幕間
夏は未だ頭を垂れることなく伸びやかな姿勢で以て人々の上に君臨している。夏の光に照らされる人々の心に兆しているものは、何かである。何かが変わるかもしれない、何かが起こるかもしれない、そうした期待であった。夏といえば死者を悼む時期でもあるが、そうした意識の在り方も変化しつつあって、時代の流れは緩やかにではあるが進んでいるようであった。
太陽と同じようにして頂点に君臨する首都から数時間かけてやって来たこの地では、時間の緩やかさは一層強く感じられた。人間も動物も機械も、都会にあるのとは何かが違って感じられる。構成物自体は変わらないが、きっとその間の関係が違うのだろうなと、答えの出そうもない考えを続けている。
関係。その言葉の意味を、龍馬は辞書で引きたいと思った。今や辞書というものを目にすることも滅多になく、分からないことがあればインターネットで検索したりするばかりだったから、柄にもないことを考えるものだと自嘲せざるを得ない。しかし、この部屋には辞書がある。小さな辞書だ。龍馬は身を捩って布団の中から書棚に手を伸ばすと、枕元で辞書を引いた。関係。いくつかの意味がある。まず穏当な意味合いが書かれていた。そして文字を目で追っていくと、関係という言葉には性的な交わりという意味が含まれていることが分かった。偶然といえば偶然でもあるし、当然そうあるべくしてそうなったとも思える。龍馬は眠っている絵里の横顔を見つめた。汗の行き交った後の額に手を添えると、人の温かみがある。自分一人では感じることのできない人のもつ温かみ。
俺はどうかしているな、と龍馬は思った。獣道を進んだ先に待ち受けていたものが人の温かみとは、何という皮肉だろう。結局、俺はこうした小さなところで収まる人間なのだろうなと思わずにはいられない。生まれたときから親の敷いた道を進んできて、何度か脇道に逸れることもあったが、最終的には本線に戻ってしまう。この一時もまた脇道なのかもしれないと考えるとそれはあまりにも悲しいことだが、しかしこうして愛すべき人と肌を合わせて眠ることができるのは、たとえそれが一時であっても幸福なのではないか。
いや、道という考え方を捨ててしまえば、人はどこへだって行けるのかもしれない。道の通じる先にローマがあるとしても、必ずしもそこへ行かなければならない理由はないのだ。自分の道を歩むときが、いよいよ来たのかもしれない。そう思うと同時に歳の離れた絵里が果たして本当に自分のような人間と共に歩んでくれるだろうかと不安になる。そうして不安が募った挙げ句、なんだ、道を否定したところで別の道を歩まなければならないのか、結局はそういうことなのか、と小さなところで収まってしまう自分を見出した。
ローマといえば、あの人はどうしているのだろうか。いや、最初からあの人のことを避けては通れない。もちろん、渚のことだ。渚ならばどうだろう、渚ならば道を歩むことを否定するだろうか、それともその道を黙って進むだろうか。分からないな、と龍馬には苦笑することしかできない。分からないからこそ魅力を感じもする。別れてから十日以上になるが、音沙汰はない。地下に潜って静かに都市を足場から崩そうとしているのかもしれないし、一挙に頂上を狙っているのかもしれない。今、絵里がかすかに身じろいだ。渚は本当に絵里のことを何とも思っていないのだろうか。そんなあれこれを考えていると、先程とは性質の違う汗が、背中に兆してくる……。
再び眠りの中に沈みかけていた龍馬だったが、絵里が執拗に身体を揺さぶるので身を起こした。何事かと考える間もなく、絵里が指し示したテレビの画面を見つめた。
東京駅で開かれていた記念行事において総理大臣が遭難したことを、公共放送のアナウンサーが告げている。
渚は、いや、不比等は一挙に宰相の馘首を遂げた。世界はいよいよ変容しつつある。