世界に問う
盛夏は、その名に恥じぬ力強さで以て人々の肌を嘗めるようにして焼いている。それでも都会に比べるとどこかひんやりとした田舎町の生活は、その日も静かに始まろうとしていた。
そんな静謐なる夏の朝に、一人の男がある一つの決心をした。
「龍馬、ナイフ一本で世界を転覆させられると思うかい?」
渚は不意にそんなことを尋ねた。以前は熱っぽく渚の決起を促していた龍馬は、手にしていたトーストを落としそうになりながらも、何とか頷いてみせた。
「落とすべき首を落とせるのなら、きっとできます」
「その落とすべき首とは?」
龍馬は咄嗟に言葉を詰まらせた。その先を口にすることで、本当にその首を落としてしまうような気がしたから。
「……」
「どうした、龍馬」
「――閣下です」
「そうか、分かった」
渚は満足した様子で頷いて、朝食の席を立った。
まだ昼にもなっていない時間帯から近所のガソリンスタンドへ給油に向かおうとする渚の後ろ姿を見て、龍馬は何か尋常ではない変化を感じ取った。その変化というものは始点より大分先へ進んでおり、それでいて未だ終点には程遠いように思われる。その始点というのは渚が人知れず涙を流していたあの夜のことで、それはまず間違いではないようであった。しかし、自らが焚きつけておきながら、龍馬はその先に何が待つものか恐ろしくもあった。龍馬自身もまた変化していたから。
そうこうするうちに車のエンジンをかけた渚を呼び止め、辛うじて助手席に飛び乗った龍馬だったが、口にできるような言葉が咄嗟には出てこなかった。が、いつになく軽やかな調子で渚が口火を切った。
「少し、寄り道をしていかないか」
曖昧に返事をした龍馬は、ハンドルを預けている以上は渚に従わざるを得ない。通りから脇道に外れて田んぼの中を通過したかと思うと、いきなり舗道が途切れてがたがたとした砂利道を走り始めた。どこか遠い異世界へと通じているようにも感じられるその道は林の中をまっすぐに貫いている。昼間の晴れた時間であってもその静謐さはどこか不気味で、これが夜であったらどんなに恐ろしいことかと龍馬は余計な想像を働かせた。走り始めて間もないせいで車内の冷房は充分に利いていないが、龍馬が背中に感じる汗の原因はそのためだけではない。龍馬が何に対してそこまで恐怖を感じているのか、彼自身には自明ではない。総合的に考えれば、その根源には渚の存在がある。では、どうして今になって渚に恐怖を覚えるようになったか。龍馬はその答えが、実は自分の中にこそ存在するのだということをようやく悟った。
緩やかな勾配を登っていく車の中ではラジオが流れている。ちょうど昔の歌謡曲が流れていて、少しずつ音程の上っていくところとその勾配を登っていくのとが同期しているようで、龍馬はようやく楽な気分になった。状況は変わっていない。それでも気分が変われば何かが変わるような気がするのだから人間というものは不思議だと、どこか視点から離れたところで考えたりもする。林の中を突き抜けたのはちょうどそのときだった。
いつしか車は丘の上まで来ていて、太陽の煌めきがフロントガラス越しに龍馬を照らした。果たしてどの程度の人が訪れるものか分からないが、小さな駐車場が整備されていて、二人はそこに車を停めて展望スペースへと上った。龍馬は晴天の下に世界の拡がりを見てとった。陳腐な考えかもしれないがこの田舎町は世界と繋がっていて、そしてこの田舎町もまた世界の一部なのだということが素直に感じられた。眼下に見える海の向こうには、首都圏の本質がある。龍馬はそこで生まれ育ったが、そこで生きているという実感はなかった。今、その実感がようやく湧いてきた。そうすると困ったことが一つ生じてもくる。自分の生まれ育ったあの都会を恐怖のどん底に陥れても良いものか、と。そこには一つの傲慢がある。平和を転覆させ得るという自負がそうした逡巡の前提にあるためだ。柵から身を乗り出すようにしていた龍馬は、すぐ後ろにあったベンチに腰を下ろして思案に耽る。一瞬の間、全てを忘れてしまうくらいの没頭があった。
「龍馬」
龍馬を世界に引き上げたのは、渚の声だった。今、認識し得る世界の中にいるただ一人の他者が渚だった。そのことはこの瞬間の龍馬にとってはひどく不幸なことだったかもしれない。龍馬には渚が全く違う人間になってしまったかのように感じられた。以前にはなかった厳しさというか烈しさというか、そんなものが言葉の片隅にあるようだった。実際、次に発せられた渚の言葉は、やや強い南東の風の中でも明瞭に聞き取れた。
「私は幼い頃からこの場所が好きだったんだ。昔はこんな風に整備されてはいなかったが、それでもこの風景は変わらない」
龍馬は再び己の中に沈潜しかけたが、いつになく饒舌な渚は語り続ける。
「車で来ればあっという間だが、あの頃は自転車でここまで来ていたからもっと時間がかかった。その分だけここから見下ろす風景の素晴らしさが際立ったな。ただ一つ錯誤があって、私はここを天望山と勝手に名付けていた。まあ、子供にしてみれば丘であっても山であっても、高いところに変わりはないのかもしれないが……」
天を望む山、と龍馬は口の中で呟いた。展望ではなく天望であるのは、何故だろうか。渚の指す天とは一体何だろうか、そんなことが妙に気になった。
しかしそんなことを考える余裕もないままに、渚は次なる言葉を口にした。やはり強い風の中にあってもはっきりと聞こえる力強い言葉だ。
「私は東京へ帰る。やるべきことが見つかった」
「やるべきこと、というのは……」
「世界に問いかけるんだ」
渚は間髪を入れずに答えた。続けて、速やかに問いを発した。
「お前はどうする?」
「僕は……」
いつまでも待っていれば答えなくとも済むだろうかという子供じみた考えが浮かんだが、渚は泰然とした様子で待ち構えている。龍馬は観念して答えた。
「僕はもう少しここに残ります。今はまだ、あそこへ帰る気にはなれません」
「そうか、それも賢明な判断かもしれない。……母さんたちを頼む」
そう言うと、もう空費している時間はないといった様子で渚は階段を降り始めた。その背中に、龍馬は一つのナイフを突き立てようとした。
「僕は、絵里さんのことが好きなんです」
渚は歩みを止めた。振り返りはしない。
「あの、僕は――」
「良いことじゃないか。彼女もきっと喜んでくれる」
「でも、あなたは絵里さんのことを――」
「彼女もきっと喜ぶ」
渚はそれだけを言うと、車へ戻っていった。龍馬もややあって立ち上がると、慌てて車に乗り込んだ。
再び林の中を走る車の中で渚は彼らしくない冗談のようなことを言った。
「向こうがローマなら、ここはアレクサンドリアだな」
それはどこか予言めいた言葉ではあったが、きっとその予言も空しくなるのかもしれないと龍馬は思った。何故なら、世界はいよいよ変革されようとしているのだから。
海上を繋ぐ高速道路を走る渚は、来た道と帰る道とで全くの別人となっていた。久しぶりに一人きりの時間を得たことで、その思考は淀みなく目標に向けて進んでいった。落とすべき首を思い描き、その首に向かって振り下ろすナイフのことを思うと、何か得も言われぬ恍惚のようなものを味わった。渚は、今では完全なる殺人者となっていた。
そして、正真正銘の殺人者は呟く。
「世界に問う、我とは何ぞや」
このときから、渚は己の名を不比等と呼称することにした。