意味を持たない文字列に思えたが、すぐに気が変わってその紙を大事にしまい込んだ。
「ところで先生、あなたはおいくつになりますか」
「今年で四十ですが」
「そう、私とちょうど一回り違うわけか。ご結婚は? ……いや、個人的な興味ですよ」
「独身です。刑事さんは?」
「残念ながらね。ただ、私の場合は妻に逃げられました。それこそ、ドラマでよくあるような話ですがね」
渚には菅原がどうしてそんな話をするのか、よく分からなかった。
「あなたとは不思議な縁がありそうだ。これは勘、ですがね」
「そうですか」
「ただ、刑事と縁があるのはろくなもんじゃないな、あなたもそう思うでしょう?」
「ヤクザとランデブーするよりはずっとマシですよ」
「ふん、違いない。まあ、ゆっくり身体を休めて下さい。じゃ、失礼します」
二人の刑事が出ていくと、それまで静かに二人の会話を聞いていた看護婦は渚が身体を起こすのを手伝った。
「不思議な人でしたね。何というか、人間味のあるような感じの、昔ながらの刑事さんというか」
「暮らしてきた時間が違うんでしょう。同じ国の同じ地域で暮らしていても、そこで過ごす時間の密度というか、そういうものは一定じゃないですから」
「あら、あなたも不思議な人。そういう詩的なことを言う人、もういないと思ってたわ」
渚は苦笑いをしながらも起き上がった。少しばかり頭が痛むが、それ以外の異常は感じられなかった。
不思議な縁。あの菅原という刑事が何気なく口にした言葉は、少なからず渚の心を揺り動かした。その揺り動かされた分だけ、その不思議な縁という言葉の実質が強調されてくるように思われた。