プロローグ
です。ます。な語尾を使った物を題目として試し書きです。
「……あ~あ、全部台無し、本当に最悪ね」
お気に入りだったハイヒールを片手にびしょ濡れとなったスカートを絞ると河原の乾いた石は黒っぽく変色しました。
後でクリーニングに出しても皺が残りそうな物ですが、今の私には何も思い入れなんかありません。むしろ、今後も大切にすると遺恨が出来て余計な物を背負うはめになるので、これで良かったんだと納得がいきます。
「捨てられるって案外、簡単にされるんだって君もそう思うでしょ? ワンちゃん」
「きゅーん……」
汚れを気にせず座り込んだ横には湿った段ボール箱に入ったまま、無垢な瞳を私に向けてくる子犬。
まだ生後一ヶ月に満たない小さな容姿は愛嬌をふるまうと保護欲をそそりますが、先ほどまでこの子犬、保護を必要とするより救助を必要としていたのですから、たいしたものですよ。
「はーい、お姉さんの腕に包まってみなさ~い」
「アン!」
箱から取り出した小さな命から感じる温もり。
バランスがとれた黒青色と赤茶色の毛並み。
子犬ならではの幼い風貌は見るだけで心が癒される気分です。
こうした感動的な出会いを果たした私ですが、こうなる前は本気で自殺を考えていましたから。
◆◇◆◇
「……すまない、他に女が出来た。別れてくれないか」
久々に誘われた彼との外食。
昔、彼からプレゼントされた服を着て、いつもより気合を入れた化粧をしてから嬉々と向かった先で私に待っていたのは唐突な別れ話でした。
彼――庸介とは職場で出会い、お互いに仕事を進めていく内に関係を深めた同士でした。
お付き合いの始まりは彼からのアタックがきっかけ。
私も庸介の人情に惹かれていた部分もあってか、当然二つ返事で私達は関係を始めたのです。
幸せとはこういう事なんだろうと最高に実感ができた時期でした。
庸介とする全てが温かく、こんな日が長く続くのだろうと本気で考えていました。
時折、現実主義で見れば「何を馬鹿な事を」と言われても仕方ない惚れ気ですが、この頃は幸せに酔っていたんでしょうね。
凡人が求めるような幸福なんて、綻びが出来やすいという事を警戒できなかった私にも落ち度があると思います。
ちなみに、庸介の話によるとお相手は私と同じ職場で一つ下の後輩――江美でした。江美は職場の男性の間でかなり有名な人で、女の私が見ても綺麗で可愛い子でした。
その反面、男性関係で怪しげな噂が立っていると聞いた事があります。
迂闊でした。まさか人様の男を寝取りはしないだろうという了見を持っていたらさっそくドラマ的な展開が私に待ち受けていました。
さらに詳しく聞いてみると、なんと江美は庸介の子を身籠っているという始末です。
この事実は庸介が弁明している間で私を無意識へと追いやるのに十分。
さらに会社を無断欠勤するまで気力を奪われてしまいました。
「先輩、先輩、身体の具合は大丈夫ですか?」
そんなある日、上司や友人から慰めの電話やメールが携帯に入る中、なんと私と庸介の全てを壊した張本人から電話がかかってきた事があるんです。
江美は厚かましくも本気で言っているのか分からない謝罪や、庸介との現状を憎たらしくも丁寧に話してきましたよ。
ですが、私は庸介が江美に気を移してしまっても仕方ない付き合い方をしていた自覚があったからこそ、一方的に怒るのは少し違うんじゃないかと思い、怒りを押し込めながら静かに彼女と会話をしました。
「だってあの人、先輩といるのは“疲れる”って言うものですからちょっと慰めてあげると、なんか向こう側から乗り気になっちゃうんですもの」
この一言を聞くまでは……。
江美の口調は嬉しそうというより、楽しそうと感じる様子がありました。
理解してしまったんです。江美が私から庸介を取ったのは好きになってしまったのではなく、遊んでみたいと考えただけなんだって……。
湧水のように緩やかだった怒りが火山噴火のように激しくなった瞬間です。
悔しくて、悔しくて、でも怒りを直接吐き出してやろうという勇気がなくて……。
もしも相手に「貴方は庸介を本気で愛していたの?」と聞かれるのが恐ろしくて……。
そんなやるせなさが私を苦しめた末、裸足のままたどり着いた先はベランダでした。
一人暮らしのマンション五階、誰も私を止める人は来ない。なんせ私は捨てられたんですから。
ここ数日、まともに食事を取らないでいたから足元はふらついていましたが、簡単な動作ですので妨げにはならず、収まるように鉄柵へ手をかけました。
あとは度胸だけ。ここから思いっきり踏み越えれば、私を苦しめているこの気持ちごと消し去る事ができる。
自殺を決心するまであと数秒前。ですが、運命というのは唐突で神様の悪戯みたいだと比喩できるのは本当だと知る方が少し早かったようです。
このマンション、隣が川になっていて普段は気にも留めないんですが、この日は夕焼けが綺麗でその光が川に反射していたんですよ。
目に入った光で反射的に眼球運動が働いて、川の方へと視線を移すとおかしな段ボール箱が緩やかに浮いているではありませんか。
結構遠い場所にありましたが、これでも私は田舎育ちで目は良い方なんです。
少し目を凝らして見てみると、箱の中に何やらもぞもぞと動く物体がいるではありませんか。
だんだんと近付いてくる箱の中身。それはおろおろと成す術もなく呆然としている子犬だったんです。
目を疑いましたが確かに子犬が入っていました。
「ちょっと、嘘でしょ!?」
慌ててベランダから出て玄関へ向かうと散らかった靴の中から件のハイヒールを無意識で履き、外へと飛び出しました。
エレベーターよりも早く下りたかもしれません。
走るのにハイヒールは不利でしたが、走り辛さを気にも留めず、急いだ私はそのまま川へと飛び込んだのでした。
下半身がほぼ沈むくらいの深さでしたが、流れは緩やかで身体を持ってかれる事はなく、どうにかして箱を受け止めて河原へと上がる事ができたんです。
これが私のこれまで。思えば無茶苦茶な事をしてきましたね。
◆◇◆◇
「ふふふ、なんか馬鹿みたい。自分は被害者なのに何で苦労する必要があったんだろう。ワンちゃんも分かるでしょ?」
「わふっ!」
「勝手に振られて、勝手に思い悩んで……なんだかムカついてきたわ」
私は怒ってもいい。怒る権利があるんだ。
だったら、これからやる事は誰も咎めたりはしない筈です。子犬を抱き抱えたまま立ち上がり、焼けつくような激しい照りつきを見せる夕焼けに向かって私は、
「庸介の大馬鹿やろおぉぉぉぉーーーーー!! 早ろおぉぉぉぉーーーーー!! あとヘタレえぇぇぇぇーーーーー!! それと――」
今までのもやもやを全て吐き出すように、庸介に関する思いつく限りの暴言をどこかの誰かにも聞こえるように叫び続けました。
江美に対しても叫ぶつもりでしたが、少し慰められたぐらいで他の女へ簡単に情を移してしまうような“つまらない男”と人生の墓場へまっしぐらする未来を迎える事を考えると、意欲は逆に引いてしまいました。
「部長にどう説明しようかな……連絡ちゃんと入れなかったし、友達も心配しているだろうなぁ~。ここまでなっちゃったらいつも通りっていうのは難しいもんね」
とりあえず濡れた服のままでは気持ち悪いので、子犬を抱えたままマンションの自室を目指しました。
これではまるっきり不審者ですよ、私……。河原で叫んでいましたからなおさらですね。
今後の事をばっさりと決めた私はポケットから携帯を取り出し、電話をかけ始めます。
今頃の携帯は防水仕様で本当に助かりました。科学の発展はここまで来ましたか。
「あ、もしもし、お母さん? あのさぁ……」
さて、新しい家族が増えたところで……。
やり直しましょう。たかだか、心が傷ついたからという理由で立ち止まっていてはこの私――月島彩という人間がこの世で生まれた意味が安くなってしまいます。
もっと強い人間になるんです。