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パラダイム・ロスト  作者: 雨宮吾子
不比等
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脅威

 歴史というものは後になってみれば必然的に思える出来事でも、その時点では偶然の積み重なりのように映る。また偶然に思える出来事であっても、それは必然的な流れの果てにあったりもする。結局のところ、歴史には法則と呼ぶべきものが存在せず、出来事というものは人が想像する以上に複雑なのである。ところが人間は複雑なものを複雑なままに受け止めることのできないものだから、物事をある程度単純化してしまわなければ理解が追いつかない。先に法則と言ったが、複雑な物事を理解し得る人間もまた何かしらの単純化を行っているに過ぎず、要はその単純化の形式が洗練されているだけのことなのである。知力を人間が合法的に持ち得る唯一の武器であるとするならば、武器の有り様も人それぞれであって良いし、そうあるのが自然である。

 ところでここまでの話は理性的、あるいは理知的な範囲に限ったものである。人間には他にも行使し得る武器がある。言うまでもなく暴力である。いかに利発であってもその脳髄を撃ち抜かれては路傍の石ころも同然で、暴力は先に述べたような煩雑なあれこれを省略する手段である。こう言い切ってしまうとどこか暴力を肯定しているかのように聞こえるかもしれないが、それは決して否である。暴力は一方的に意志を強制するものでしかないから、そこには必ず歪みが生じる。例えば、今の世間のように。……

 龍馬は布団に潜って眠るわけでもなく、ぼんやりとした頭でそんなことを考えていた。龍馬の生活に大きな変化はない。不比等という一種の爆弾を抱えているとは思えないくらいに平穏な日々だ。世相は少しずつ流動している感じはするが、何かが改善されていくような様子はなく、ただ十年後、あるいは二十年後の破局に向かっているような予感がするばかりである。一番の不安を感じさせるのは、電力の安定的な供給がなされず、最早その状態が当たり前になりつつあることだ。龍馬は想像上のある子供のことを思った。こんな暗い世の中を幼少期として過ごした子供たちは、将来この国をどのような方向へと導くのだろうか。それは一官僚の子息としてでもなく、不比等という人格の誕生を促した者としてでもなく、ただ一人の成人男性として思っただけのことである。

 子供。その言葉から絵里を連想した。子供を育てたことのない人間には、そうした想像するのにも限界がある。自分が父親になる日は来るのだろうか。おそらく、絵里と一緒にいる限りはあり得ないことだが、それ以上に絵里のいない自分というものも最早あり得ないように思えた。しかし絵里がどう感じているかについては、また別種の問題であった……。






「龍馬くん、お客さんよ」

 そう言って不比等の看病を代わる絵里の表情を見て、龍馬は予期していた脅威がついに訪れたことを悟った。玄関口に入らずに律儀に外で待っていたのは、見知った顔だった。

「えっと……」

「菅原です」

 コートに身を包んだ男の顔はもちろん覚えていたけれども、名前までは覚えていなかった。今は不比等となった渚と龍馬が殺めた沢田刑事の同僚の、菅原だった。

「どうしてここに?」

「それはこちらのセリフ、と言いたいところですが……、残念ながら経緯は知っているのでね」

 顔を強張らせそうになるのを、龍馬は寸前のところで抑えた。あれからの二人は、常に菅原の監視下にあったのだ。

「そうだとしても、こっちの疑念は晴れていませんよ」

「必ずしも晴らす必要はありませんが、まあ良いでしょう。ここに来た理由は分かっていますね」

「ええ。でも、どうして今なのかは分からない」

「少し歩きませんか。その方がそちらも気が休まるでしょう」

 痛いところを突かれた気分ではあるが、菅原の言葉は事実でもあった。龍馬は外套を取ってくると言って離れに戻ると、絵里に声をかけた。絵里は不安そうな顔をしていた。

「あの人、少し怖いわ」

「ああいう人種はそういうものさ。少しの間、留守にするから」

「待って」

 すぐに戻ろうとする龍馬の手を取って、絵里はその瞳を見つめた。口吻をするには遠すぎる距離だった。

「無事に帰ってきて」

「分かってるさ」

 龍馬は笑顔を見せると、絵里に不比等を任せた。

 玄関に戻って靴を履くとき、その様を菅原が見つめているとき、その動作が少し不自然になるのを龍馬は自分で感じた。手足が、少し震えている。

 菅原が先に立って歩くのについていき、自然と二人は川沿いの道を行くことになった。今まで気にも留めていなかったが、あるいは不比等が海から遡ってきたかもしれないその川を、二人は歩いている。

「ここは静かなところだ」

 菅原が呟いた。雨量の少ないこの時期には寂しげなこの川が、雨季ともなると獰猛な顔を見せるのを菅原は知っているだろうか、龍馬はそう思った。龍馬とてその様を見たことはなく、絵里から教えてもらったに過ぎないのだが、しかしそのことは何かしら別の事柄に繋がるようにも思え、しかしその答えは出てこなかった。

「正直、行き詰まっているんですよ」

「行き詰まっている……?」

「捜査が、ね。いや、もっと正確には、この国の行く末がそうなっているのかもしれない」

「後の方のことは分かりませんが、ともかく捜査が行き詰まっているから、ここにしか手がかりがないと思った。そういうことですか」

 菅原は頷いた。

「私はね、彼を電気椅子に座らせる必要があると思っているんです」

「それは穏当じゃないな。現代の日本の話とも思えないし、現役の刑事が口にすべきこととも思えない」

「警察はとっくに辞めましたよ」

 このときばかりは龍馬も驚いた。驚きを隠す必要も感じられなかったので、それを素直に表現した。

「私的な捜査、というわけですか」

「あえて形容するとすれば、そうなります」

 二人の間には束の間の沈黙が流れた。

「分からないことだらけだ。どうして警察を辞めたのか、どうしてそれでありながら捜査を続けているのか、そして、電気椅子だなんて言葉を口にするのか」

「一つずつ説明しましょう、演説の時間を与えてもらえるのならね」

 龍馬は頷いた。

「私個人の考えとして、あの不比等なる人物は法によって裁かれなければならない。しかし、同時に法を超えた裁かれ方をされなければならないとも思っている。彼は権力を、たった一本のナイフで以て破壊してみせた。その権力を立て直し、再びこの国がこの国として立ち直るためには、彼は権力の象徴たる電気椅子で以て裁かれるべきだと思うのです」

「しかし、そんなことが許されるとも思えない」

「そう、現実に私の属していた組織ではそうだった。だから私は職を辞して、個人的な使命によって、彼を裁くつもりでいる」

「あの若い刑事……、彼に対しての顔向けができないからですか」

「さすがに物分りが良い。だが、それだけではない。このままではこの国は終わってしまう。だから次世代のために、歪みを正さなければならない。彼は、唯一にして最大の歪みだ」

 菅原の言葉を聞きながら、龍馬は彼の正気を疑うところまできている。もし彼が理性を保っているとしても、いずれ暴発しかねないと思われた。個人として、元刑事として、この時代に生きる日本人として。彼という人物の中ではそうした様々な性格が入り混じり、一種の混沌を生み出している、そのことが恐ろしいのだ。

「諦める気はありませんか」

「断じてありません。いざとなれば、この手で裁いても良いとすら思える。それを邪魔するのであれば、あなたもまた私の敵です」

 その言葉が、遂に龍馬を決心させた。この男だけは取り除かなければならない、と。

 しかし、彼は今この場でどうにかできる相手ではなかった。

「最終的に死すべき人間であるにしても、私は彼を電気椅子に座らせるのが最善であると思っている。だから、一週間だけ猶予を与えましょう。もし彼を差し出すのであれば、あなたとあの女性は見逃しましょう。そうでない場合は――」

「彼女は関係ないでしょう」

 龍馬の目の色が変わるのを見て、菅原は確信したようだった。

「もしも彼を匿っているのだとすれば、彼女とて同罪だ。それをしっかりと頭の中に入れて行動すべきです。ここまで言っても分からないのなら、実力を行使します」

 黒く光る物が彼の手に握られていた。最早、それを説明する必要もないだろう。

「彼が大罪人であることを忘れないように」

 菅原はそれだけ言うと、そのまま歩み去っていった。龍馬はしばらくその背中を見つめていたが、やがて膝を落として、その場に座り込んだのだった。

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