幕間1
霧と鋼鉄の国――ヴァイツェン。
世界最大の領土を構え、内には数多もの鉱山を所有する軍事国家。
隣国であるゲルステとはお互い睨みを利かせ合い、大規模な国境戦争を数十年もの間も続けている。
五年前でも新しく見つかった資源地を巡った局地戦を起こし、そのまま敵対を強めていたが、両軍が輩出した壮大な被害を考慮し、一時的な休戦協定が結ばれている。
停戦状態の間、負傷者や犠牲者の救出を行ったり、講和条約(平和条約)締結のための交渉を開始したりすることもあるが、一方的な降伏受諾ではなく双務的な休戦協定に過ぎないため、休戦協定に重大な違反が見られた場合には直ぐに破棄できるようにされている。
仮初の平和にて、両国は水面下でいかに相手国を蹴落とせるか日々計略を謀る。
――無論、この国でも……。
「納得がいきません! どうして一部復興予算を部隊編成費用に使途移行なさるのですか!」
「これは議会の裁決によるはっきりとした物だ。お前も聞いている筈だが、先月王宮にて侍女に扮し、殿下を狙った不届きな輩がゲルステの者である可能性が高いとされ、さらには諜報によるとゲルステ側は密かに多数の小国を利潤で抱え込み、力を蓄える動きが見られた」
「ですが我が国ははっきりとした疲弊が浮き出ているのですよ!? 民は貧困に苦しみ、病が蔓延するのを恐れ、日々の生活を嘆き悲しむ。この状況を一刻も早く解決しなければ事態は悪い方向に留まる一方です」
「だからこそ“一部”だ。税務官達が算出した基準に沿う復興予算は残すように方針は定めるつもりだ」
「基準とはいかほどの事か! 元々あの金は支援を唯一目的として少ないながらも集計していった物なんですよ!? 他の事で使うために手を付けようとする事が間違いだと言っているんです!」
「そうとて、敵国側からの挑発および動きは事実起こった。休戦協定が結ばれているとはいえ、軍務はこれに対策しない訳にはいかん」
ヴァイツェンの首都に存在する王宮。
その一室である執務室では激しい討議を交わす二人。
材質の良さそうな机に肘を付きつつ、機能性の富んだ椅子でズッシリと構える中年の男性。
これに向かい合い、今にも机から乗り上げようとせんばかりに詰め寄る若い男性。
「えぇ、なるほど、国務としては随分と立派な理由を挙げられるんですね……ですがこれはどう説明なさるというのですか!」
そう怒鳴り、若い男性は手に持っていた羊皮紙の束を机に叩きつけた。
紙には何やら決算表のような数字の羅列が細かく刻まれていた。
「戦争で破壊された建物は地方領主の屋敷も含まれています。領主となるのは陛下から地位を承った貴族。ですが必ずしも資産を十分に保有しているとは全員には言えませんが……」
少々乱暴に紙を並べるように散らしていき、ほぼ全てが閲覧できるようにする。
「その何人かは被害がまったく居住が可能な範疇であるにもかかわらず、屋敷の修復ではなくて新しく屋敷を建てるために国税を使うとは何事ですか!」
「落ち着きたまえシリウス。あまり表だって反抗心を晒すのは時に王宮内ではいかん」
「これでも優しい方です。有力貴族となればそればかりか、屋敷内の装飾直しと言わんばかりに美術品を買い直し、あまつさえ別荘までもを建てようとする! いったい税を何だと思っているのでしょうか!」
「シリウスっ!!」
中年の男性から発せられたどなり声により、ようやく若い男性――シリウスは口を止めた。
だが、まだ何か言いたそうに口をもごもごと動かし、小さく歯軋りの音が聞こえていた。
「あまり騒ぎたてるんじゃない。下手に疑念を向けられると動きづらくなる。これが貴族ならばなおさらだ」
「――ですがっ!?」
「私もこの事はよく知っている。屋敷だけの範疇ではなく、貴族達には過ぎる事があるのも理解できるが、我々と同じここ王宮にいる貴族達は田舎貴族とは比べ物にならん。下手に突けばこちらが痛いしっぺ返しを受けるぞ?」
「それでも、あなたは王宮内では力のある御方だ――ファルマン殿!」
「残念だが、私は中立だよ。派閥における権力争いに突っ込んでいない分、相手の動きをせき止めるとまではいかんのだ」
内政の決議は厄介極まりない。
賛成側と反対側の数によって決まるとはいえ、その決定は“目的”と“操作”で簡単に変えられてしまうのが今の現状だ。
結論を正解に導くのを目的とせず、決定者の都合の良いように導く手段へとなり下がりつつあった。
「では、このまま議会の言うままに私達は働けと仰るのですか……自分が肥える事しか考えぬような豚の要求を飲み続けろと……」
「おい、シリウス……」
「……失礼、しました」
中年の男性――ファルマンが再び口のきき方に注意しようとしたが、シリウスはこれを待たずに一言礼を入れてから部屋から出ていったのだった。
不機嫌が足音に表れてるようにドカドカと乱暴な足取りでシリウスは執務室への帰路につこうとしていた。
王宮で自分にだけ用意された唯一の安息の場。
ここは人々の様々な思惑が飛び交う魔窟そのもの。
雀の涙ほどであれとも癒しがあるのは救いになる。
「おや、先ほどから何やら騒がしい音が聞こえていましたが……貴方でしたかシリウス」
「――っ! エドヴィン!?」
十字路を通り過ぎた途端、唐突に後ろからかけられた彼にとって聞き覚えのある声により、シリウスは足を止めて振り返った。
そこには大勢の取り巻きを連れ、シリウスに薄ら笑いを向けながら見据える美貌の男。
名をエドヴィンと呼んだ。彼はかけているメガネをかけ直しながらこちらへと近づいて来る。
「相変わらず夢見がちな理想を掲げて動き回っているそうですねぇ。上からも散々言われているんでしょう? 私の耳にも入っていますよぉ?」
「……夢見がちかどうかは私が決める事だ。第一、我々のような政に携わる者はそれを願う民の代弁者としてなくてはいけない」
「甘いですねぇ。何度も聞いてますが貴方のその言葉は甘ったるい菓子を口に含み続けている様でもどかしくなりますよ」
エドヴィンは軍務に携わる内政の役職を任されている上官の一人であった。
本来なら互いに違う事務の役職とはいえ、地位は副官と上官。シリウスの口遣いはあまり褒められた物ではない。
これにはエドヴィン自身が気にしていない事が一つ、もう一つが二人はかつて通っていた学院の“同期”であったというのに理由があった。
「そんな事じゃあ、貴方の尊敬されているお父上には近づけませんよぉ?」
エドヴィンがその言葉を発した瞬間、シリウスの心の中に押さえられている激動に変化が起こる。
「いやー私も五年たてど未だ国民に慕われる貴方の父――ジーク殿が羨ましく感じれます。代わりに王宮内では評判が悪いという“残念な”御方であられても……」
「エドヴィン、貴様――っ!」
「五年前の南北国境線第三波時にて、前線に配置された平民および傭兵の混合部隊。苛烈を極めた戦線で第三波では我が国は撤退を余儀なくされましたが、そこで敵国からの追跡を逃れるために当時は負傷兵だらけでわずかな生き残りしかいなかったその部隊を殿にして主力部隊を撤退させる作戦がありました」
エドヴィンはシリウスと彼の取り巻きを前にした語り事を右往左往しながら始める。
「ですが、その作戦に異を唱え、殿戦には主力部隊の方にも何人か配置するように提案した騎士団長がいたそうですが、当然、次の戦いを見越して戦力を残すべきだと判断した指令部には聞き入られませんでした」
「…………」
「ですが、前者での提案をした騎士団長はならば自分達の団にいる少数精鋭部隊を配置するようにと提案を変え、それを指令は“渡りに船”といわんばかりに呑み込んで殿戦は開始。その結果は上々、残力であった混合部隊は大半の生き残りを輩出したまま防衛に成功。ですが、殿戦の指令官を務めた騎士団長は敵の毒矢に胸を穿かれ戦死。同じく付き添った精鋭部隊の何人かも命を落としたそうです」
「全て貴方のお父上の事ですよ――シリウス?」
エドヴィンはいつの間にか笑みを消した顔でシリウスを見つめていた。
「その後、ジーク殿が団長とする騎士団は一度解体され、新しく編成されましたが……正直言って愚者共により『色々と混ぜられた』せいで錬度は以前と比較にならなくなってしまっているそうですが……あ、この事は誰にも喋らないでね? 僕の立場悪くなっちゃうから」
取り巻き達は「もちろんです」等とそれぞれエドヴィンに賛同する言葉を返した。
「そんな訳で、余計な義侠心を奮わず、あの混合部隊をそのまま捨て駒として扱って放っておけば、あの騎士団は今でも我が国の盤石を支える存在のままだったかもしれないという話が今でも飛び交っているんですよねぇ。彼等いわく、余計な事をした愚かな騎士だん――」
エドヴィンの言葉は最後を待たずに急遽、止められた。
シリウスが襟元を絞め上げるように掴んでいたからだ。
「エドヴィン! 貴様、これ以上言ってみろ! 私の父が何だと!?」
「いたたたたっ! 暴力はいけませんよシリウス!」
険しい顔でエドヴィンをシリウスは絞め上げていたが、取り巻き達が颯爽と群がり、シリウスをエドヴィンから引き離した。
大勢を相手ではシリウスもどうする事もできなかった。
逆に取り巻き達に報復を言わんばかりに殴るや蹴るを浴びせられ始めた。
「こら! お前達! 止めなさい! 止めなさい!!」
だが、それを止めたのは事もあろうにエドヴィンであった。
首元を軽く揉みながらよろよろと立ち上がりながら取り巻き達へと制止を呼び掛けたのだった。
取り巻き達がその場を離れると、そこには床で蹲るシリウスがそこにいた。
エドヴィンは近づくと、シリウスを床から立ち上がらせるよう肩を貸してやったのだ。
あからさまな勝者の余裕とでもいえよう。
「勘違いしないでくださいよシリウス。私はかつての同期として貴方を心配しているのですよ」
エドヴィンは優しそうな笑みを向けながらシリウスを立ち上がらせ、
「お父上のような“無駄死に”を最後に迎える二度舞いをしないように……」
顔を近づけ、耳元でそう囁いた。
シリウスは殴りたい衝動に駆られたが、先ほどのダメージで身体がおぼつかなく、達成できなかった。
壁に背を預ける事でようやく立っていられるこの体たらく。
「それじゃあ私はここで……では行きましょう!」
「ま、待て……」
シリウスは去っていくエドヴィンを追いかけようとしたが、足をもつらせて再び床へと蹲った。それでも諦めずに追いかけようとするものの、身体はいう事をきかない。
「父は……無駄死になんかじゃ……」
シリウスは思い出していた。
幼い頃から国とは民に優しい存在である事を説いた大きな父の存在を。
「愚か者でもない!」
多くの領民に慕われ、亡くなるまで母を深く愛していた男の存在を。
「言い直せ……」
戦争が終わった後、あの混合部隊の一員でもあった領民から感謝と尊敬の意を息子である自分に代わって述べられた場面を。
「くそおぉぉぉぉーーーーーっ!!」
これに対し、父を酷く言うような輩を見返すべく、王宮の門を叩いて政界へと踏み入れた決意を。
全てを踏みにじられた様で、ただただ悔しかった。ただそれだけであった。
しばらく床に腰をおろして痛む身体を少しでも回復させようとしていた。
そんなシリウスの傍に人影が一つ。
「シリウス、さま?」
顔を上げると、これまた知っている姿。王宮で自分に寄こされている専用の使用人の姿がいた。
「……アンネか。どうした?」
「どうした、って……それはこちらのセリフです!? どうなさったんですかその傷は!」
「これか? あぁ、さっき階段で転げ落ちた」
本当の事をいうと、結構厄介になる。
今回は人が傍にいなくて全然良かった。王宮で喧嘩といえど、乱闘を起こすのはまずい事でもあった。
エドヴィンは自分にも不利となり得る可能性がある事柄だと他人には簡単に話さないようにしている。
取り巻きにも強く言い聞かせる事だろう。
「とにかく、早く治療を! さぁ、立ってください!」
「……すまないな」
今はひたすら耐え忍ぶ。シリウスはまだ力を持たず、動く手段も十分に揃えきれていない。
この程度の事を一々と恨み辛みで心に留め続けるなどという面倒な行為は極力避けている。
なので、最後の最後に取っておこう。自分をこのままにした事を後悔するほどに……。
次に二章へ突入です。
舞台は彩が来てからしばらく時が過ぎた村から始まります。