ユリウス・カエサル
「そしてカエサルは言いました、『ブルータス、お前もか』」
テレビに映し出された映像に対する反応は、半ば期待通りでもあり半ば期待外れでもあった。七割の生徒は真面目に鑑賞し、二割の生徒は睡眠を貪り、残る一割の生徒は机の下に隠したスマートフォンの画面に視線を注いでいる。三割の生徒の反応が芳しくないことが期待外れであるのはもちろんのこと、真面目な態度の生徒に対する悪感情もないわけではなかった。そう感じてしまうのは、渚が普段の授業で真面目な態度に接することが少なく、こうしたレクリエーション的な授業でのみそうした態度を見せる生徒への苛立ちによるものでもあった。いや、苛立ちという程の強い感情でさえないかもしれない。
視聴覚室の後方に座っていた渚は、歴史上の英雄を特集した番組が終わったのを確認すると、ゆっくりと立ち上がって前方の黒板の前に立った。
「では、残りの十分間で感想を書いてもらう。何か質問は?」
「先生、俺寝てたから内容分かんねえ」
「それは隣の奴にでも教えてもらえ。他には? ……よし、では提出した者から教室に戻るように」
そう言うと渚は再び元の席に戻った。背もたれに身を委ねて欠伸を一つすると、窓の外に目を向けた。暦の上では春になってもまだまだ本物の春は来そうになかった。今日も厚い雲が空を覆っていて、それでも雨や雪が降る気配はないが、自然はいかにも冬らしい装いを解いていない。最近では人々の気持ちを反映しているのか、季節の移り変わりが緩やかには進まない。今度の冬もある日をきっかけに不意に現れたが、きっと去るときも慌てて旅立ってしまうのだろう。
この国には鮮やかな四季がある。しかしそれも過去形になりつつある。人々の心の中から四季に対する観念がたち消えてしまうのも、そう遠くはないのかもしれない。
今度は咳払いを一つした。最近、どうも大きな尺度で物事を考えてしまう。それが良いことであるとは感じられない。何故なら、それは一種の逃避に過ぎなかったから。
「藤原先生」
そうした想念の根底に逃避があるのだと気付いたかどうかというその瞬間に、渚は声をかけられた。現実へ視線を転じると、一人の女子生徒が立っていた。
「ん、どうした」
「あの、もし良ければの話なんですけど、今日の授業でやったこと、例えばカエサルのことをもっと教えてほしいんです」
渚は一瞬沈黙した。この生徒は以前から渚の教える教科のことに興味を持っていて、実際に成績も良かった。それでも授業の枠を飛び越えて強い興味を示すようなことはなかったし、そうした強い感情を示す生徒はなかなかいないので、つい驚いてしまったのだ。
その沈黙に生徒は良からぬものを感じかけたが、渚は口を開いてこう言った。
「昼休みで良ければ、少し時間を作ろう。構わないか」
「はい、ありがとうございます」
生徒はそう言うと教壇に感想を記したプリントを置いて、友人たちと教室に戻っていった。
渚がそのプリントを手に取ると、よく整った細やかな字で長文の感想が記されていた。
昼食は出勤途中に買ってきたコンビニの惣菜と、自宅から持ってきた梅干しを乗せたご飯だった。食後の温かいお茶を飲みながら、渚は午前の授業で回収したプリントに目を配った。その中の一枚、あの女子生徒の記した感想に再び目を通すそのときまで、渚は昼休みに約束をしていたことをすっかり忘れてしまっていた。
渚は慌ててノートパソコンを開き、ネットの情報に身を委ねた。カエサルのことを知るには彼自身の記した「ガリア戦記」やその他の伝記などが好ましいと思えたが、せっかくなのだから物語になったものを教えた方が分かりやすいだろう。それでシェイクスピアを思いついたのだが、どの訳者のものが良いか、また手軽に入手できるか、あるいは公立図書館に置いてあるかといったようなことを調べた。そして不足している知識がないかと情報の海を渉猟するうちに、昼食の時間が終わって生徒の来る時間になった。そうした、束の間でも忘我の時間を与えられたのは、渚にとって幸福なことだった。それ程までに熱中できるようなことは最近ではあまりなかった。
生徒が来たのはその五分後だった。生徒は先程の番組では分からなかった様々を質問し、強い興味を抱いていることを示した。矢継ぎ早に飛んでくる質問に答えた末に渚が最終的に言ったのは、こうした一言だった。
「まあ、カエサルを理解するのにカエサルである必要はないからな」
その夜は十時頃に帰宅した。雑事に追われて学校を出たのが遅くなり、さらに途中で書店に寄ったためだった。ショッピングモールの中にある中規模の書店には、関連する書籍は最低限のものしかなかった。それでも流石はシェイクスピアと言うべきか、その作品の主なものはしっかりと揃っていた。渚は「ジュリアス・シーザー」を購入して、余裕があれば自宅にあるはずの「ガリア戦記」を読み返そうと思った。
そうして帰宅して、今日の生活で背負った汚れを洗い流し、明日の仕事に必要な準備を済ませると、ベッドに入って文庫本を手にした。半分ほど読むうちに眠気がやってきて、明日の仕事に影響することも分かっていたが、それでも最後まで読み通した。雑事を忘れて読み進めるほどには面白く感じた。夢と現実の渚に彼の思考は漂ったが、ある一節に引っ張られるようにして眠りの中に落ちていった。
「ブルータスは偉大な男だ」
普段は鏡というものを熟視することのない渚でも、目の前に立っている男がもう一人の自分であることは明らかに分かった。自分であって、自分でないもの。もう一人の自分は、渚に語りかけてきた。
「お前は偉大な男だ」
「俺は偉大な男か?」
「ああ、お前は偉大な男だ」
「どうして俺は偉大な男なんだ?」
「とにかくお前は偉大な男だ」
「お前は誰なんだ?」
「それはさておき、お前は偉大な男だ」
「……俺は本当に偉大な男なのか?」
「お前は偉大な男だ」
『ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ!』
夢の中で叫んでいたものと思い込んでいたのが、目を覚ましたと気付いたときにはもう現実に叫んでいた。
「俺が、偉大な男だなんて、ふざけるな、俺は、俺は、人殺しだぞ」
『……』
「俺は、人を殺したんだ、俺は人を殺したんだ!」
『……』
「殺したくて殺したんじゃない、誰が自分で望んで人殺しなんて――」
『それでも殺したんだろう? だからお前は偉大な男だ』
「あああああああああああぁぁぁ!」
うるさい!
「――!」
水を打ったように静まり返った。玄関のドアを叩く音が聞こえた。
「何時だと思ってるんだ!あんまりうるさいと警察を呼ぶからな!」
渚は午前二時を指す時計に目を向け、そして静かにごめんなさいと呟いた。
夢の中から聞こえてきた声は、ひっそりと息を潜めて、それでも渚に向けてメッセージを発し続けていた。
『お前は偉大な男だ』
日々は流星のように流れ、いよいよ本格的な春がやってきた。桜の舞い散る中を駆け抜けて卒業していく生徒たちの後ろ姿から、渚は何らの感動も得ることができなくなっていた。他者の人生を閉じさせてしまったという事実と、自分の将来に何かしらの希望を持てないということ、そうした過去と未来の狭間にあって、渚の生活は荒廃を続けている。
あの女子生徒は、あれから何度か渚の元を訪ねてきた。渚の語る話を面白そうに聞く生徒は珍しかったので、渚も多少は饒舌になる部分があった。女子生徒は渚の教えている分野では、特に歴史への興味を持っているらしかった。たしかに哲学や思想を理解するだけの基盤はまだなかったし、現実の政治や経済の仕組みを知るよりは、ある意味で一つの物語として成立している歴史への興味を抱くのは当然と言えた。あるとき、渚はこのようなことを訊いた。
「どうして歴史に興味があるんだ?」
「父の影響なんです。家にそういう本があったり、そういう話を聞かせてくれることがあって」
「そう。どの国のどの時代が好きなんだろう?」
「幅広く知っているみたいだから、それは分かりません」
「そうか」
渚の若い頃だったら、歴史というものはどこか血なまぐさい印象が広く共有されていたような気もするが、今ではそういうものは漂白されてしまったらしい。それから、女子生徒なのに歴史に興味を持つのは珍しいとも考えたりしたが、性別で興味を云々したりされたりするようなことは、もう時代遅れの考え方なのだろうとも思われた。
女子生徒との交流は、それからもしばらくの間は続いた。