1-5 遅れた頃にヒーローはやってくる
唐突ですが、私が体育の授業で絶対にやりたくない物は長距離走でした。
普段使わない筋肉が軋み、唾液が軽く血の味を感じる事になる“あれ”が辛くていっそ死んだ方がマシだと考えてしまった事が何度やら……。
社会人になってからは走る機会が少なくなり、おかげで階段を少々早く駆け上がっただけで息が切れるという貧弱ぶりが目立ちました。実家に帰ってからも変わりありませんでしたね。
「ぜはっ! はぁっ! はぁっ! ホント……死ぬ!!」
詰まる所、死ぬ気になれば限界を超える事は容易いのです。
短距離走の走り方で長距離を走るだなんて、やろうと思えば結構やれるものなんですね。
「ほきょあぁぁぁぁーーーーー!!」
「ひいぃぃぃぃ!! 追いつかれるうぅぅぅぅ!!」
サイクロプスの叫び声が大きな足音と共に私の後ろで鳴り響きました。
あんな巨躯の癖になんて素早いんでしょうか。勇気を振り絞り、尻目で様子を窺ってみますと、サイクロプスは樹林なぞ障害物にもならないとばかりにぶつかって倒しながら追いかけていました。
「わんっ!」
「えっ!? あ、吾朗!?」
突然、今まで一緒に走っていた吾朗が私の傍から離れ、振り返ってサイクロプスに向かって激しく吠えました。
ひょっとして、囮を買って出てくれたんですか!?
確かにそれなら逃げられる確率は飛躍的に高まりますが、そんな事はできません。
私は自分だけが助かるために誰かを犠牲にする真似など、死んでもやりたくはないんです。
ましてや、それが家族ならなおさら……。
「わんっ! わんっ!」
「こら! そこのデカブツ! 吾朗に手を出したら只じゃ済まさないわよ!?」
私もまた、立ち止まってサイクロプスの注意を引き付けるよう、大声を出して怒鳴りました。
(……アンタの気持ちは嬉しいけど、それでもしもの事があったら悔みに悔やみきれないわ)
私と吾朗の声に迷いが生じたサイクロプスはどちらを追いかけるか瞳をきょろきょろとして戸惑っていました。
ですがそう長くは続きません。迷いに迷った末、サイクロプスが選んだのは……私でした。
「ひっ……!?」
狩られる、とはこういう事を指すんでしょうね。筋骨隆々な巨人が狩人で私が獲物。
肉食動物に追われる草食動物。他にも言い表せますが、そんな場合ではありません。
「怖っ! やっぱ怖っ!!」
自己犠牲の精神を奮いましたが、怖いものは怖いです。
再会した追いかけっこ。もう少し頑張れる気がしましたが、どうやら無理らしいです。
「ぜぇっ……ぜぇっ……もう、無理……」
もはや私に走るだけの力は残されていません。ゼンマイ仕掛けの人形が止まるように、私の身体はゆっくりと地面に倒れこみ、起き上がる事が出来ませんでした。
「ぐふふっ……!」
何やら嬉しそうな笑い声。私の顔から血の気が引いて青ざめます。
全身をすっぽりと覆う大きな影。ゆっくりと顔を上に向けてみると、灰色の瞳孔を覗かせる大きな一つ目と垂直に目と目が合いました。
「あ……」
瞬間、私は考える事を止めました。いえ、これから起こる事を考えたくなかったと言った方が正しいでしょうか。
徐々に近づく大きな掌。
周りの音が聞こえなくなり、自分の鼓動だけが聞こえる世界。
高速で処理される思考の渦
――あぁ、走馬灯とはこういう物なんですね。
人生で体験してみたい事ベスト五に入る現象の一つをこんな見も知らぬ場所で遭遇するなんて……。
「ぎょあぁぁぁぁーーーーー!!」
響く悲鳴。乱れ暴れ出すサイクロプス。
私の意識は鼓膜と地肌からの刺激により、現実へと帰されました。
だけど疑問が……どうしてサイクロプスはいきなり暴れ始めたんでしょうか?
「う゛う゛う゛う゛う゛!」
「ご……ろう……?」
原因はサイクロプスのアキレス腱あたりにありました。
物凄い形相をして吾朗が乱暴に牙を突き立てていたからでした。
「ぎょあぁぁぁぁーーーーー!!」
痛みで気が気でないサイクロプスは周りの木々をなぎ倒しながらめちゃくちゃに動きました。
ですが長くは持ちませんでした。サイクロプスは吾朗に噛まれている足を大きく振り上げ、吾朗ごと空蹴りを放ったのです。
「ぎゃんっ!!」
その勢いに耐え切れなかった吾朗は足から振り落とされ、バウンドしながら転がっていきました。
「吾朗! だいじょう――ッ!」
慌てて駆けつけようとしましたが、腰を締めつける圧力。
視覚からの情報により、サイクロプスに掴まれたのだと理解しました。
「あ、がっ……!?」
大きな指に加えられる握力が私の肉と骨を歪ませます。気を抜けばすぐにでも粉々にされてしまいそうです。
(殺される、殺される、殺される、殺される、殺される――ッ!?)
気付けば、私はサイクロプスの手の中で必死に抵抗していました。
なけなしの腕力で叩きつけ、脚力で蹴り上げ、けど私の未来予想図は一向に変わる気配はありませんでした。
必死でした。今すぐ泣き叫びたくもありました。
諦める事を忘れず、最後の最後まで無我夢中に抗う。
私が出来るのはこれだけ、たとえ結果がどうであれ……。
「……けて」
ですが誰かの手を借りたいのです。自分では敵わぬ圧倒的な力の前には私は矜持を投げ捨てても助かりたい。
「たす……けて……」
鼻水を垂れ流してしまっても構いません。下着を失禁で濡らしてしまっても構いません。
私が望む願いは一つ。
「助けて! 誰か、私を助けて!!」
心の底からの叫び。
運命は残酷で、誰も聞き入れてくれる相手はいません。
あの別れ話の日と同じように、私が庸介から一番に聞かせてもらいたかった気持ちをもらえなかったように……。
「うわあぁぁぁぁーーーーー!!」
「そのままじっとしていろ! 動くんじゃないぞ!?」
悲壮なる叫び。それを上げた私の耳にふと聞こえた声。
理解可能な人間の言葉で綴られた声が存在すると認識すべく、私の思考が一瞬停止したと同時、顔の真横から高速で飛来物が通り過ぎました。
風切り音もまた通り過ぎ、目がようやく正体を追った頃には飛来物――一本の矢はサイクロプスの瞳に吸い込まれた後でした。
「ぎょあぁぁぁぁーーーーー!!」
目を矢で射抜かれるとはどれほどの痛みになるんでしょうか?
そんなどうでも良い事を考え始めた時、身体にかかっていた圧力がなくなり、代わりに重力感が襲いかかりました。
どうやら私の身体を掴んでいた手を離されたそうですね。
(ぶつかるっ……!?)
地面への衝撃を危惧しましたが、衝撃は抑えられました。
「大丈夫か! 今のうちに逃げるぞ!」
「え、あ……はい……」
何が何だかもはや分かりません。ただ、私は今、見知らぬ男に身体を両腕で後ろに回して抱き上げられている事は確かです。
これって、俗に言う“お姫様抱っこ”なんじゃ……。
(うっわ、恥ずかしい!? この年になってこれをやられるのはちょっと苦しいわ!?)
いえ、恥ずかしがっている場合ではありませんね。それより、助けて下さったのはありがたいのですが、このままだと“私だけ”が助けられてしまいます。
「待って! 吾朗を、あの犬もお願いします!」
こんな状況で動物も保護対象とするのは私自身、素人目にしても救助という行為では失格、禁止だと知っています。
それでも見捨てられないんです。理屈を入れようが、こればかりは譲れません。
「……わかった」
その意思を汲み取ってくれたのかは定かではありませんが、彼はぐったりとしている吾朗の元へと駆け寄り、首と肩を器用に使って毛皮を着るようにして運び始めたのです。
「よし、結構揺れるが、しっかり掴まっていろよ!」
彼は私――人間一人と吾朗――大型犬一匹の負担がかかっているにも関わらず、信じられない速度で走り出しました。
彼が何者かは判断ができません。
しかし今は安心して身を任せる事ができそうです。
私は久々に感じる男の肌と熱にちょっとドキドキしながら、全員で激しく暴れ回るサイクロプスから逃げたのでした。