帰郷
海上を繋ぐ高速道路を走る車を運転する若者の姿がある。龍馬だ。彼はレンタルしてきた黄色の軽自動車の後部座席に渚を乗せて、渚の故郷である千葉県への道を走っている。渚はしばらく乗用車を運転してこなかったし、そもそも車をレンタルする資金も用意していなかったので、交通機関を使うつもりでいた。その予定を覆したのは他でもない龍馬で、渚にしてみればいつも自転車に乗っている印象しかない龍馬は、予想に反して立派な運転手として役目を果たしていた。
「少し、見くびっていたよ」
龍馬は運転免許証さえ持っていないのではないか、そんなことを考えてことがあったのを思い出しながら渚は言った。交通機関の整備された都会では車を運転せずとも生活を送ることもできるし、近年では車の運転というものを敬遠する若者もいるらしいと聞いたことがあったから、そのような想像を働かせていたのだ。
「自分で運転を練習した経験があるんです。ほら、私有地の中とかで」
「へえ。しかし、実技は良くても筆記試験はどうだったんだ?」
「ああ、免許は持ってないですよ、無免許です」
渚は手にしていた紙コップのコーヒーを思わず車内に撒き散らしそうになった。
「おい、大丈夫なのか」
「大丈夫です。安全運転でいきますし、警察に見つかったとしても何とかします」
「何とか、って……」
不安に思いながらも、渚は龍馬らしいと思うようになっていた。何度も密会を重ねるうちに渚は龍馬のことを知り、龍馬も渚のことを多少ながら知るようになっていた。その間に信頼関係が築かれたというわけではないが、親しみを感じられるくらいにはなっていた。あのような出会い方をしたにしては意外なくらいに。
それでも渚は、いつものように不安な気分を思い出してもいた。昔、何かの映画で見た光景を思い出したのだ。龍馬と同じようにどこかの私有地で運転を学習した女性が、しかし最後には車に仕掛けられた爆弾によって死ぬという光景を。どちらかといえば、二人は爆弾を仕掛けられるよりも仕掛ける側の人間だろうが、渚は何故だかそのような死を思い描いたのだ。
果たして、渚はどのようにして死ぬのだろうか? その答えは、この道の先のどこへ行っても見つからないような気がした。贅沢を言えるとするなら、死ぬときは都市の中で死にたかった。生涯の半分を過ごした地に愛着があるかといえば必ずしもそうではないが、しかしそこで死ねば、殺人者としてのレッテルが埋もれていくように思えた。もしそれが叶わないとすれば。そのときは、きっとあの都市を破壊してやろうと渚は考えるのだった。
海風を頬に受けながら下ってきた道は、渚にとっては初めての帰り道だった。上京してからは一度も帰省したことがなかったから、生まれ育った町の風景は随分と様変わりしているだろうと思われた。しかし、様々な意味で渚の予想は裏切られた。
まず、町の風景は多くがそのままの様子で残っていた。それは言うまでもなく、渚の帰省を待ちわびながら町並が保存されていたというのではなく、田舎町の進歩の無さを意味していた。次に、渚はそもそも昔の風景というものを克明に記憶していなかったことが分かった。この道を進めば何があるとか、どの方角に何があるとか、そうした位置関係に関してはちぐはぐな覚え方をしていて、運転する龍馬を悩ませた。考えてみれば、渚の四十年の生涯の半分近くをこの町で過ごしたのだが、逆に言えば半分以上は別の場所で暮らしていたのだから、そうなっても仕方ないことではあった。
とはいえ、渚はどうして田舎町の風景を記憶していなかったのか、そのことの実相を知っている。つまり、渚は犯してしまった犯罪を忘れようとして、思春期の生活を忘却のキャタピラに巻き込んでいたのだった。
何とか自宅に辿り着いたとき、車を降りた渚は遥か遠くにあるはずの東京という都市を想った。その視界を遮るものは故郷の山々であった。夢破れて山河あり、と渚はわざと言い換えた言葉を呟いた。幼い頃の渚が元々はどのような夢を抱いていたのか、そうした記憶さえも破ってしまったあの出来事は、今も暗い影を落としている。
玄関の引き戸を開けて、他人行儀に中へ声をかけた。生まれ育った家だったが、そこにはもう渚が過ごした頃の名残りというものは、物質的には存在していても心情的には存在していない。わざと置かれたような間の後で、奥の方から姿を現したのは渚の実の母親だった。とっくに還暦を迎えた母親は、その真っ黒な瞳に感情の淡い閃きを浮かべていた。
「おかえり、渚」
渚の手を取ってその肌の感触と暖かさを確かめながら、母は渚を迎え入れた。ふと、その背後に隠れる形になっていた龍馬の存在に気付いて、母は警戒心を露わにした。
「電話で言った彼だよ、龍馬というらしい」
らしい、と言ったのはそれが本名であるかどうかが分からなかったためだ。龍馬の本名などは渚の関心の外にあったから、今までは追求しようともしなかった。母は頭を下げてみせたけれども、息子との二人きりの再会にならなかったことに不満を抱いているようにも見えた。
それでも龍馬の熱のこもった物言いはここでも発揮されて、口を閉ざしがちなこの親子の架け橋たらんとしたのか、あれやこれやと思ったことをそのまま口にし、次第に母の警戒感も解れていった。
「渚、随分と面白い人を連れてきたもんだね」
母が無邪気にそう言うのを見て、渚は孤独を味わった。渚にとってはたった一人の母親だったが、最終的には渚の背負った罪を分かち合えるような存在ではない。そのことを、再確認したのだ。
母はこれまで、事あるごとに帰郷を促してきた。それは渚の心情を理解し得ていない母親の純粋な願いだった。渚にしてみれば、上京したことは渚一人を利するものではなく、母親と自分との生活を分離させることで母へ向けられる偏見や蔑視を中和させようとする狙いがあった。そうした理屈を理解していないのかそれとも別の考えがあるのか、いずれにしても折り合わないところがあった。渚が帰郷しなかった理由は、そうしたところにもあったのだ。無論、逃避した者としての引け目もありはしたが。
今回の帰郷についても渚は口外しないようにと母に伝えていた。今になって渚の過去について云々するような者はないかもしれないが、あの純粋殺人者の一件は大きく報道されていたから、過去を掘り起こされて何か嫌な目に遭うこともあり得ないわけではなかった。渚は、この土地では臆病な狐のようだった。
「ああ、そろそろ時間だね」
渚を取り残してしばらく龍馬と話していた母は、夕方を前にして突然そんなことを言った。
「何の時間なんですか?」
いつになく優しい声で、龍馬はそう問いかけた。
「絵里ちゃんが来るんだよ。ほら、渚、あの絵里ちゃんだよ」
絵里、という名前には覚えがあった。もどかしい思いで記憶を遡ったが、その答えが出る前に玄関の引き戸が開く音がした。こんにちは、と明るい女性の声がしたかと思ったら、うっすらと記憶に残っている顔が渚の前に現れた。
「お母さん、頼まれていたものですけど、いつもの場所に置いておきますね」
女性は母にそう言うと、台所に入ってスーパーのレジ袋をテーブルの上に置いた。その後ろ姿を眺めているうちに、しばらく前に届いた同窓会の報せの送り主になっていた女性の名前を思い出した。たしかにあの女性の名前は、絵里といった。
「渚くん、久しぶりね」
絵里は特段驚いた様子もなく、渚に声をかけて母の隣に座った。渚は生返事をしながらも眉をしかめた。
「いつもこうして、私の面倒を見てくれているんだよ。絵里ちゃんは、あんたのことが好きだったんだねえ」
そうした直截な物の言い方は好きではなかったが、絵里の満更でもなさそうな顔を見て、心のどこかで何かが氷解したような気がした。
龍馬は口を閉ざして成り行きを見守っていたが、絵里に向かって簡単に自己紹介を済ませると、後は黙り込んでしまった。
夏を迎えた故郷にて、渚は思いもよらない出来事に遭遇しているのだった。
帰郷してからというもの、渚は何か落ち着かない気分を常に背負っていた。その夜、そのような気分を引きずって布団の中に入ったのだが、そこで荷を下ろすことができるわけでもなく、起き上がって台所で蛇口を捻って水を飲んだ。都会の水に比べると美味しく感じられるような気がした。夜の静けさというものが、都会の中で感じたのとは別の静けさがこの土地にはあった。そうした静けさにはこれまでに体験してきたあれこれ、特に最近の出来事を漂白してしまうような力強さがあった。もしも、もしもそのような力によって渚の罪が贖われるのであれば、この地に落ち着いても良いかもしれないと思われたが、そんなことがあり得ないことは渚自身がよく分かっていることで、渚は二杯目の水を呷ってから外へ出た。
時刻を確認せずに出てきたので正確な時間は分からないが、日付が変わるくらいの時間だろうと思われた。そんな時間にどこでどのようにして過ごしていたのか、田舎町の片側一車線の道を過ぎゆく車があった。その束の間の喧騒の後に残された静寂は、一瞬の中断があったためか却って旺盛になったようで、渚の心を強く打った。
無心に近いところで浮かび上がってくるものは、若き頃に犯してしまったあの殺人のことだった。正確に言えば、被害者となった彼はつい最近まで命を繋いでいた。命のきらめきの中で障害を負ってしまった彼が、その後にどのような生活を送っていたかについては、渚は意図的に情報を遮断してきた。知ったところで何かができるわけでもなかったし、渚の心がそれに耐えられなかったのだ。それでも、ごく平凡な生き方というものを奪ってしまったことは間違いのないことで、渚はこのような静寂と暗闇の中にいると、世界の全てが自分を責め立ててくるような錯覚に陥った。
ふと、父のことを思い出した。渚の父もまた殺人を犯した人だという。しかし、幼少期に接した父の姿は柔和さに満ちていて、罪を背負った人のようには見えなかった。渚が父の罪を知ったのは随分と後になってからだった。父について最も渚の心に焼き付いているのは、泣いている姿だった。新聞を読みながら涙を流す父の背中にしがみついた渚は、父に抱き寄せられて、大の大人が流す涙というものに不思議を感じることもなく、じっと抱かれていた。あの抱擁には何か、言い表せないような想いがこもっていた。父はよく、赤の他人の死を知って涙を流していたと母から聞いたことがある。
しかし、成長するにつれて渚は父のことを憎むようになった。それは母への憎しみや蔑みが転嫁したものだったともいえる。渚の母は、父にとっては愛人なのだった。長ずるにつれてその事実を知った渚が己の出自を呪うことをしなかったのは、ひとえに自らが友人の人生を奪ったためである。己の背負う罪があまりにも大きかったのだ。
それが今になってみれば、幼い頃の自分が見れば堕落しきったと思うくらいの生き様をしている。人は生まれながらに悪を知り、生きながらに悪を成すものなのだろうか。虚しさや悲しさといった言葉では解剖できないような暗い感情が、渚の心を占めつつあった。そして、渚はある考えに至った。それは暗く、そして鈍い光を放つ何かであった。