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帰還者の片鱗

 「ふあーあ」


 麗らかな春の日差しの下、目の前で大口を開けて欠伸をするブレザー姿の男『神楽刀夜』。大変遺憾ながら、私『神楽雪那』の兄でありクラスメイトでもある人間だ。兄なのに同級生なのは、別に早生まれと遅生まれというわけじゃない。単純に兄が一年留年しただけの話だ。これが情けない理由なら散々いじり倒して、学校では他人のふりをしてやるのだが、生憎とそうではない。兄は一年間行方不明だったのだ。兄自身にもどうしようもなかったことであり、流石にこれで責めるのは気が咎めた。なので、時々からかってやる程度にしている。


 「兄さん、外でみっともないことしないでよ」

 「かたいこと言うなよ。この暖かな春の日差しには眠気も刺激されるってもんさ」

 

 まったく悪びれないで、そんなことをのたまう兄。カチンときた私は、魔法の言葉を使うことにした。


 「もうたださえ、留年しているのにこれ以上立場をさげるようなことしないでよ」

 「ちょっ、おまっ!欠伸一つでなんでそこまで言われなきゃならん!」


 効果は覿面である。留年のキーワードを聴いた瞬間、兄の顔が情けないものに変わる。普段は何も気にしていないように振舞っているが、地味に気にしているのだ。


 「妹とはいえ、隣にこんな可愛い女の子を侍らせて登校しているんだから、欠伸するなんて失礼極まりないと思わない、兄さん」

 「そりゃ贔屓目抜きにしても可愛いことは認めるが、あんまり自分でそういうこと言うのはどうかと思うぞ。お兄ちゃんは雪那の先行きが不安だ」


 ストレートな褒め言葉に思わず俯く。赤面しているのを見られない為だ。一年前帰ってきた兄は以前とは変わっていた。本質的には変わっていないように思えるが、以前との差異はけして少なくない。

 まず、今のようにストレートに口に出して褒めるようになった。以前は思っていても それを言うこともなく黙り込むのが兄だった。精々がぶっきらぼうに褒めるのが精一杯のはずだったのに、どうしてこうなったのだろうか。


 「兄さん、本当に変わったよね」

 「うん、そうか?」

 「そうだよ。以前の兄さんなら、そんなこといえなかったよ。ご飯も凄く美味しそうに食べるし、夕飯は自分からお母さんの手伝いをするようになってるし」


 兄はご飯を凄く美味しそうに食べる。帰ってきた当初など、食べながら涙を流していたほどだ。確かに帰還初日はお母さんが頑張って腕を振るったご馳走だったけど、それ以降もしばらくは反応は変わらなかったのだ。確かに食べることは元々好きだったけど、一体何が兄の心をそんなに震わせたのだろうか?

 それだけならまだしも、兄は料理する母の手伝いを進んでやるようになった。というか、真剣に料理を習っているのだ。以前の兄は専ら食べるほう専門であった。料理ができないわけではないが、兄が作るのは家庭科で習ったチャーハンとボーイスカウトで作ったカレーだけだ。まずくはないし、普通に美味しいのだが、それは男の料理の域を出ないものであった。それが今は料理人でもなるのではないかという真剣ぶりだ。この間、お替りしたシチューが兄の作だと知った時の衝撃は忘れない。あの完璧超人のお姉ちゃんですら、衝撃を受けていたのだから。

 実の兄に女子力で負けるなんて!

 けしてその八つ当たり&憂さ晴らしで、留年ネタでいじっているわけではない。本当だよ!


 「いや、変わったと言うより気づいただけさ。据え膳上げ膳状態がどれだけ恵まれたことなのか。食うに困らない幸せをな。料理を教わっているのは、どうせなら自分でも作れた方がいいと思ったからさ」


 どこか達観したかのよう顔でそんなことを言う兄。どうにも面白くない。友人達はこれを大人びいているとか言っているが、ただ分かったようなことを言っているだけじゃないかと反発したくなってしまう。

 だが、それを言葉にはできない。兄はそれを実際に行動で示しているし、不思議とその言葉には妙な説得力があるのだ。


 「本当かな?あれだけ夢中だったゲームもほとんど売っちゃったし」


 兄がオタクといかないまでもゲーム、特にRPGと呼ばれるジャンルのゲームに傾倒していたのは、家族の誰もが知っている厳然たる事実だ。小遣いの大半をそれに注ぎ込み、ファッションなどまるで気を使っていなかったのだから。そんな兄が一年前帰還するなり、大半のゲームを売り払ってしまったのだから、我が家には激震が走った。お母さんは、兄の体調を本気で心配したし、お姉ちゃんも同様だ。お父さんだけは若い頃にありがちなことだと笑っていたけど。

 とはいえ、ゲームをやらなくなったわけではない。ただ、その頻度は著しく下がり、そしてRPGだけはプレイすることも買うこともなくなったのだ。あんなに好きだったのに。

 

 「まあ、もういいかなと思ってな。特にRPGの類はもう食傷気味でな。ただ、それだけの話だ」


 何でもないことのように答える兄の態度が、またなんとも腹立たしい。

 私をゲーム好きにした元凶の癖に!

 おかげで最近は、欲しいゲームは自腹で買う羽目になっているのだ。おかげで金欠気味なのは秘密である。女の子は男の子と違って、色々お金が掛かるんだから仕方ないでしょ!


 「刀夜さん、ユキちゃん、おはよー」


 糠に釘、暖簾に腕押しの兄の態度に苛々していたら、聞きなれた元気な声が聞こえた。どうやら、今日はここでタイムアップのようだ。


 「おはよう麻生さん」「おはよう姫乃」

 

 兄と私が挨拶を返したのは、大輪の花が咲き誇るが如く微笑む『麻生姫乃』である。兄同様クラスメイトであり、私の幼ない頃からの親友である。黒歴史だが、私はかつてはお兄ちゃん子だったので、その関係で兄とも古い付き合いである。


 「刀夜さん、名前で呼んで下さいってお願いしましたよね」


 兄の苗字呼びが気に入らなかったのか、不満気にぷうと頬を膨らませる姫乃。それがまた可愛いのなんの。男なら、これで落ちない男はいまい。たとえ、落ちなくともお願いは素直に聞くだろう。が、兄はその上を行った。


 「麻生さん、すまないがそれはできない。俺みたいなのと変な噂がたったら、君の迷惑になるからね。妹の友人をそんなことで失わせたくないんだ。だから、学校では人目のあるところでは許して欲しいかな」


 ―――――違う!お兄ちゃんは、こんなんじゃなかった!


 姫乃みたいな可愛い女の子に対し、こんな如才なく返せる人間では絶対になかった。何度、そう思ったことだろうか。間違いなく兄であることは確信しているが、それでもその変化の原因が分からないのは…(両親も姉も行方不明中の一年間に何かがあったのだと確信しているが、自分から話そうとしない限り追求しないという結論になっている)…教えてもらえないのは面白くない。


 ―――――ねえ、お兄ちゃん。本当に何があったの?


 不満げに詰め寄る姫乃をうまくかわしながらも歩みを止めない兄を見つめながら、私は何度目かになるかわからない声にならない問いかけをするのだった。





 「やっぱり気づかれているか……。まあ、あからさまに変わったしな」


 屋上で、俺は弁当を食べながら呟いた。姫乃ちゃんに一緒にと誘われたが、折角の昼食を妹の疑惑の視線に晒されながら食べるのはごめんだったからだ。まあ、咲夜と話せるように一人になりたかったというのも大きいのだが。

 実のところ、雪那の無言の問いかけに俺は気づいていた。いや、正確には妹程あからさまではないが、姉と両親のそれにもだ。


 「やはり話されないのですか?」


 咲夜の鈴の音のような心地のいい声が耳朶を揺さぶる。

 咲夜と校内で話すのは危険な行為だが、幸い屋上は立ち入り禁止な上、厳重に施錠され机と椅子が山と積まれているので、誰にも見られる心配はない。そんな所にどうやって入ったのかと疑問に思われるかもしれないが、常人からしたら頭おかしい侵入方法なので説明はしない。高校に通いだして以来、苦労して見つけ出した俺にとって貴重な憩いの場である。


 「ああ、異世界に召喚されて戦争やってましたなんて、誰が信用する?お前の故郷とは違って、異世界の存在自体が幻想とか妄想扱いだからな。正直に話したところで、誰も信じないさ。なにせ、異界の侵略も、召喚魔法も存在しない科学全盛の世界だからな」


 家族に真実を話さないのは心苦しいが、馬鹿正直に話して頭のおかしい奴だとは思われたくない。もちろん、家族であるから信用してくれる可能性は高いと思っている。

 だが、逆の立場で考えると俺ならば、明確な証拠を提示しない限りまず信用しない。こう言ってはなんだが、かつての俺は徹底したリアリストだったからだ。ありえない&存在しないと思っていたからこそから、RPGを役割を演じるゲームとして楽しめたのだし、のめり込めたのだ。


 「実在していると知ってしまった今では、最早現実味がなさ過ぎて楽しめない。剣と魔法のファンタジー世界でも世知辛い世の中であることを理解してしまったから」


 温かい美味しい食事をありがたがるのは当然だ。旅の最中や戦場では、炊煙による居場所の露見をおそれて、おいそれと火など使えない。故、必然的に冷たくて味気ない保存食を食べることになったからだ。最悪、飯抜きなんてこともありうるのだ。そりゃ、飽食とも呼ばれる現代日本の食事がどれだけの価値を持っているのか痛感するというものだ。

 料理も同じで、己がもう少し料理できたら、もっとマシなものを食べれたと確信しているからだ。同時に、料理と言うものが他国であろうと、世界であろうと通用する技術だと理解したからでもある。

 思ったことをストレートに口を出すようになったのは、その必要があったからだし、日本人の独特のオブラートに包んだような物言いはあちらでは好まれなかったので矯正しただけの話である。

 要するに、なんのことはない。どれも必要に迫られ、その真価を理解したからにほかならないのだ。


 「それに『学院』のマド共の言葉も気にかかる。推論とはいえ、杞憂とはいいきれんからな」

 「あの狂人共の言ですか?……ああ、そういえば言ってましたね。異世界の存在を認識することは、縁を強める。若しくは召喚の因果を生み出すのではないかと」


 送還魔法の存在を知らされた時に言われたことだ。もし、送還がうまくいったとしても、また召喚される可能性はけして低くないと。まあ、だからこそ脅しめいたことを言った訳だし、わざわざ褒美として望んだわけだ。なにせ、俺を再び召喚することは、褒美をなかったことにするのと同義となるのだから。 


 「ああ、そうだ。間違っても、家族を巻き込むわけにはいかないからな。マッド共が召喚できた経路を塞ぐ形で俺を送還したといっても、可能性はゼロじゃないからな」

 「マスターの力量は連合諸国に知れ渡ってますから、そんな命知らずなことはしないと思いますけど、マスターの危惧はもっともですね」


 咲夜も頷き、同意してくれた。

 

 「だろう?それに知る必要がなければ、剣と魔法の異世界(ファンタジー)の存在なんて知らなくていいんだよ。この平和ボケなんて言葉が出来てしまう程に平穏で平和なかわりばえのない素晴らしき日常を安穏と甘受していればいいんだよ」

 「それでマスターが孤独になろうと……ですか?」


 咲夜がどこか悲痛な表情で言う。


 「そうだ。俺は俺以外の誰も巻き込む気はない」

 「それではマスターがあまりにも!」

 「いいんだよ、それで。それに俺は孤独なんかじゃない。むしろ、俺はようやく家族を住む家を取り戻したんだ。何より、咲夜、お前がいてくれるじゃないか。こんなに恵まれているのに、文句を言ったら、罰が当たるさ」

 「マスター……」


 家族にさえも真実を明かせないのが辛くないと言ったら嘘になる。何もかも包み欠かさずぶちまけたいという欲求は、常に存在しているのだから。実際問題、もし、本当に一人だとしたら、俺は前述した危険性を無視してぶちまけていたかもしれない。

 だが、俺には咲夜がいる。我が身を省みずに異世界であるこの地まで着いて来てくれた唯一無二の従者が。彼女の現在の境遇とその献身を思えば、俺の辛さなどへでもない。


 「本当にありがとうな」

 

 俺は心からの感謝を込めて、咲夜の頭を優しく撫でるのだった。





 高校生二年の生活が始まり、しばし経った四月半ばのこと。俺には憂鬱な授業が始まってしまった。 それが何かと言えば、「体育」である。なぜかと言えば、異世界で鍛え抜かれた肉体は、尋常ではない身体能力を発揮するからだ。本気でやったら、間違いなく標準どころか国体レベルを凌駕しかねない。

 故、必然的に非常に繊細な手加減を要求されることになった。魔法と魔具で底上げされた人外共が跋扈する異世界で、そのどちらも使えない『完全無魔』である俺は常人から遥かに逸脱する領域まで自己を鍛え上げ、かつ全能力を活用することで生き残ってきたのだ。そんな俺にとって、学生レベルに合わせ全力を出せないというのは非常にストレスのたまるものだったのだ。


 因みに言うまでもないかもしれないが、学業の方は逆の意味で大変だった。なにせ魔法なんて非科学的なものが根幹をなす世界で十年余りを過ごしたのだ。その認識を切り替えるのは、大変な苦労をした。おかげで、初の中間・期末は必死に勉強して赤点ギリギリという始末。ようやく平均点をとれるようになったのは、三学期になってからだった。

 かつては唯一の取柄だっただけに、このことで受けたダメージは大きかった。


 まあ、それはさておき問題の「体育」であるが、クラスでトップではないが5位以内くらいの成績に抑えることに成功していた。三割も出していないのにこの結果なのだ。全力など出したらどうなることか。想像もしたくなかった。

 幸いだったのは、サッカーや野球などの球技だ。俺が肉体を鍛えたのはあくまでも剣術や体術といった戦かう術の為なのだ。身体能力があったとしても、純粋な技術、ドリブルやボールの扱いなどまでうまくなったりはしないのである。それでも、鍛え抜かれた動体視力と身体能力をフルに使えば話は別だろうが、当然そんことはしない。おかげで運動神経はいいけど、球技は平凡という風に偽装できた。


 しかし、全く失敗がなかったわけでもない。

 高校の「体育」の授業では武道が存在する。俺の在籍する御風南県立高校でも、男子には剣道もしくは柔道を選択することが必須であった。迷うことなく剣道を選んだ。だてに『剣煌』など呼ばれていたわけではない。体術よりも剣術の方が得意だったし、加減もきくからだ。それに体術だと、下手をすると相手を殺しかねない。俺の身に着けた技はそういうものだからだ。そこへいくと、剣道は得物が竹刀であり、防具もつける。危険性は遥かに低いと判断したのだ。

 だが、それが結果的に油断につながってしまったのだろう。思わぬ失敗をしてしまう。剣道部顧問の有段者である教師に不意を打たれた時、咄嗟に反応して胴を打ち抜いてしまったのだ。どうもその教師は、立ち振る舞いから、俺が実力を隠しているのではないかと疑っていたらしい。まんまとそれにひっかかってしまったのだ。これが殺気のこもった一撃ならばよかったのだが、間違いである可能性を考慮して寸止めするつもりのものであった為に反応が遅れてしまったのだ。おかげで反応の遅れを取り戻そうと、過剰に動いてしまったのである。結果、実力の一端が白日の下に晒されてしまった。


 背後からの一撃をかわし、振り返り様に胴を打ち抜く。どう考えても尋常の技ではない。授業中にも関わらずしーんと一瞬静寂が支配し、次の瞬間爆発的な歓声が上がった。たちまちに目撃していたクラスメイト達に囲まれ、「すげえ!」「今の何!?」など口々に詰め寄られる。当の元凶である教師が、一喝しなければえらいことになっていただろう。

 しかも、このことは最悪なことにその後の昼休みに話題になり、クラス中に知れ渡り、妹の耳にも入ってしまったのだ。おかげで、妹の疑惑の視線が痛い事この上なかった。これは妹の口から姉や両親にも知れ渡り、剣道などまるで習ったこともないことを知っている彼らの疑問を深めるものになってしまい、痛恨の大失敗であった。

 因みに当の元凶である教師からは、謝罪とともに剣道部に勧誘されたが、一蹴したのは言うまでもない。


 「はあ、どうしたものかな……」


 今日も今日とて、憂鬱な時間が始まる。なまじ実力が知られてしまったせいで。手加減がかなり難しくなってしまったのだ。下手に手抜きをすると、教師に見破られて叱責を受ける上、相手を務める生徒のプライドも傷つけてしまうからだ。


 「神楽来たか。どうだ、いい加減剣道部に入らんか?」

 

 背後からの野太い声に仏頂面で振り向と、予想通りそこにはガハハと豪快に笑う憎き元凶である体育教師冴島の姿があった。この男、何度断っても懲りない。会う度に勧誘て来るのだ。大した面の皮である。


 「何度も言ってますけど、絶対に入りません」

 「つれないな。お前が入れば、八木と佐藤と合わせて全国制覇も夢じゃないんだがな」


 うちの剣道部は県立でありながら強豪である。その立役者が冴島であり、彼の言葉は嘘ではないだろう。八木こと八木智弘先輩は、確か個人戦でも全国出場を果たしたと去年話題になっていたし、佐藤こと佐藤則之は同級生であり、現クラスメイトだ。彼は彼で、去年剣道部期待のホープとして騒がれていた逸材だ。そんな連中と同列に並べられるとは……。

 本来なら光栄に思うべきなのだろうが、俺にとっては迷惑極まりない。


 「冴島先生、いい加減にしてくれませんか。俺は本当に迷惑してるんです。申し訳ないですけど、他を当たってください」

 「そう言うな。お前ほどの腕の持ち主なんて早々いるわけないだろう。この通りだ、頼むよ」


 拝むようにいってくるが、俺は冴島の為に動いてやるのだけは絶対にごめんだった。大体、これ以上不用意に目立ちたくないのだ。下手をして本当に全国制覇などしたら、俺の異常が明るみにでてしまいかねないのだから。 

 だから、俺は無視して行こうとしたのだが、何者かに肩を掴まれ足を止められた。避けようと思えば容易に避けられたが、それをやると余計面倒なことになると思ったので、あえて掴まれたのだが……。


 「待てよ。師範がここまでしているのに無視かよ。お前、何様のつもりだよ」


 その判断は大失敗のようだった。俺を止めたのは、憤怒の表情をした佐藤則之だったのだ。


 「俺が剣道部に入ろうが入るまいが、俺の自由意思だろう。いくら頭を下げられても困る。大体、確信もないのに不意打ちするような人間の下につきたくはない」

 「なんだと!師範を侮辱するのか!」

 「俺は侮辱などしていない。事実を言っているだけだ」

 「おまえっ!」

 「よせ、佐藤。事実だ、非は俺にある。気持ちは嬉しいが抑えてくれ」


 俺の言葉に激昂して、掴みかかってこようとする佐藤を冴島が押える。


 「でも、師範。こいつは!」

 「よせと言っているだろう!すまんな、神楽。行っていいぞ」


 冴島は懲りない男ではあるが引き際を弁えており、過剰な勧誘はしないし、断ったことで不当な扱いをしたりもしない。そういう意味で、完全には嫌えないのがこの教師の厄介なところであった。


 「……」

 

 俺は冴島に礼儀として黙礼し、早々に武道場へと入った。後ろから佐藤の怒鳴り声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。周りの視線が痛かったのは言うまでもなく、これから始まる授業に嫌な予感がするのであった。


 そして、案の定、その予感は当たった。最初の素振りで初心者の域を出ない者達が早々に分けられ、もう一人の体育教師が指導を担当する。当然如く、経験者&熟練者のグループに入れられた俺は、手本を見せるという意味で試合を行う佐藤の相手に指名されたのだ。本来、合同で授業を受けている他クラスの剣道部員がやる役所だったはずだが、どういうわけか俺にお鉢が回ってきたのだった。

 まあ、授業前にあんなことがあったのだ。空気を読んだのか、それともそいつも怒っていたのかもしれない。


 「強いんだろう?逃げるなよ」


 佐藤がそう言って、竹刀を俺に突きつける。周りを見回せば、興味津々という顔ぶればかりである。唯一、冴島が申し訳なさそうな顔をしていたが、止めるつもりはないようだ。まあ、確かに実力的には順当なので、異を唱えにくい。


 「分かった」


 結局、俺はおとなしく受け入れることにした。ここで俺が断ったとしても、佐藤はてこでも動くまいと判断したからだ。

 面をつけ、試合場の中央へと進み出る。対峙した佐藤の目には抑えきれぬ憤怒の炎が宿っていた。


 「始め!」


 主審の冴島の開始の声と共に、佐藤が即座に踏み込んでくる。悪くない動きだが、怒りで挙動が見え見えである。高速の面打ちをかわし、あっさりと抜き胴の餌食にする。ちなみにスピードは佐藤と同程度に抑えてある。


 「胴あり一本!」


 間髪いれず、冴島の判定が下され、やや遅れて副審の旗が上がった。ワッと歓声が上がるが、反面佐藤は呆然とし、微動だにしない。


 「佐藤一本だ。開始位置に戻れ」

 「師範、俺打たれたんですか?」

 「ああ、見事な抜き胴だった」

 「くっ!」

 「佐藤、今ので目が覚めただろう?怒りで曇った剣では神楽には勝てんぞ」

 「押忍!」 


 おいおい、審判が片方に肩入れしちゃまずいだろうと思ったが、これは正式な試合ではないし、たかだか体育の授業の試合なのだ。そう目くじらを立てることもないと思い直す。それに今ので、大体実力の程は把握した。冷静になったところで、こちらがあからさまに手を抜かない限り負けはない。


 開始位置に戻り、再び佐藤と対峙する。その目には最早怒りは見えず、体に見て取れた力みも消えている。何より侮りが完全に消えている。そのことに俺は目を瞠った。


 (あの短いやり取りで、ここまで持ち直せるとは、あの二人には余程深い師弟関係があるようだな。師範という呼び方からして、同門か?そうなると、無視して怒ったのも無理はないか……。

 まあ、それでも負けてやる義理はない。剣で俺に挑んだことを後悔しろ!)

 

 これが剣の勝負ではないか、あるいは実力がばれていなければ負けてやれた。だが、剣の勝負で実力がすでにばれている以上、ここで負ける意味は皆無である。何より《剣聖》の義息であり、最後の弟子である自分が、たかが高校生に剣の勝負で負けてやることなどできるはずがないのだから! 


 「始め!」


 流石に今度は容易に間合いに踏み込んでこない。慎重に間合いをとり、竹刀を揺らしこちらを幻惑しようとする。

 なるほど、一本をとられているから慎重だ。こちらの出方を見極めようと言うのだろう。だが、甘い。すでに布石は打たれており、お前はすでに詰んでいるのだ。

 悪い判断というわけではない。すでに後がない状況でなければ……。ここはこちらの意表をつき攻めるべきだったのだ。そうすれば、今の俺ならば一本くらいはとれてかもしれないというのに。


 「面ーーー!」


 高速の摺り足からの踏み込んでの胴への目線でのフェイントを入れて面打ち。結果的に完全な奇襲となった。佐藤はフェイントに引っかかりながらも迅速に反応したが、俺の竹刀は奴の竹刀が触れる前に面を打っていた。


 「面あり一本!」


 佐藤にとっては味方の筈の冴島が無情な判定を下す。副審二人も旗を上げ、俺の勝利は確定した。再び歓声が上がる。なにせ客観的に見れば、剣道部のホープを相手に無所属の俺が完勝したのだから無理もない。


「静まれ!まだ試合は終わってはいない。剣道は最後まで礼を失ってはならないのだ」


 冴島が一喝し、喧騒を鎮める。こういうとこは、本当に尊敬に値する人なんだが……。

 俺は開始位置に戻ったが佐藤は呆然として動かない。絶対の自信を持って挑んだのに完敗したのだ。一本目は怒りに逸って仕方がなかったにしても、二本目は言い訳できない。佐藤のプライドは粉々になったといっていいだろう。

 だが、同情はしない。全ては自業自得だ。最初の一本で様子を見、二本目で果敢に攻めていれば、それなりにいい勝負になったはずだ。なにせ、今の俺は佐藤と同程度に実力を抑えていたのだから。


 「佐藤開始位置に戻れ」


 冴島は理解しているはずだ。実質、この勝負は一本目を俺が先取した時点で決まっていたのだと。冷静になったことで佐藤は俺の実力を同格に修正したが、同時に一本先取されて後がないということも理解してしまったのだ。それが精神的な余裕を奪い、余計な警戒と慎重さを呼び、動きを萎縮させてしまった。さらにあれだけ感情的になっていたのだ。力みが消えたといっても、完全に消えたわけではない。そして先取した一本の抜き胴の記憶は新しく、どうしても胴を意識せざるをえないのを逆手にとりフェイントに使う。ここまでやれば、どう足掻いても反応が遅れるのは必然であり、同格の相手にはそれが致命的な隙となる。つまり、俺を侮り怒りに任せて剣を振るった時点で、佐藤は自ら勝機を捨てていたのだ。


 「師範、俺……」

 「佐藤!今は試合中だ!開始位置に戻れ!」


 佐藤の泣きそうな縋りつくような声を冴島は跳ね除けた。甘えるなと叱咤しているのだろう。佐藤は項垂れると、のろのろと開始位置に戻った。


 「礼!」


 互いに礼をし、試合場から出て正座して面を外す。俺の周りにはワッと人が集まり、佐藤は逃げるように武道場から姿を消した。冴島と剣道部員が慌ててそれを追う。勝ったというのに後味が悪いことこの上ない。しかも、俺の鍛え抜かれた動体視力は、佐藤の顔から零れた雫を捉えていたから尚更だ。


 (泣くほどに悔しがれるのなら、なんで怒りで剣を曇らせた!激情で強くなれるほど、世の中は甘くないんだよ!)


 俺は群がるクラスメイト達を「怒り狂っていたから」「冷静でなかったから」といなす。そして、泣けるだけの真剣さを剣に対して持ちながら、感情に任せて振るってしまった佐藤の未熟さを惜しく思うのだった。



 

 


 

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