涙
それから一週間ばかりは平穏な時間が流れた。母はすっかり龍馬の虜になっていて、格好の話し相手ができたと喜んでいたが、そうなると渚は手持ち無沙汰になって、慣れない運転で出かけたりすることがあった。故郷を見下ろせる小高い丘に登ったり、その反対に海沿いの道を窓を開けて走ったりして、思っていたよりも羽根を伸ばすことができた。思えば、渚は学校という箱庭の中で殺人を犯し、また学校という箱庭の中で生徒たちを教えていた。学校に縛られた人生であると自嘲したりもしたのだが、そのように一歩退いたところから自分の生活を眺める余裕は、これまでに持ったことがなかった。そこで、初めて教師を辞めようかと考えたりもした。都会に戻ったところで肩身の狭い思いをするだけだろうし、都落ちのようにして故郷に戻ってきた以上、今後再び教職に今後の人生を捧げようという熱意が燃え上がるようにも思えない。それは一つの変化を意味していたが、しかし四十歳になって転職するというのもくたびれるし、そうした思いつきを即座に実行する程に渚は衝動的な性格をしていなかった。ただ、渚が自身で感じている以上に、私というものと教師という公なものとの結びつきは強いのかもしれなかった。
そんな渚には、母が龍馬という話し相手を得たのと同じように、絵里という話し相手ができた。二人は車で食材を買いに行ったり、目的もなくドライブをしたりした。渚は絵里について初めて知ることもたくさんあった。若い頃に一度結婚しようと考えたこともあったが上手く折り合わずに未婚のままできてしまったこと、今は年老いた両親の面倒を見るために拘束時間の短いパートとして働いていること、昔は渚に好意を持っていたことなど。
「あっさりと告白してくるんだな」
「そういう女ですから」
昔は、と言われたので今はどうなのかと考えないでもなかったが、一人きりの生活の気楽さに慣れてしまったことや、配偶者を得ることで負う責任に耐えられないのではないかといういささか進み過ぎた考えから、あえて追求はしなかった。しかし渚とて男であるから、何かしらの想像をしないわけでもなく、ふとした瞬間に絵里の肉体の線を目でなぞったりしてしまうこともあり、渚は年甲斐もなく己を恥じたりした。絵里は少し色の暗い肌をしていて、肉付きの良い身体をしていた。容姿を見て言うならば、実年齢よりもいくらか若く見えた。渚とは正反対に、生を楽しんでいるような目をしていた。
その瞳と渚の瞳とがぶつかったとき、そこに大きな感情が生まれることは渚の側にはなかった。ロマンスというものを感じない、信じない、演じない、そうした渚の気質が二人の間に生まれるかもしれなかった愛を間引いた。
「それにしても、母さんのことは感謝してもしきれないよ。私はずっと前に見捨ててしまっていたから」
「いいの、成り行きでそうなったんだから。それに人の役に立つことはとても気分が良いから」
その成り行きという言葉を渚はどこかで信じきれずにいたが、いずれにしても絵里に対する感謝の念は揺らがなかった。
ふと、渚は次のようなことを尋ねてみたくなった。
「彼のことをどう思う、あの龍馬と名乗る男のことを」
「面白い子じゃないの。口数が多すぎるような気もするけれど、あなたのお母さんへの態度を見ていると、優しい子だと思うわ」
「そうか」
「どうして?」
「うん、私も同じようなことを考えていた。でも、底の底、核心の部分が見えないような気がして」
「人間なんて玉ねぎみたいなものだから、核心なんてないのかもね。……それは冗談だけど、でもあなたのことを慕ってるみたいじゃない。ちゃんと期待には応えてあげなくちゃ」
渚は頷いた。絵里は二人が犯した殺人のことを当然知らないから、渚の疑念に感じているようなことを知るはずもなかったけれど、他人の意見を聞くことで安心するところもあった。それにしても、渚は龍馬の何を恐れていたのだろうか?
ある夜、渚と龍馬は絵里の自宅に招かれた。渚は最初は断って龍馬に一人で行くように言ったのだが、龍馬の説得に根負けして渚も行くことになった。渚はどうして龍馬がそこまで熱心になっているのか、ちょっと分からないところがあった。
渚が聞いていたように絵里は両親と同居している。それが渚の消極的な態度の理由でもあった。絵里の自宅はこの地域ではちょっとした御殿のようなもので、母屋に絵里の両親が、離れに絵里が住んでいるということだった。絵里には兄弟がいると聞いていたから、そうしたところから資金が出て御殿が出来上がったのだろうと思われた。
招かれた時間は夕方の六時だったので、渚たちは絵里の両親と一緒に食事をすることになった。
「渚くん、絵里のことを頼むよ」
いつもは禁酒していると聞いていた絵里の父親がビールを片手にそんなことを言うので、渚は恐縮しながらもいつかのように好きでもない酒を飲まされることになった。ちらりと龍馬を見ると、彼は絵里の母親と懇ろになっていて、ふと渚の頭の中に浮かんでくるものがあった。龍馬は、母親の代わりになる人間を求めているのではないか、と。ただ、渚は他人の領域に踏み込みすぎた思考を即座に排除したから、大きな関心にはなり得なかった。それに今は酒を受け流すことで精一杯だった。
その酒宴も八時頃になると熱が引いていって、絵里の両親は寝床に入ってしまった。居間のテレビは華やかとされている人々を映していたけれども、それが却って寂しさを呼び寄せるようで、渚はこのときになってようやく故郷に帰ってきたことの実感を味わった。田舎の夜の寂しさは、都会の夜の寂しさとは質が違っていたから。
絵里は四人の食事の世話をしていたので酒を飲まず、酔い潰れてしまった龍馬に毛布をかけてやり、それから面白い物があるからと言って渚を離れに招いた。渚も少なからず酔っていたから、絵里に手を引かれていき、薄暗い廊下を通っていく最中に自分は地獄へと向かっているのだと何故か考えたりもした。しかし、案に相違して渚を待っていたのは、何か妙な楽器のようなものだった。
「これ、テルミンっていうの。知ってる?」
「さあ、どうだったか」
「ある人から譲り受けて、どうしてそうなったのかはもう覚えてないけれど、触ってみると面白くて」
「君は音楽が好きだったっけ」
「そうでもなかったの。でも、これを触り始めてから色々と興味が湧くようになったわ」
そう言って上に掛けていたシーツを取り払い、絵里は難しそうな顔で準備を始めた。この片田舎にこのような奇妙な楽器があること自体が不思議だったが、それ以上に絵里の音を鳴らす姿は奇妙なもので、楽器に直接触れずに音を出すというその仕組みに渚は興味を感じた。すると、母屋にいたときよりも身体が冷えたこともあって、渚の思考は明瞭さを取り戻していくような気がした。絵里は、いよいよ演奏を始めた。
何かの唸り声のような、ある意味で恐ろしくもある音色を聴いていたが、そこにはっきりとしたメロディーを感じ取り、それがどこかで聞いたことのある楽曲であることを思い出すと、何故だか初めて犯した殺人のことだとか、都会で感じていた鬱屈や惨めさやその他の諸々が頭の中に溢れてきて、渚はある感情に出会った。潤んだ瞳を閉じたとき、その拍子に涙が頬を伝っていくのを感じた。その瞬間に自分がどこか思いもよらない遠くまで来てしまったのだという実感に襲われた。
絵里が演奏を終えたとき、渚は静かに拍手をしながら、涙を悟られないように心を静めていった。その努力をすればする分だけ涙は溢れてきて、絵里がポケットから取り出したハンカチを受け取り、渚はいよいよ泣いた。その渚の顔を抱き寄せずにはいられなかった絵里もまた、何かしらの感情を抱いていた。二人はお互いに身体を抱き合い、そして泣き続けた。
このとき、二人は最も近い場所にいた。肉体的にも、精神的にも。
そして二人の間に割って入ったのは、龍馬という一回り幼い青年だった。
龍馬が姿を現したとき、既に二人は涙の痕跡を消していたのだけれども、そこで何かが起こったことは明瞭であって、室内の空気は湿り気を帯びていた。
「ピアノ、弾いたりするんですか」
部屋の中にある古びたピアノを見て、咄嗟にそんなことを言ったのは龍馬なりの配慮だった。絵里が何事もないように肯定して、渚は初めてそこにピアノが据えられていることに気付いた。そのくらいにテルミンは渚の心を震わせたのだった。
その反対に龍馬はテルミンなど見えていなかったし、そもそもそれが楽器であるということに気付いていなかった。
「少し、弾かせて下さい」
そう言った龍馬は、ピアノの前に座って、片手を鍵盤の上に添えた。滑らかな指の動きに反して少し拍子抜けしたような音がしたのは、そのピアノがしばらく人の手に触れられていなかったことの証左だったけれども、それを意に介さずに龍馬はピアノを弾き続けた。度々道を外れながらも、酔った手先とは思えないくらいの正確さで次の音を追っていった。ふと絵里がテルミンを操って、その所在のはっきりとしないような音色で龍馬を扶け、入れ替わりで主旋律を奏で、渚の心を魅了した。
束の間の宴は、彼らにとっての最後の安らぎの場であったかもしれない。少なくとも渚にとっては、ある一つの契機となった。
渚は涙を流しながら自らを省みたが、そうした道を経ることでいよいよ本物の殺人者となった。まるで純粋殺人者の魂が藤原渚という肉体に宿ったかのようだった。