峠の少女
降り立ったのは峠の頂上だった。
そこから見える光景は、ところどころはげ落ちた白い看板にペイントされていたような絶景というほどのものではなく、眼下に田畑が規則的に並ぶ、これといって特筆すべきもののない光景だった。それが世にいう絶景ということならば、返す言葉もないのだが、男にとってそれは決して絶景などではなかった。あてのない旅ではよくあることだ。
次のバスがやってくるまでの二時間をいかに充実させるか、男は渋々頭を働かせることにした。
峠の頂上には、今にも崩れ落ちそうな築数十年は経とうかというロッヂ風の建物があった。入口のすぐ右側に売店が二つ並んでいる。覗き込んでみたが、中には何もない。かつては土産物が並べられていたはずの木の台だけがガラスの向こう側に見える。埃のこびりついたガラスには、観光客か地元の若者が書いたものなのだろう。物騒な言葉に並んで、愛の言葉が読み取れる。特に珍しくはない。観光地ならどこでも見られるものだ。
次第に憂鬱になっていく自分を励ますように緑の公衆電話に歩み寄る。それは湿気でくしゃくしゃになった電話帳とともに階段脇の台の上に置かれていた。ボタンが四角いタイプのから察するに、かなり昔に設置されものであるのは明らかだった。忘れ去られたものではないことを祈りながら受話器を上げた。上げた瞬間に通話音が聞えてきた。緑の公衆電話はまだ生きていた。
ポケットの小銭を探った。十円玉はなく、百円玉が一枚だけあった。あとは五百円と一円玉で、男は仕方なく百円玉を投入口に食わせた。
たった一つだけ覚えている十桁の番号を一つ一つ丁寧に押すと、三度目の呼び出しで、百円玉がガシャリと落ちた。誕生年の1974という四桁の暗証番号をプッシュし、続けて1を押した。録音されているメッセージがないことを見ず知らずの女性が無機質で機械的な声で教えてくれた。今回の旅で三度目となる留守録の確認は空振りに終わった。
メッセージが一件も録音されていないという現実について、公衆電話に寄りかかりながら少し考えてみる。複雑に絡み合う社会に組み込まれている二十七歳の男が突然音信不通になっても、誰も困らないのだ。それはある意味すでに死んでいるといっても過言ではない。しかし、それを一々確かめる自分も自分である、と男は思う。これでは構って欲しくてちょっかいを出す子供と一緒ではないか。そう思い男は一人笑った。笑いが静寂というバリアに跳ね返りこだまする。閑散としすぎて声を吸収しきれないのだろう。
男は有給休暇中だった。三週間もの長い有給休暇を旅に費やすことに意味があったわけではない。入社して五年、ごく平凡に働いてきた平均的な社員だった男は、ほんの些細な、それでいて社会的に計り知れないほどの影響を与えた会社の不祥事で、リストラ名簿に載った。
総務部勤務を希望して人事部に配属され五年、上層部からのトップダウンで全てが決まってしまう会社で男がしたことと言えば、自分とそれほど変わらない学生の履歴書をシュレッダーに食わせてやったことくらいだ。
三週間の有給は新たな就職口を見つけるために直接の上司である人事部長が与えてくれた温情だった。男は最初の二、三日こそ職安通いを続けた。そして、父親と同年代と思われる会社員だった男たちの必死さにすっかり辟易し、通うのをやめた。男には、働かなくてもしばらく食べていける蓄えがあり、マイホームを持っているわけでもなく、子供どころか妻もない。それに彼らから比べればまだ若かった。
男は緻密な計画など立てずにカメラだけを持つと北へ向かうバスに乗った。計画を立てなかったことが、朽ち落ちそうな看板に騙されて峠の頂上で下車してしまうといった愚行に繋がったのである。
男は一階にある鍵のかけられた管理人室や、下水道が完備されていない便所などを見て回ってから、二階へと続く階段をギシギシと音を鳴らせながら上った。意味はないが音を鳴らさないように中腹あたりから端を歩いた。
かなり生きたと思われる木々が天井に使われていた。太い丸太で組まれた天井は、雪を落とすためかかなりの急勾配である。ちゃちな作りではないのだが、建物自体が古く崩れそうな感じがして、男は引き戻そうかとも思ったが、広い空間に一人で座っている先客にすでに興味を持ち始めていた。
広い空間には木製のテーブルが、縦に四列、横に六列並んでいる。椅子は丸太を中央から二つに割って作った長いすで、スキー場のロッヂやキャンプ場でよく見られるものだった。
先客は振り向きもしない。桃色のスウェットに、タータンチェックの短いスカート、狭い肩幅、頭の両脇で結ばれた黒髪から判断すると女性であることは間違いなさそうだった。
どこに腰を下ろせばよいのか男は思案した。このような場合、近すぎても遠すぎても具合が悪く、その見極めは困難を極める。点が線にならないのである。もう一人いるのならバランスをとって正三角形でも作るのだが、あいにくこの空間には二人しか存在していない。
結局、男は先客の座っているテーブルから三列離れた一番階段側のテーブルに荷物を降ろした。一番離れた場所に腰を下ろしたことになる。妙な警戒心を持たれて、嫌な思いをするくらいなら遠いほうがいいと思ったのである。
二階は三面がガラス張りで、階段側の一面は厨房になっていた。ただ両端の二面は、このロッヂが放棄されてかなり経つのか、木々が鬱蒼と生い茂っており、眼下の風景を眺めることがかなわなかった。女性の眺めている正面の広い一面だけが視界がよく、眼下を見渡すことができる。
恐らくこの空間は食堂だったのだろう。食券が売られていた販売機の後が薄汚れた床に残っていて、オープン当時の色を残していた。
食堂を一通り見終えるのに十分もかからなかった。窓の外に出られる扉もあったが、<危険に付き開閉不可 A町>という親切な張り紙がなされ、しっかりと施錠されていた。ベランダの床は雨風にさらされていたせいで所々朽ち落ち、十メートルほど下の地面に直結していた。赤ん坊ならば大丈夫かも知れないが、男が歩けば間違いなく床を踏み破り、しばしの空中遊泳を楽しむことになるだろう。
女の背中越しに景色を眺めた。曲がりくねった国道が、林によって分断されている。山々の緑は紅や黄に取って代わられ、それもすでに落ちかけている。
誰かを待っているのだろうか。男は何となく思った。
胸ポケットから煙草を一本抜き出し、ライターで火をつけた。煙が天井に向かって昇っていく。風だけが通ることのできる抜け道があるのか、一定の高さまで昇った煙は、階段方向に流れ、そのうち消えた。その様子をしばらく眺めていたが、やがてそれにも飽き、視線を戻すと、女性に見つめられていた。
彼女は幼かった。幼顔で中学生でも通用しそうな顔立ちである。まだ十五、六といったところだろう。赤みを帯びた頬が田舎臭さを演出し、傾き始めた太陽に照らされた顔にはうっすらと金色に光る産毛が生えている。特徴といえば、大きな瞳だろう。それは小さな顔にはとてもアンバランスで、恐らく歳を重ねるごとに綺麗になっていくことを予感させた。
「一本もらえませんか?」
声もまた幼かった。煙草を吸える年齢にはどうやっても見えない。捕まれば何の罪になるのか考えながら、男は携帯灰皿に灰を落とすと、彼女の座っているテーブルの隣まで移動し、ブルーのパッケージをライターとともに彼女に手渡した。
彼女はフィルターを咥えずに火をつけるという荒業に出た。火のついたことを確認した彼女は、フィルターに薄い口唇をつけ、恐る恐る吸い込み、当然のように激しくむせた。目に涙をため、新鮮な空気を灰に取り込もうと必死に咳を繰り返している。
「煙草は初めて?」
むせながらも、彼女は一度だけ乱暴に首を縦に振った。右手の親指と人差し指に挟まれたままの煙草を取り上げ、灰皿に押し付けて火を消すと、男は外の自動販売機に向かった。通常の値段より二十円高い峠価格の烏龍茶と缶コーヒーを買って戻ると、彼女の咳はすでに止んでいた。
「初めての煙草。激しく咳き込む私。もう、最悪」
涙を浮かべた彼女が言った。
「初めは誰でもそうだよ。僕もそうだった」
「煙草を吸うと落ち着くって誰かが言ってたから……私、これから死ぬんです」
吸い込んだ煙は肺の中に置き去りにされた。我に返り煙を全て吐き出してから、男は妙にドキドキしながらも無関心を装って言った。
「そう。僕は止めないよ。君には君なりの結論が出ているはずだから。それで、遺書は書いたのかい?」
彼女はパンダのキャラクターが描かれたエナメル素材のバックから一通の封筒を取り出した。封筒には間違いなく遺書と書かれていたが、その文字は青く丸い字で、決意を感じさせないものだった。
「読んでいいのかな?」
「いいよ」
便箋はバックと同じキャラクター付きで淡いピンクのものだった。それには恨みつらみが書き連ねられているわけでもなく、死にたくなった理由もない。やはり丸い文字で、中央にたった二行だけ書き綴られていた。
お父さんお母さんへ
探さないで下さい。さようなら。 真理
男は眉間にしわを寄せた。はじめて見た遺書はまるで家で娘の置手紙のようだった。目の前にいる幼顔の少女が自殺しようとしている事実は、この拍子抜けした遺書のせいで、真実味を失い宙ぶらりんとなった。
「これじゃあ、ダメですか?」
「ダメじゃないけど……何て言えばいいのか。遺書って感じはしないね。台所のテーブルに置いてくればよかったのに」
「じゃあ、どういうのが遺書なんですか?」
真理の真剣な眼差しに少し気圧された。答えようがなかった。遺書など書いたことがないのだから。それに書き方など人それぞれだ。その意味では、この家で娘の置手紙でも遺書の役割を十分果たすことにはなる。それでも男はその質問に答えねばならなかった。それが大人としての無意味な自尊心だった。
「遺書というのはね、この世の最期の言葉なんだ。どうして死にたくなったのか書くべきじゃないのかな?」
「どうしてって言われてもわからないです。なぜか死にたくなったんですから」
「何となく?」
「はい、何となく」
「それなら何となく死にたくなりましたって書けばいい。それが君の残したこの世の最期の言葉になる」
納得した表情を見せた真理は、バックの中からピンクの便箋を取り出し、寝そべるようにして顔を近づけると、ペンを走らせた。
お父さんお母さんへ
なんとなく死にたくなりました。さようなら 真理
悲しみより先に首をかしげる真理の両親の姿が男には容易に想像できた。
「声を出して読んで見たら?」
真理は両手で遺書を持ち、それを前に突き出すと、まるで小学生が夏休みの作文を発表するかのように棒読みした。
男は正直笑いたくて仕方なかった。が、遺書という性質上、それは不謹慎に思われた。それに窓を突き破って死なれてはたまらない。
「どうだい、書き直した遺書は?」
「さっきより全然よくなった気がする」
おかしな日本語に怪訝な表情を作ってしまったのは、歳をとってしまったからかもしれない。男は真理との年齢差を強烈に感じた。
話が途切れたので、男はカメラを持って外に出た。駐車場から眺めることのできる絶景と呼ばれる風景を撮っていく。点在する農家に、紅葉の合間から見える黄色く実った稲穂の群れと、すでに収穫が終わったこげ茶色の畑が眼下に広がっている。
ふとロッヂの二階部分を見上げると、スカートの奥を気にもせず、こちらを見下ろしている真理の姿が確認できた。何かを指差し飛び跳ねている。熊でないことを祈りながらゆっくり視線を移すと、道路脇で親子と思われる鹿が草を食んでいた。
人間よりも鹿の轢かれる数のほうが多いと話していたバスの運転手を思い出した。真っ白な顔をした一見、神経質そうな運転手だったが、とても話好きな男だった。鹿を成仏させた車は、ほとんどの場合、刺し違える格好で廃車になるのだと運転手は笑っていた。路面のあちこちについているタイヤ痕のほとんどが、その犠牲者か、犠牲者になりかけた者の痕跡であるらしかった。
しばらく鹿の様子を眺める。夢中で芝を食んでいるように見えるが、大きな目とピンと立った耳は、こちらの様子をしっかりと把握していている証拠だった。男が少し近づくだけで、親鹿は下げていた首を上げ、こちらを睨みつけるようにして安全を確認すると、再び芝を食んだ。
まるで別世界にいるのではないかという幻想に駆られ、少し恐怖を感じた。時折、スピードを落として通り過ぎる車が、幻想から現実に男を引き戻してくれる。
「私が撮ってきてあげる」
いつのまにか背後五十センチまで近づいていた真理の声に全身が粟立ち、同時に体中に体内から放出された電気が駆け巡った。
真理は男の手からカメラを奪うようにして取ると、鹿に向かって駆け出した。砂利を蹴る音に気づいた鹿の目が大きく見開いたように男には見えた。先に逃げ出したのは親鹿だった。我先にと子供を置いて森に飛び跳ねて逃げた。その後を追うようにして小鹿も飛び跳ねて森の中に消えた。
とぼとぼと俯きながら戻ってきた真理は、『逃げられちゃった』と本当に悔しそうに言った。が、彼女は楽しそうで、とてもこれから自らの命を絶つようには見えない。
男はふとからかわれているのではないかと思った。そう考えるのが少し遅すぎたのかもしれないとも思った。
薄い秋雲の間に、突き抜けたオレンジがかった空が覗いていた。ファインダーを通して男を覗いている真理に空を指差して見せた。真理がそのまま空を見上げた。そのうち苦しくなったのか、おもむろに砂利の上に腰を下ろすと、仰向けに寝てカメラを構えた。四十度ほど広げた両足の奥は無防備で、白い下着が丸見えだった。男は反射的に顔をしかめた。が、何度もカメラを向けられたため、すぐに移動することができなかった。ここで移動することが男には不自然に感じられた。
男はコソコソしなくても、彼女と目をあわすだけでごく自然にスカートの奥を覗き見ることができた。だが、膝を立てられたときには、さすがに男も赤面し、真理の真横十メートルまで移動して砂利の上に腰を下ろした。そして、真理と同じように仰向けに寝転がって空を眺めた。地面は予想以上にごつごつしていた。居心地のいい場所を探そうとミミズのように体を動かしたが、その場所は見つからなかった。
風がないのか雲は全く流れず、橙に染まりつつある空の一点を見つめていると、空が降ってくるように錯覚した。空気の重さがそう感じさせたのだろう。男は奇妙な圧迫感を感じていた。心なしか地面に体が沈み込んでいくような感覚を覚え、男は何度も石ころのごつごつを確認した。
首を九十度真理の方向に向けた。真理はすでに起き上がっていた。男のそばまでやってくると、スカートと一緒に膝を抱え込んでしゃがみ込み、男を上から覗き込んだ。
「なくなっちゃった」
真理は拗ねたようにして言った。その表情は、まるで飴玉を舐め終え、母に新しい飴玉をねだる子供のようだった。決して女性を意識させるものではなく、男は先ほどからの蛮行にある種の罪悪感を抱いた。相手はまだまだ子供なのだ。
体を起こし、真理からカメラを受け取った。フィルムがバックの中に入っていることを告げると、真理は面倒くさそうに、しかし小走りでロッヂに向かった。写真を撮るのがよほど楽しかったのかも知れない。
息を切らすことなく戻ってきた真理は、バックの中から三本のフィルムを持ってきていた。どれも男が持っているフィルムの中で一番高価なものだった。
「あのさ、ちょっと思ったんだけど………私の写真を撮って、お父さんとお母さんに送ってくれないかな?」
男はフィルムを巻き上げていた手をぴたりと止めた。その言葉が何を意味するのか男は知っていた。
「それはできないよ。もし写真が欲しいのなら帰ってから送ってあげるけど――」
「ならいい。どうせすぐに死んじゃうんだし……いらない。ちょっと聞いてみただけだから」
理由を尋ねられなかったことに対する安堵と、それを見抜かれなかった安堵が、男の気を少しだけ楽にした。恐らく、その理由をここで聞かれてしまえば、答えられなかっただろうし、引き止めることも不可能となっただろう。
「ジュース飲む?」
男はこの話を打ち切ろうと全く関係ないことを口走っていた。
「飲む。ご馳走して」
ポケットから取り出した小銭を全て満面の笑みをたたえる真理に持たせた。男は煙草を咥えると、手で風除けを作り火をつけた。そして、残りのフィルムを巻き上げ、三本のフィルムの中でも一番高いフィルムを装填した。
温かいミルクセーキの缶を両手で持つ真理に、どのような方法でこの世との訣別を告げるのか軽い感じで聞いてみた。真理は答えに困っているようだった。まだ決心がつかないのか、それとも死ぬ手段だけが決まっていないのか、男にはわからなかった。
「まだ決めてないのかい?」
「山に登るの。そのうち道に迷って………帰れなくなって――」
真理はそれ以上続けなかった。この土地にもあと半月もすれば雪が降り積もり白銀の世界へと様変わりすることだろう。雪に埋もれるのが先か、営林所の人間が見つけるのが先か。どちらにしても、この寒さである。異臭を放つ肉塊になるということはないはずだ。
それにしても迷惑な話だ、と男は思った。煙草を一本渡しただけで、死を告げられるとは思いもよらなかったことだ。良心の呵責に耐えられるかどうか。それが当面の問題であった。死を覚悟した未来ある少女を、そのまま死なせてよいものなのだろうか。
真理の決意から比べれば、自分がリストラされることなどたいした問題ではないように思えた。
「君のおかげで、森の虫たちが喜ぶ」
この言葉が男の結論だった。止めないと言ってしまった手前、今さら死ぬなとも言えない。なるべく現実で惨たらしい話をすることで、自殺を思いとどまらせることができるのかもしれないと思ったのだ。幼稚な方法に感じたが、男はさらに続ける。
「君が死んだら、君の体は虫たちの格好の餌になる。腐った足やら腕やら胸やらを虫たちが這い回り、全ての穴という穴に潜り込んでいく。そして、子孫を残そうとする本能に従って、君の体に卵を産みつける。それも数百数千という単位でだ。君の体内で一冬を過ごしたその子孫は、春になったら一斉に肌を突き破って誕生してくる。これで、何百万匹もの生物が救われた。君は虫の命の恩人だ」
右頬を引きつらせる真理が、自分の体にせわしく目を配る。そしてその視線が下腹部にたどり着いたとき、真理は震える声で言った。
「やっぱり、首を吊って死ぬことにする。虫さんの命は大切だけど――」
「首を吊る? それもいい。死んで垂れ流す糞尿は、植物の肥料となる。時間が経って、首が腐り、体が二つに分断されれば、その体には虫が――」
「なしてそったらこと言うの。反対しないって言ったべさ」
言葉が砕けた。怒ると訛りが出る体質らしい。かわいそうな気もしたが、男は容赦なく続けた。
「それならいっそのこと、この先の崖から身を投げるというのはどうだい?」
「どうせ虫がって言うんでしょ」
ふてくされたようにして真理が言った。
「それだけじゃない。紐なしバンジーだ。ものすごいスリルを味わえる。あれくらいの高さなら、気を失うことなんてない。地面が迫ってくる様子を最期まで見ることができる。実に魅力的な死に方だ。僕が死ぬなら絶対これだな」
今にも涙が溢れ出しそうな瞳を見て、再び罪悪感がひたひたと襲ってきた。だが、途中で投げ出すわけにはいかなかった。人の生死がかかっている。
しばらく沈黙に支配された。耳鳴りするほどの静けさが、恐怖に変わる。真理がどんな行動に出てもすぐに止められるように、両足に力を込めた。
「死にたいって思ったことはある?」
意外な言葉に男は耳を疑った。心の変化があったかもしれないと男は勝手に推測した。自らの命を絶つことなど考えたこともなかった。教習所の適正検査でもそのように答えている。事実上のリストラを宣告されたときも、男はそれを自然に受け入れることができた。
「両親がね………。どうして僕だけって思ったことはあるよ」
「お父さんとお母さん死んじゃったの?」
視線を落として、悲しいそぶりを見せる。両親は生きている。話したのは、両親だけが海外旅行に出かけた話である。思わせぶりな態度で語ることで、あとは相手が勝手に話を作ってくれる。嘘を嘘で塗り固めようと躍起になるから嘘がばれてしまうのだ。
「でもさ、辛いことばかりじゃないよ。こうやってここに来たことで、真理ちゃんにも会えたし、バスの運転手から面白い話も聞けたし」
「面白い話?」
「昔ある小さな村に男がいて……ある男と勝負事をしました。そして、その勝敗を自慢げに村中の人に話しました。『最初あっちが勝ってよ、次こっちが負けたのさ』ってね」
男はできるだけ早口で言った。それでなければ意味がなかった。真理はしばらく目線を上下左右にせわしなく動かしていたが、やがてトリックに気づいたのか、男を見据えた。
「最初は相手が勝って、次は自分が負けたんだから、男は二度負けたんでしょ?」
子供だましに引っかかるほど子供ではなかったようだ。
「そう、男はどちらとも負けたんだ。でも、あまりにもその男が自信たっぷりに早口で言うもんで、村人は騙されて男が一度は勝ったと思い込んだというお話」
「全然つまんない。もっと面白い話ないの?」
長く考えれば誰でも答えがわかってしまうことは告げなかった。ここまでの苦悩や葛藤を無駄にしないためにも、男は焦らず、慎重に事を運ばねばならなかった。
「例えば………例えばさ、素敵な彼とここで夜景を見ていると彼が言うんだ。君のことを愛している。僕と結婚してくれないかって」
「それってもしかしてプロポーズ?」
「頬を染めるんじゃない。例えばの話だよ。辛いことがあったらさ、忘れるまで目をつぶって、楽しいことが起きるまで我慢するんだよ。そうすればそのうち楽しいのほうからやってくるよ」
「ありがちな台詞だね。騙されないよ。私は死ぬの」
そこそこの人生経験をつんだ男が、自殺願望を持つ少女一人を説得できないのである。二十七年生きてきたことを否定された気分だった。
「半年前、うちのお姉ちゃんが半狂乱になって帰ってきたの。お姉ちゃんが言うには、ろくでなしの旦那が浮気したとかしないとかで……お父さんが帰れってお姉ちゃんに言ったら、お姉ちゃん暴れだして……お姉ちゃんの投げた皿が私のおでこに当たったの。ここに傷があるでしょ?」
真理が額にかかっている髪を手で押さえ、もう一方の手で傷を指差した。ギリギリまで顔を近づけた。生え際の産毛のすぐ下に、右下がりの小さな傷がある。見上げた真理と近距離で目が合った。年甲斐もなく胸が高鳴る。
「パックリ割れて、血がピューって噴き出して……三針縫ったの。一生残るんだって」
男は親指で額の傷を優しくなぞった。額は驚くほど冷たかった。狐や狸の類に化かされているのではないかという非現実的な考えが頭をよぎる。
真理は少しだけ顎を引いて、拒否反応を示した。口唇を当てようという考えを振り払い、思いついた言葉をそのまま口にした。
「痛かった?」
「痛かったよ。誰も気づいてくれなかったの。お姉ちゃんが落ち着いた頃に、お母さんが悲鳴をあげたわ。私、ソファーの後ろで声も上げずにうずくまっていたから」
真理は何がおかしいのかクスクスと笑っている。その様子を想像してみたが、男には真理が血を流している痛々しい姿しか想像できなかった。
「お姉ちゃんが運転する車で、町立病院に連れて行かれたの。それがね、お父さんとお母さんも乗ったんだけど、無言なの。驚くほど無言なの。あの時、思ったの。死んでやろうって」
男は妙に納得した。これが本当の理由なのだろう。何てことはない。真理は心配してくれなかった親に腹を立てていたのだ。だから、家出娘のような遺書しか書けず、最後の決心もついていなかったのだろう。
「さあ、帰ろうか。バスの時間だ」
「うん」
全てを語りすっきりしたのかも知れない。真理は驚くほど素直な少女に変わっていた。あからさまな安堵は恐らく見抜かれてしまっただろう。しかし、自殺する少女を助けたのだ。もうどうでもいい見栄であることには違いない。
一分早くやってきたバスには誰も乗っていなかった。運転席側の前から三番目に並んで座った男と真理は、無言でバスに揺られた。
男は真理の自殺を止めたかった。真理は誰かに話を聞いてもらいたかった。二人はそれぞれの願望をかなえるために峠の頂上で会話を必要とした。それがなくなった今、言葉を交わす必要は薄れていた。それよりも、運転手が峠の頂上から乗せた二人の客をどう思っているのか気になった。せめて歳の離れた兄妹と思ってくれるとよいのだが、世間の狭い田舎のことだ。どんな噂が立つのか容易に想像できた。真理を先に乗せ、次のバスで帰ればよかったかもしれない。男は後悔したが、峠の頂上でもう二時間待つことはできなかっただろう。
真理の手が降車ブザーに伸びたのは、長い一本道の農道の途中にある25線というバス停だった。
バス停のすぐ前の二階建ての近代風の家には灯りがともり、奥にある牛舎にも整然と並んだ蛍光灯が煌々と照らされていた。真理の家なのだろう。家の入り口には、IKEZAWAFARMという牛の絵の描かれた表札代わりの看板が立っていた。彼女の名前が池澤真理ということを男ははじめて知った。自分が名乗っていないことに気づいたが、それはすでに重要ではなくなっていた。
「おじさん、これあげる」
真理が手にしていたのは、丸く青い文字で書かれた遺書だった。必要なくなったのだと男は解釈した。
「お父さんお母さんに今日のことを話すといい。全てがうまくいくことを祈っているよ」
「うん、話してみる。ありがとう、バイバイ」
小銭を料金箱に入れた真理が飛び跳ねるようにしてバスから降りるときに見せた表情は、幼いものではなく、大人びたものをまねしたものだった。
乗降口の扉が油切れなのか、途中で一度引っ掛かってからバタンと閉じた。真理の姿が流れていく。胸元で小さく手を振る真理が完全に見えなくなるまで、男は視線を合わせた。
「お客さん、大丈夫かい?」
運転手の問いかけに、男はエンジン音に負けないように怒鳴り返した。
「何がです?」
「自殺少女に騙されなかったかい?」
バスの運転手がからかうようにして答えた。男はバスの最後部まで走り、ウインドウ越しに真理を探した。家の明かりに照らされてかすかに見える真理は大きく手を振っていた。こちらからは真理の姿をはっきり確認できないが、真理からは車内灯のあかりで全てを見ることができただろう。自分は今どんな顔をしているのだろう。男はそれを考えないことにした。あまりにもそれは口惜しすぎた。
男は運転席逆側の一番前の席に座り、だらしなく顎を乗せると、投げやりに言った。
「運転手さん、祖父から聞いた話なんですが、その昔、ある村で二人の男が勝負したって話、聞いたことあります?」
運転手は真理よりも早く言葉のマジックを見抜き、ミラー越しに意味ありげな笑みを浮かべた。
一ヵ月後に職を失ってしまう事実などどうでもよかった。ただ今は、峠の頂上で降りたことを後悔すべきだと思った。
<了>