目覚め
しばらくの間は意識の混濁を見せていた不比等は、ここにきて俄かに回復の兆しを見せつつある。龍馬と絵里はようやく心が休まる思いがした。しかし、新たに浮上した問題については、未だ解決の糸口を見出だせずにいる。いつかは訪れるはずだったその危機を二人は意識的に後回しにしてきたのだけれど、そのツケが回ってきたとしか言いようがない。実際に二人が採り得る選択肢は、二つしかないのだ。
菅原の訪問から三日経った夜、二人は静かに議論を重ねていた。
「龍馬くん、私は彼を差し出すべきだと思うの」
「でもそれは、それはやっぱり自分にはできない」
二人の意見はこのように対立している。龍馬は絵里の意見の底にあるものが何なのか、一応は見えているつもりでいる。不比等を差し出しさえすれば、龍馬も絵里も助かることになる。そしてそれは、絵里が渚ではなく龍馬を選んだということに他ならない。龍馬にとってはもちろん有り難く嬉しい話ではあるが、しかし菅原の言葉をどこまで信じて良いものかが分からない。彼の正義を抑えることができるものは、もう何もないのだから。それにまず大前提として、不比等を見捨てることに対しては強く抵抗があった。
「どうしてそんなに簡単に、この人を捨てることができるんだ」
「私はこの人を知らない。不比等と名乗っているこの人はもう、あの藤原渚ではないのよ」
「もしこの人が藤原渚であるとしても、その気持ちは変わらないんだね」
「……それは無意味な質問ね」
このようにして二人は意見を述べ合っているのだが、三日経っても未だに決着はつかない。より悪いことに、不比等の意識が回復しつつある今となっては、彼の前で議論をするわけにもいかない。制限時間が近づく中で使うことのできる時間はどんどんと削られていく。
この日も堂々巡りの議論が続いていたのだが、あるとき、またしても母屋に通じる廊下の方から物音が聞こえてきた。二人は硬直した。龍馬は自分の判断の甘さを悔やんだ。菅原が提示した一週間という期限は、彼の気が変わればどのようにでもなるものであったから。不比等が帰還してきた日のように、龍馬は絵里を残してゆっくりゆっくりと廊下の方へ向かう。暗闇から飛び出してきたのは、独特の臭いを放つ動物だった。
「ああ、寅次郎か」
緊張を解した龍馬は、この辺りでよく見かける老いた野良猫を抱いて絵里のもとへ戻った。とらじろう、と絵里もまたその名を呼んだ。
龍馬はこの野良猫の身体をよく洗ってやり、再び離れに戻って絵里に抱かせた。少しばかり足を引きずりながら歩くこの野良猫を、二人はよく可愛がってやろうと思った。
二人は交代で不比等の看病をしているが、眠るときは左から不比等、龍馬、絵里の順に並んで眠っている。そのようにして眠っている三人は、しかし遠からぬ未来に誰かが間引かれる運命にある。一人か、あるいは三人全員か。命の選別というものをすることは言うまでもなく容易いことではない。だが、今の龍馬はその肩に全員の運命を託されているのだった。
「ねえ、逃げるわけにはいかないの」
寅次郎を抱きながら、絵里は幾分柔らかい口調でそう尋ねてきた。龍馬はできることならそうしたいと前置きした上で、
「いつかは断ち切らなければならないことだよ」
と返答することしかできなかった。一国の宰相を斃した不比等という存在は、やはり何らかの形で裁かれるべき存在である。龍馬は砂粒のような正義を握りしめてもいる。しかしそこには必ず自分が連座しなければならないということに気付いてもいる。電気椅子に座らせられる不比等を、龍馬は画面越しに見ていられる立場ではないのだ。
ではどうするか。できることなら、あの菅原という男を取り除くべきだ。それなら三人ともが助かる可能性がある。この場でそれを成し得るのは、龍馬しかいない。しかし不比等と違って自分にはナイフ一本で立ち向かう力があるとは龍馬には思えないのだ。相手が拳銃を持っていることを考えれば、絶望はさらに強まる。もしこの方向で考えを突き詰めていくならば、菅原の不意を突かなければならない。寝込みを襲うとか、暗闇に乗じるとか。だが結局はそれも机上の空論で、そもそも彼がどこから三人を見張っているものか分からないのだった。
絶望は、深い。
不比等が意識を取り戻したのは、菅原の訪問から五日後のことだった。
朝、絵里が眠っている横で龍馬は天井の模様を眺めていた。いつかのように、というよりもいつものように廊下の方から物音がする。寅次郎だろう、と疲れ果てた頭で龍馬は考える。事実、寅次郎がぽちぽちと歩いてくる音が聞こえてきた。この離れの外の様子は閉ざされた障子に隠れて分からない。もう朝になったのか、とある種絶望的な思いで考えているところへ、寅次郎が飛び上がって障子の一部分を破った。瞬間、差し込んできた朝日が不比等の顔を照らした。まるでスポットライトのように照らされた不比等の表情を、龍馬はやはり疲れ切った表情で見つめる。太陽の光を仰ぎながら、そのとき不比等は目を覚ましたのだ。
不比等の眼が、龍馬の顔を射抜いた。不思議な高揚感が、澱のように溜まっていた疲労感を一掃するような気分になって、龍馬は思わず声を上げて隣の絵里を起こした。起こされた絵里もまた、不比等の目覚めに驚きを隠せなかった。龍馬は一人、舞い上がったような形になったものだから、このとき絵里の表情に浮かんでいたある種の憂いを見抜くことはできなかった。
ともかく不比等は目覚めた。絵里の作った小ぶりのおにぎりを、少しずつ噛み締めながら飲み込んでいった。不比等は今や人ならぬ存在のようでありながら、やはり根は人間であったのだ。記憶は未だはっきりとしていないらしく、また頭の働きも万全ではないようで、二人が並んでいる姿を見て、何とも言えないようなぼーっとした反応を示した。半年前にはそこに存在した二人の間の見えない壁が取り払われていることを、不比等は何故かしら鋭敏に看破したらしかった。やはり龍馬はそれに気付いてはいない。しかし、不比等の一挙手一投足を見つめる絵里は、不比等の内側に目覚めつつある何かを、その姿形が分からないながらも見抜くことができた。
事態は、静かに転回しつつある。