逍遥
こういうことを都落ちというのかは分からないが、今の渚は都会から追いやられつつある。そうなってしまったのは自らの行いが強く起因しているのだが、純粋殺人者との巡り合わせを考えれば、そこに人為ではない何か神がかり的な因縁というか運命のようなものを感じさせもする。思えば、純粋殺人者はどうして渚を己の手にかけなかったのか。そうしなければ、そうしなければ彼は、もしやすると今もこの地を駆け巡っていたかもしれないのに。
今、渚は純粋殺人者を、彼、と規定した。それまで純粋殺人者としてしか認識できなかった存在を、彼方の人物であるとようやく認めることができたようなものだった。そうして彼を規定するならば、当然視点者としての我が必要になる。そしてそこに存在する我とは、他でもない渚でしかあり得ないのである。
しかし、と渚は柵にもたれかかって湾を眺めやりながら首を振った。純粋殺人者に対置されるべき存在は、何だろうか。聖人君子、と渚ははためく風の中で他に聞こえないと知りつつも、声にならないくらいの小さな声で呟いた。それは渚の夢であった。しかし、とやはり否定する。渚はどうあっても聖人君子ではない、そのことは己が一番よく分かっているのだ。未完の殺人者としてあった渚は、では今はどのような存在なのだろうか。沢田刑事を殺めた経験を経てもなお、渚は未完の殺人者と呼び得るだろうか。
分からなかった。己の内面を暴こうとしても、そこにはどうしても破り得ない肉体がある。仮にその臓腑を綺麗に分別したとして、そこに存在するものは既に全体としての均衡を欠いているから、しかもそのような行いをした後に生命の続いているはずはないから、結局は己自身で己を本当に知ることはできない。そして、この都会に渚の第二の目となり得る人物は存在しないのだった……。
その役目は龍馬には荷が重いだろう。彼を心の底から信用しているわけでもない。そして何よりも、渚は女性を求めている。
女性。一口に女性と言っても、様々だ。ゆりかごから墓場の手前まで、女性として生を受けた者は全て女性である。その全てをふるいにかけるとしても、結局渚の求めている女性が渚自身にも分かっていないのだから、その行為は意味を成さない。今まで見知った女性というものを思い描くとき、渚と結び付く天体は、残念ながら存在しない。少なくとも渚自身はその可能性を信じ得ない。
今、不意に勤めていた中学校の生徒を思い浮かべた。あの、何故かしらカエサルに興味を持ち、渚に教示を請うてきた女子生徒を。彼女のことを思い浮かべると、渚は何やら遠くまで来てしまったようだと慨嘆してしまうものがあった。渚に守るべきものなど存在していなかったはずなのだが、それでも現実には今の場所を守るために踏ん張っていたのだろうか。もしも二十代の頃に起こった変化であったならば、失われた生活というものにも簡単に見切りをつけて、新しい生を謳歌できたかもしれない。今の渚にはそのような感覚を抱くことはできない。ただただ不安があるばかりである。
渚はしばらく湾に面した公園で潮風を浴びた後、どこへ行くやら分からないままに歩き始めた。内陸部に向かうに従って疎から密へと変化していく街並みは、憧憬の対象になりはしない。空白のない都会の街並みを愛したことすらないが、その外部へと追いやられていく身としては感傷的な気持ちを抱かざるを得ない。人も建物も空白を持たない空間の中で、渚は本当に身を落ち着かせられる場所を見出し得なかったのだから。誰でもない誰かとして無名のまま生きていくことを、渚は望んだはずだった。それも今となっては夢のまた夢となり、一個の殺人者としての性質を免れ得ない状況になってしまった。そして、そうした性質は一度傾斜を見つけたならばどこまでも傾いていくようなものでもある。あの純粋殺人者の彼のようにナイフ一本で以て都会を震撼させることを、しかしそれは意味しない。渚と彼とは違うのだから。渚は夢を持たない少年であったが、こうした折にふとその反動のようなものがやってくる。渚はある野望を抱き始めているのだ。どうせ悪事を働くのならば、もっと大胆に、そして歴史に名を刻むようなことをしてみたい、と。それはもちろんただの夢想である。夢想でありはするが、抑えがたい衝動のようなものを渚は認めざるを得ない。
都会を逍遥しながら、渚は次第に頭が重くなっていくのを感じた。こんなに一つのことで思い悩むのは、久しぶりのことだった。普段の、日常の中における生活というものに浸っていると、自分というものを問い直す機会はほとんどやってこない。快適とは言えない通勤電車の中でどのように過ごすか、楽しくはない一人きりの食事をどう済ませるか、仕事に対する意欲をどう保つか。日常というものは、そうした何気ないことを考えるだけの時間としてしか存在しない。日常とは、渚にとっては一種の逃避である。過去の過ちを考えれば、そこから逃れるための日常は渚の特権であったかもしれない。しかし、それは現実ではない。人々は日常に気を取られるばかりでその外にある非日常を見ようともしない。それが逃避であると思い悩むこともせずに、ただ日常の維持ばかりを考えている。それが渚には怒りを持って感じられるのである。
怒り。渚にとっては新鮮な響きである。他人への怒りを覚えることは、ほとんど経験してこなかった。それは諦めでもあり、また内的世界への閉じこもりでもあるのだが、赤の他人からすれば温厚な性格として映るかもしれない。それが変わったのは、一つには自分の過去の殺人が完遂してしまったためであり、もう一つは言うまでもなく純粋殺人者との出会いとその帰結によるものであった。渚はそのように自己分析を果たしているのであった。
ただ一つ、渚が気付かなかったこともある。龍馬という青年との出会いが、それである。渚は、少しずつ変化を遂げつつある。