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パラダイム・ロスト  作者: 雨宮吾子
不比等
16/20

帰還

 精神的なことまでは外見からは判然としないが、不比等の肉体はひどく傷ついていた。龍馬と絵里は他の雑事と同じようによく話し合いをしたわけではなかったものの、無条件に不比等を匿うことにした。電気が復活した離れの一室は朝焼けがやって来るまで明かりを灯し続け、龍馬も絵里も眠ることはなかった。

 彼を匿うことについては無条件に合意した二人だったが、彼の母親への対応については意見が分かれた。絵里はごく常識的な観念に従ってたった一人の肉親に彼の帰還を伝えるべきだと主張した一方、龍馬はそれが危険なことだと主張して譲らない。というのは、彼の母親が何らかの形で彼の帰還を漏らしてしまうのではないかという恐れがあり、また何者か――龍馬はそれが公的なものであることをあえて伏せた――が彼女に危害を加える可能性もあるのだ。絵里が主張することは半年前なら認められたかもしれない。しかし、世相はもう変わってしまったのだ。

 彼を匿うようになってから、絵里は母屋で眠るようになった。絵里が拗ねたのだと思い込む幼さを龍馬は持ち合わせていないけれども、精神的な距離が離れてしまうのではないかと恐れるだけの繊細さはあった。廊下ですれ違う度に龍馬は接吻を求め、絵里は応じた。ただ、少しずつ何かがずれていくような予感はあった。

 そうした意味では不比等は生粋の破壊者で、今や殺人者という括りでは程度が足りなくなってしまっている。不比等が成したことは恐るべき犯罪であり、誰がどのような尺度を持ち出したところで到底容認することのできない悪である。ただ、龍馬にとって空恐ろしいことは、帰還した夜に不比等が口にした言葉だった。曰く、

「宰相までは斃せた」

 である。

 その先に不比等が望んでいたものが何であったのか、恐ろしいという言葉では足りない。

 龍馬にとって特に恐ろしいのは、その先に斃すべきと考えられていた存在を複数解釈できることである。もしも不比等が現代の官僚制を打破することを考えていたのであったとすれば、その刃は最後には自分に向けられていたかもしれないとすら思えるのだ。ある官僚を父親に持つことを、龍馬は不比等に告げられずにいる。官僚といっても龍馬の父はそんなに高級なものではないが、それでも官僚には違いない。だから龍馬はますます不比等のことが恐ろしく感じられるのだ。

 果たして、一人の人間が一国の宰相を斃せるものだろうか? しかも、東京駅という因縁の地で。明治大正ならいざ知れず、今や昭和を経た平成という時代なのであり、そのことを成し遂げたことへの恐れがある。それが畏れへと転化しないのは龍馬が実は常識――その言葉の実際もこの半年で随分と色褪せた――を有する人間であることと、熱狂性を持ち合わせていない人間であることを表している。龍馬が身震いするのはいよいよ強まる寒さのためばかりではなかった。




 時間の流れが随分と緩やかになったと龍馬が感じたのは、ある日の夕方のことだった。絵里と過ごす時間が減ってから自然とこうなってしまった。原因はそれだけではなく、この田舎町には多くの人が住んでいて多くの物が流れ込んでくるものの、土壌に染み付いて流れていかない何かがあって、要するに時間の流れが緩慢なのだ。世情に対して我関せずというところがあり、実は各々の家庭では子や孫を持つ男たちが持論を打ち上げているのかもしれないけれども、一つの大きな声として、あるいは一つの大きな運動として何かが立ち上がるという気配はみられない。物流の恩恵を受けながら己の領分にのみ引きこもろうとするのは龍馬にしてみると軽蔑すべき態度に感じられもするが、守るべき者を持つことで人は変化するのかもしれない。しかし、やはり守るべきものがある一方で変えるべきものもあるのではないか。そこに葛藤が生まれる。

 都会生まれの都会育ちである龍馬は、この田舎町とどのように付き合うべきか未だに分からず、どこかで馴染めないものがあるらしい。そのことは龍馬自身が一番強く感じていることだ。文化というか風俗というか、そういうものの独特な、いわゆる土着性に馴染めないのだろう。しかし考えようによってはそれも妙なことで、例えば絵里という人物は田舎生まれの田舎育ちである。そんな絵里に惹かれている自分を思えば、それが妙に感じられるのである。もちろん現実に一個の人間を前にして土着性を云々するようなことはない。だから、改めて考えてみたときにそう感じるというだけのことだが、結局のところ龍馬が何を問いたいのかといえば、自分はどうして絵里に惹かれたのだろうかということだ。自分自身へのそうした問いかけは不比等を匿うようになってからの、謂わば癖のようになっている。そのこと自体が一つの答えを提示しているようにも感じられるが、龍馬は明確な答えが欲しかった。

 龍馬は不意に思い立って、母屋にいる絵里をドライブに誘った。絵里が真っ先に不比等の存在を挙げてその提案を拒んだことは想定通りで、だからこそ龍馬は絶対にドライブに行かねばならないと思った。手を変え品を変え、何とか一時間だけならと絵里の了承を勝ち取ったとき、龍馬は目的の半ば以上を達成したようなものだった。

 ハンドルを握った龍馬は最初から目的地を決めていた。不比等がまだ渚であった頃に訪れたあの天望山だった。真っ暗闇の中をハイビームが貫き、その光を追いかけるようにして進んでいく。その道程を二人は無言のままに過ごした。とっくの昔に会話がなければ成り立たないような関係ではなくなっているから、たとえ絵里の胸中に不比等を置いてきたことへの不安があるとしても、それ以上に自分を信じてこの暗闇の中を共に進んでくれていることへの喜びが龍馬にはあった。駐車場に停めた車から降りたとき、その肌を刺すような寒さは却って龍馬の心を火照らせた。自然と寄り添って展望スペースに進むとき、指を絡ませるのを絵里が拒まないのがやはり嬉しかった。闇夜であり、このような時勢である。当然、天望山から見渡せる範囲に光はない。その海の向こうにある都会は、今現在どのような状態にあるものか分からない。そこにかつて過ごした都会が、中身はどのようなものであっても外見は同じものが存在しているというのが、今の龍馬には信じられないような思いがした。

「こんなところ、よく知っていたわね」

「ああ。偶然知っていたというか、前に来たことがあるんだ」

 ぽつりと呟いた絵里の言葉に龍馬は応じた。

「そう。それは、あの人と……?」

「まあね」

 あの人。絵里は、不比等のことをそう呼んだ。実のところ、絵里が不比等の行ったことをどこまで知っているものか、龍馬はこれまでに確認しようとはしなかった。だが、少なからず真実を知っていることは、その一言だけで充分に察することができた。最早、渚ではない者としての不比等。絵里がそれを知っているのは分かった。では、その奥にある絵里の感情はどのようなものなのだろうか。龍馬はそれとなく探ってみるが、しかし絵里は答えようとはしない。次第に龍馬の口調が刺々しくなってくるのを、絵里の唇が塞いだ。そうなってはもう、龍馬は何も言うことができない。

「ずるい。ずるいよ、それは……」

 時間が迫りつつあった。先んじて階段を下りていく絵里は、不意に龍馬に向き直った。

「ねえ、ずっと前に私もここに来たことがあるの。あの人、渚くんと一緒に」

 龍馬は言葉を失った。その言葉の意味それ自体も衝撃的ではあったが、それ以上に絵里のそうした形での告白は、何かしら不比等の行為と重なって見えた。

 強かに頬を打たれたかのような気分になって、龍馬は地面に唾を吐いた。その唾が真っ赤な血の色をしているかのように見えたのは、あるいは錯覚ではなかったかもしれない。

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