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パラダイム・ロスト  作者: 雨宮吾子
殺人者の死
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藤原渚

 使い始めた当時はもう少し明るかったグレーのスーツも歳を重ねるごとに堆積する何かがあるようで、それは好意的に言えば一種の深みであり、そうでなければ汗や埃による汚れなのだった。アイロンをかけるようなことはほとんどないから、必然的にシワが目立つようになってしまっている。きっと彼がこのスーツを手入れすることは二度とない。汚れやシワが遠目にもはっきりと分かるようになってしまったなら、そのときには買い換えてしまえば良いことなのだから。しかし、その機会もすぐに来そうにはない。手入れを怠るということは生活に余裕がないということであり、それは同時に経済的な余裕の無さを意味する。彼は公立中学校の一教員だった。

 教職に就いてからもう十五年以上になる。若い頃の悩みや戸惑いといったものは人並みに経験してきたが、仕事において鋭い切れ味を見せるというようなことは遂になかった。そもそもこの職には絶対的な正解というものが存在しないということもあるし、もしそういうものが存在したとしても、既に四十代を迎えてしまった彼にはそのようなものを見出すことはもう至難の業だろう。今の中学に赴任してから三年になる。まだ転勤にはならないと思う。これまでに何度か転勤を経験してきたが、どの中学でも環境に馴染むのには時間がかかり、ようやく慣れたと思った頃に転勤を命じられてきた。今度は少しばかり慣れるのが早かった。そのことは仕事における負担を減らしはしたが、その分だけ仕事に対する熱意が増すというようなことにはならなかった。彼は、自分を生きることに飽き始めていた。

 彼が暮らしているのは単身者向けのマンションで、北向きの窓を閉ざすカーテンの内側にグレーのスーツが掛かっている。他にも普段着として使う外套が掛かっていて、その他の上着は畳んでチェストの中に収納している。下着や靴下の類もチェストに収めているが、こちらは畳むことをせずに乱雑な形で放り込んでいるような有り様だ。チェストの上には手のかからない小さな観葉植物が置かれている。そのチェストの隣には本棚があり、そこには左右に異なる性格の書籍が並んでいる。左側にあるのは小説や新書、それから数冊の漫画本と趣味で集めた専門書。右側には仕事のために必要とされる類の専門書で、こちらの方には格式張った題名のついたものが多い。

 彼は中学で社会科を教えている。彼が大学までに習得した知識は現在の仕事に大いに役立っているものの、それは忘却と風化のために少しずつ古ぼけていく。忘却というのは文字通りの意味で、風化というのは日々少しずつ進んでいく研究によってもたらされるものだ。その研究を取り入れることによって教科書の記述が少しずつ変化していく。その変化や進歩のために、彼もまた絶えずアンテナを張っておくことが要求されているというわけで、本棚の右側に並べた専門書はそのために揃えたものだ。それらを読めばもちろん内容は分かるし興味深く感じるところも当然あるが、彼のように決して仕事熱心でなく、また知的好奇心の盛りをとうに過ぎた身としてはそうした読書は息が詰まるものだった。そういうときには休息のためにも気楽に読める本棚の左側の書籍を読む。それにも疲れたなら、テレビを見るか音楽を聞くだけだ。

 彼はあまりテレビを見ない。見るとしてもニュースが中心で、これらも最低限の「常識」を取り入れるために見るのであって、バラエティやドラマの類はほとんど見ることがない。生徒たちに人気がないのは、そうしたことが少なからず影響しているのかもしれない。音楽を聞くときにはベッドの脇の小さなスピーカーを鳴らす。寝転がって聞いているといつの間にか眠っていたりする。音楽が好きなのか、睡眠が好きなのか、それは彼にはもう分からなくなっていた。ただ、好ましい音楽を聞いているときは楽な気持ちになれた。

 彼にとっての健康で文化的な最低限度の生活とは、そのようなものだった。

 彼の頭にはある出来事が重く、それも絶えずのしかかっている。忘れがたく忌々しい記憶。それから逃れることができるなら、どんなに良かったことか。しかし、それは人として生きる以上は逃れられない呪縛だった。

 彼には一つだけ夢があった。聖人君子になることだ。しかし、彼には一つだけ気付いていないことがあった。如何なる聖人君子にしても、その足元には幾つもの投げ出された生命が転がっている。聖人君子を全くの無垢な存在であると定義するなら、そんなものはこの世界には存在しない。

 そして彼は、未完の殺人者だった。

『ジリリリリン』

 ベッドから手の届くところに置いていた携帯電話が鳴った。微睡みの中にあった彼が目覚める。電話に手を伸ばそうとして、何かがおかしいことに気付いた。ベッドで寝ていたつもりが、小さなソファに座ったまま、いつの間にか眠り込んでいたらしい。昨夜の記憶もないままに身体のあちこちが痛むのを気にしながら立ち上がる。俄かに大きく開かれた瞳には、殺人者としての性質が宿ってはいない。また、殺人者へと変化するような予兆も認められない。彼は、凡庸な成人男性だった。

 しかし、今は彼の性質を云々する暇はない。彼はそこに表示された電話番号と相手の名前を確認すると、呼吸を整えてから電話に出た。

「……もしもし」

 相手が何かを言い、彼は壁に掛けてある時計を見上げた。このときになって、昼前まで眠ってしまったことに初めて気が付いたようだ。幸いにもこの日は休日だった。

 少しばかり、こちら側とあちら側で空白が生じた。電話をかけてきたくらいだから用件を言って然るべきなのに、そうしないのにはきっと理由があるのだろう。その一瞬一瞬に刻まれる時間の中で、彼の中には深刻な気分が強まっていった。おそらく、事が起こったのだ。あるいは、終わったか。

 その空白の後のことはもう覚えていない――

 というような、都合の良いことにはならない。彼は自分の行いを自分の身に引き受けねばならないと感じていたし、そのためにこれから語る出来事が生起したのだ。

 明滅する光と音の中で、二人の会話は再開された。

「――」

「聞いているよ」

「――」

「どうして母さんがそういう風に感じるんだ」

「――」

「その人殺しを産んだことを後悔しているのか」

「――」

「……すまない。もう切るよ、今はこれ以上話さない方が良い」

 やがて、彼は電話を切った。

 息を呑んでベッドから立ち上がる。カーテンを大きく開けて外の風景を望む。今の気分にとってはありがたいことに、太陽は直接顔を見せていなかった。今の彼には太陽を仰ぐだけの資格がない、そう感じずにはいられないところがあったから。

 息を吐き出し、そして吸い込む。開かれた眼は、未だに未完の殺人者のものだ。太陽を背負うだけの覚悟は、彼にはまだなかった。

 窓から侵入している光のおかげですぐには気付かなかったが、昨夜はテレビを点けっぱなしにして眠ってしまっていたようで、ちょうど正午のニュースが流れていた。リモコンを探し、音量を上げる。

「では、次のニュースです。今日午前、C区のマンションの一室でこの部屋に住む男子大学生が亡くなっているのが発見されました。警察は何者かがこの部屋に侵入し、男性を殺害したとみて捜査を進めています」

 それは自分とは全く関わりのない、謂わば彼方にいる人物の死を告げるニュースだった。端的に言ってしまえば、普段なら何気なく見過ごしてしまいそうな事件だったが、先程の電話を受けたばかりの身としてはどこか肝の冷える感覚があった。自分とは全く関わりがないと断言できるというのに、どうしても画面から目を離すことができなかった。いつもなら絶対にそんなことはしないのに、殺害された大学生の短い人生を想像し、その生命を奪った殺人者のこれからを憂慮した。このときの彼を表現するなら、「宇宙との合一」といったような胡散臭い文句を引用してもおかしくはないくらいに非日常的な心理状態にあった。

 ふと、その没頭から意識が蘇った。ほとんど無意識に近いところで思い出されたある記憶、即ち父の記憶が彼の眼を開かせた。時代も地域も異なる環境で生活を送っていたことを考慮するにしても、彼の父は少しばかり感傷的に過ぎた。新聞のお悔やみ欄を読んで、見ず知らずの人生の終わりに想いを馳せることのできるような人だった。その父の姿に重なっていきつつあるのだとすれば、彼にとってそれは唾棄すべきことだった。

 彼の父は、正真正銘の殺人者だった!

 その忌まわしい血を受け継いだ肉体を生きることは、彼にとってはこの上なく苦痛に感じられるのだった。だから彼は少しでも肉体から離れたかった。元々運動神経が悪いということも影響していたけれども、スポーツをしたり身体を鍛えたり肉体労働をしたりするようなことは、必要に迫られない限りで避けてきた。幸いにして勉学をすることは苦に感じなかったから、今の職業に通じるような物事に興味を持ち、理解を深めていった。もしもその興味が哲学や思想や歴史などではなく、理数系の方へと向いていたなら、あるいは爆弾でも作ってこの都市を吹き飛ばしてしまったかもしれない。そうならなかったのは実に幸いなことだと言わざるを得ない。

 意識が再びテレビへ向かう。動物園のパンダが子供を産んだニュースに切り替わって、それを読み上げるアナウンサーの声も和やかなものに変わっていた。束の間の意識の彷徨は中断され、着地点を見出すことができなかった。彼の辿っていく道を、それは暗示しているかのようでもあった。

 テレビを消し、乾いた喉を潤すために水を求めて立ち上がる。ふと、いつもは日常の中に埋没している光景が、急に現実の中に入り込んできた。それは首都圏のある高層ビル群の一画を遠望で写したパノラマ写真だった。どのようにして入手したものか覚えていないが、その写真を引き伸ばして壁に貼り付けている。彼がどうしてそのような写真を貼り付けているのかは、彼自身にも明瞭でないところはあるが、そこに運命のような何かを見出していることは確かであった。しかし彼が見ているものはその風景の中で生活している人々ではなく、おそらくはその先にある何かであった。

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