てすばお
ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ……
険しい峠を粗末な身なりの男が登ってくる。
路とは名ばかりの獣路。ともすれば笹に覆い隠されてどこが道なのかわからないような杣路である。
髪の色艶からすると壮年だろうか。しかし、足元をよろつかせているところをみるともう少し歳がいっているのかもしれない。たぶん、あまりにみすぼらしい身なりでそう感じるのだろう。
すっかり葉を落とした林に続く僅かな平地。それが、男が足を配んでいる杣路なのだ。
急峻な山あいを、そうして男は登ってきた。が、路はこの先いくらも続かずに途切れている。それを知ってか知らずか、男は疲れた足取りを止めようとはしなかった。
山の秋は里人の知らぬ間に始まっていた。青々と茂っていた木々が七宝のような彩をみせたことも里人の夢の中であった。山を焼いた彩葉が散れば、間をおかずに霜が降る。やがて冷たい風に飛ばされて氷雨が降るようになってきた。時折、白いものが宙を舞う。羽虫のように軽やかに、そして音もなく。
男は、吹き付ける冷風に晒されて一夜を過ごした。
小さな焚き火を吹き消すほどの風であった。この季節になれば熊はいない。猪なら餌を求めて里近くに降りているはずだ。トロトロと燃える炎が槍の穂先のように延び、稲妻のように枝分かれする様をじっと見ながら、男はまんじりともせず夜を明かしたのだ。
この路の行き着く先、そこに谷を渡る橋がある。その橋を渡れば、目指す先はもうすぐだ。
路の突き当たりから向かいの山へ、蔦蔓を撚り合わせた太い綱が掛かっていた。綱は、かなり下って渡されている。そして、綱には丈夫そうな篭が下がっていた。
「親父様、ちぃと揺れるでな」
男が声をかけたのは、背負い子に括りつけた老爺であった。どこまでが額かわからぬほどに後退した髪は、ススキの原のように疎らになっていて、一本残った前歯が上唇を押さえるように突き出ている。男の言葉を理解したのか、口をモゴモゴさせていた。
男は篭に乗り込むと、繋いであった綱を解いた。すると、篭はひとりでに宙に踏み出した。
スルスルスルスル、下りを利用して見る間に速度を上げてゆく。そして余勢をかって対岸の山肌に勢いよく乗り上げて止まった。
門のような設えがある。立ち木をそのまま枯らして横木を渡しただけの粗末なものだが、作ってどれくらいになるのか、表面がひび割れて木屑の落ちたところがある。門とも鳥居ともとれるそれが、西国への船着場なのだろうか。が、門をくぐってみても、それらしい祭壇などない。
男はそこで身を屈め、背負い子をゆっくり地面に下ろした。長年育ててくれ、生きる知恵を授けてくれた父親への、せめてもの礼儀であった。
「親父様、これでお別れだ。うっ、怨まないでくれ。村のしきたりだからよぅ。せめて……、せめてもの餞だ。酒と握り飯を置いてゆくからよぅ」
男は、これで生涯の別れとなる父親を正視することができずにいた。
背負い子に括った父親の縄を解き、大事に携えてきた餞を並べようとした。
ドンッ
突然男が突っ伏した。餞を並べようと父親に背を向けた一瞬の出来事だった。
「アッ」
驚いて男が振り返ると、父親は猛烈な勢いで篭をめがけて駆けている。
「待てっ」
慌てて追おうと立ち上がったとき、すでに父親は篭に乗って綱を手繰っていた。
「待てっ、くそ爺ィ!」
男は初めて自分のおかれた状況に思い至ったのだ。自分が置き去りにされると。
「もどれーーーー……、くそじじぃーーーー……」
叫び続けるうちに声が枯れた。
父親が戻るはずがない。
帰るのは空しい木霊だけであった。




