決断
目を覚ました不比等が第一に確認したのは、己の計画が成功したかということであった。不確かながらも手応えはあったに違いない、宰相までは斃せたというあの言葉がそのことを示している。実際にそれが成ったことを龍馬は告げると、不比等はまず満足そうな顔色を浮かべた。しかし、それも一瞬のことだった。二人の様子を見ているうちに何かしら良からぬ事態が進行しつつあることを悟ったのであろう。ただし、その次元は二人の考えているものとは異なっている。不比等の目的は宰相を斃すことではなく、その後に待ち受けるはずの新しい世界を迎えるはずではなかったか。どうしようもない現実を打破するためではなかったか。不比等は依然混濁する記憶の中から究極に成し遂げたかったことが何だったのかを拾い上げることができず、それ故に涙を流した。静かに涙を流すその姿は、二人にとっては見るに堪えないものであった。
不比等を残して廊下に移った二人は、いよいよ迫る期限を前にして、再び終わりのない議論を重ねることしかできなかった。龍馬はやはり持論を曲げなかったが、意外にも絵里の方が腰砕けのような状態になってしまった。不比等を引き渡してしまえば全てが解決するという見通しは変わらないものの、意識を取り戻した不比等をそこへ追いやっていくことの酷さというものに思い至ったためである。それに、不比等が抵抗を示せば、結局は悲劇を招くのではないかという恐れもある。
「彼のお母さんのこともあるわ」
龍馬は今まで意識の外に追いやっていた不比等の母親の存在を、絵里の一言で呼び出さなければならなくなった。二人は、不比等の帰還を彼女に明かすような愚は犯していない。ただ、二人の一存で彼の生命の行方を決めてしまって良いものか、それが人の心情として正しいものか、そういうことを絵里は言いたいのである。それでも龍馬は、そのことについては譲らない姿勢を示した。このことに彼女を巻き込めば、彼女の命もまた危険に晒されるからである。
「それはだめだ」
「でも、もう見込みがないのだとしたら……」
「見込みは、ないわけじゃない」
「じゃあ、この五日間をここで無為に過ごしてきたのは、どうしてなの」
龍馬は何も言い返すことができなかった。龍馬は己の無力を呪いながら、責任転嫁と呼ぶに相応しい感情を抱きつつあった。絵里は反対をするばかりで何も実のある提案をしようとはしない。一度そのように思い始めてしまうと、坂を下っていく雪玉のようにどんどん感情が大きくなっていく。もちろんそれが責任転嫁であると分かっているから、龍馬は口に出してその気持ちを表すことはしない。だが、表情や仕草に見られる苛立ちから、絵里はその内面を過不足なく認識した。
「ねえ、私たち、どうなっちゃうの」
「どうにもならないさ」
龍馬が吐き捨てるようにして口にした言葉には、言うまでもなく二つの意味が込められている。絵里を宥める気持ちと、諦めの気持ちだ。
「ともかく、彼のことはここだけで処理するべきだ。母屋の御両親も、彼の母親も、完全に部外者だと考えるしかない」
そうするうちに日はみるみる頂点にまで達しつつある。光陰矢の如し。その言葉の意味をこれほどまでに強く噛み締めることは、これまでもこの先もきっとないだろう。
その決断は、不比等が自ら口にしたものであった。
「私に悔いはない、やるべきことはやった。後はお前のような若い世代の人間が、この国を背負って立つべきときだ。暴力ではなく、言論の力を以て。私はこの命を以て新しい時代の礎石となる」
龍馬がその言葉から感じたものは、不比等の肥大した自意識であった。彼が真に成したかったこともその後に何を求めていたのかについても、彼はとうとう語り得ないまま期限を迎えようとしている。現時点では未だ意識の完全なる回復には至っていないものの、仮に完全なる復活を果たしたとしても、彼には語り得る理念などなかったのではないかと思えてくるのだ。異常なテロリスト、そのレッテルを貼られて散っていく男は、あまりにも哀れな姿で布団の中に身を包んでいる。
実は約一週間前から龍馬は気にかけていたことがある。電気椅子という言葉について、である。もし現実に不比等が電気椅子に処刑させられると仮定して、それが全国に知れ渡るとして、不比等は一種の特権的地位を得る危険性を持たないのだろうか。つまり、彼に追随する者の暴発を招いたり、一国の宰相を斃した伝説的な存在と見做されるのではないか、ということなのだ。
しかし、今となってみればそれは杞憂というか、意味を成さない疑問であると言わざるを得ない。龍馬が最低限の食料の買い出しのために外出したとき、つい駅前の小さな書店に立ち寄ってしまった。週刊誌から得られる情報をどこまで信じて良いものかは分からないが、しかしそれでもいくつかのヒントを与えてはくれる。相変わらず品のない見出しには辟易させられたが、頁をめくるごとにあることが分かってきた。不比等の行いは、既に過去のものとなっているのだ。世論は遭難した宰相の復活を求めてなどはいない。それは現実にあり得ないことは分かっている。だから、新しい宰相にはこれまでに評価されてきた政策の継承が、評判の悪かった政策については修正を求められている。そこにはもう、宰相を斃した不逞のテロリストの存在などは忘れ去られているかのようであった。
そうであるから、イデオロギーを持たないテロリストが電気椅子で処刑されようとも、そこに人道的な反対は巻き起こるかもしれないが、暴発や反動といった大きな悪影響を懸念する必要はないのだ。そうしたことを考えれば、その考えは少しばかり突飛であるにしても、菅原を理性を失った男と見ることは不当である。そのような甘い考えをしていると、必ずや足元をすくわれてしまうだろう。
ここで話を元に戻せば、菅原が法に則って不比等を裁こうとする意思を信じるならば、そして不比等が全ての責任をその身に負うとするのであれば、龍馬にとっては最善の形で決着がつくのではないだろうか。しかし、そう単純に考えられない性分なのが龍馬である。たしかに絵里を守れるのであればそれ以上のことはない。だが、不比等という存在の誕生を促した以上、また遡って沢田刑事をこの手に殺めた以上、彼がこのまま人生を謳歌することがあって良いものだろうか?
「私のために生きてくれるのなら、私はあなたの他に誰もいらないわ」
絵里の言葉はやはり龍馬の心をくすぐる。どうしても割り切れない思いを最終的に粉砕したのは、不比等の言葉であった。
「龍馬、ありがとう。君のおかげで私はこれだけのことを成し遂げた。君には、感謝しかない」
龍馬は、涙が溢れ出てくるのを抑えることができなかった。虚しさが晴れるわけではないと知りながら、龍馬は二人を前にして思い切り泣き続けた。
やがて疲れ果てた龍馬は自分の布団に潜って感情を抑え込んだ。他の二人が特に会話を交わすこともなく眠るのを感じながら、龍馬自身もまたいつの間にやら眠りに落ちていた。