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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
二 去来と其角
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意外な宿り手

 その週の放課後は毎日図書室に通って俳句の本を読んでいた。コトの言いつけを実践していたのである。帰宅してからではどうしても気が散って読書が長続きしないので、閲覧室で時間を決めて集中的に読書することにしたのだ。コトは来たり来なかったりで、来た時でも挨拶する程度で特に長話をすることもなく帰って行った。

 おにぎりの方は一応コトの好みに合わせて、ひとつだけ単品の具だけで握ったものを毎日持参していた。しかしコトから要求されることは一度もなかった。一緒に食べたのも月曜だけで、それ以降はまた窓際でいつもの女子と二人で食べている。少々物足りない気持ちではあったが、こちらからおにぎりを差し出す義理もないので、僕は何も言わなかった。

 やがてその週も木曜日となり、夕方、いつものように朝炊いて冷蔵庫に保存しておいたご飯をレンジで温め、買い置きのアジの開きを焼いて夕食を取っていると先輩がやって来た。用件はもちろん、先輩が会ったという言霊の宿り手のことだ。相手と話し合った結果、二日後の土曜日に大学のキャンパスで会うことになった、との事だった。

「いやな、本当は、わざわざ三人が大学に来なくても、こちらからそちらに行きましょうかと相手は言ってくれたんだ。でも俺が大学に行ってみたくてな、こちらが伺いますと言っちまったんだよ。時間と金がかかって申し訳ないが、ちょっと付き合ってくれや」

 そんな尋ねてもいない内情を自分から打ち明けるのは、いかにも先輩らしい生真面目さだ。わざわざ大学に行きたいのは、きっとコトと同じく先輩も、あの大学が意中の志望校のひとつだからだろう。

「大丈夫、何の予定もないから時間はあるし、昼食をおにぎりにして浮いた食費をお小遣いに回せるから、かなり余裕があるんだ」

 僕の返事を聞いて先輩は安心したようで、機嫌よく帰って行った。翌日、学校でコトに事情を説明すると快く了承してくれた。

 土曜日、僕と先輩は二人並んで郊外へ向かう電車の座席に腰掛けていた。待ち合わせ場所は大学キャンパス厚生施設内の食堂、そこで正午に落ち合うことになっている。コトは直接現地に向かうというので僕と先輩だけで電車に乗っている。先輩とは小さい時から色々と一緒に遊びに出掛けているので、こうして電車に二人で乗るのも、もうすっかり慣れっこだ。そんな時の先輩はふざけたり、冗談を言ったりしていつも以上に賑やかなのだが、今回ばかりはそんな陽気さがすっかり陰を潜めているところ見ると、やはり緊張しているのだろう。それはこれから初対面の人に会う僕にしても同じことで、結局、電車に乗っている間はどことなく張り詰めた雰囲気が僕らの間に漂い続けていた。

 ようやく目的の駅に着いて改札に向かう途中、甘く爽やかな香りを感じた。降車客が少ないせいもあって、すぐに見つかった。前方の改札口を今まさに出ようとしている。僕は小走りに駆け寄って声を掛けた。

「コトさん」

 僕の声に振り向いたコトは初めて私服姿を見た時より大人っぽく見えた。大学キャンパスに足を踏み入れるということで、そんな感じの服を選んできたのだろう。改札口を出た所で立ち止まったまま、僕たちを待っている。

「同じ電車だったんだ」

「正午の待ち合わせなら、この電車しかないでしょう」

 それもそうだなと思いながら僕が改札を出ると、遅れて先輩がやって来た。

「こんにちは、コトさん。今日は手間を掛けさせてすみません」

 僕と会話する時には決して使わない、馬鹿丁寧な先輩の口調に可笑しくなった。それはコトも同じだったようで、苦笑しながら、

「いえ、特に予定もなかったですから。あの、それと私は年下なので、さんは付けずに呼び捨ててもいいんですよ」

 と、こちらもまた僕と会話する時には決して使わないであろう丁寧な口調で先輩に応じている。年上相手の会話なので当然と言えば当然なのだが。

「いやいや、呼び捨てにするのは特別な女性だけにしろというのが祖父の遺言でしてね。と、ここで立ち話は邪魔になりますね。さあ、では行きましょう」

 先輩はそう言ってずんずん歩き出す。先輩のおじいさんっていつ死んだんだろうと思いながら、僕は先輩に追いついて並んで歩く。コトはその後を一人でついて来る。しばらく黙って歩いていた先輩が顔を寄せて耳打ちする。

「おい、こうして改めて見ると、やっぱり綺麗な人だな、コトさんって」

 先輩の感想はもっともだ。僕も最初は外見の美しさに目を惑わされた一人である。

「まあ、綺麗なバラにはトゲがあるって言いますからね」

「なんだよ、それ、どういう意味だよ」

「どういう意味って、そのままの意味ですよ」

「トゲなんてどこにあるんだよ」

「隠れているから見えないだけですよ」

「二人とも、何を話しているのかしら」

 背後から聞こえてきた氷のように冷淡なコトの声に、僕と先輩の熱の籠もった討論は瞬時に急速冷却されてしまった。それ以降、僕らは無言で道を急いだ。隠れたトゲについて、先輩も少しは理解してくれたのではないかと思う。

 駅から徒歩で十分ほどの大学キャンパスには、道に迷うことなく到着できた。まるで修学旅行の生徒のように、初めて歩く大学構内を物珍しげに眺めながら、随分人影がまばらだなと感じる。

「人、少ないですね」

「大学も週休二日制だからな。土曜、日曜はこんなもんだろ」

 最高学府たる大学は不夜城と化して研究に没頭する施設と勝手に思い込んでいたのだが、どうやら想像とは違うようだ。しばらく歩いて二階建ての建物の中に入ると、ここも閑散としている。本屋やカフェコーナーは閉店、食堂だけが営業中。その食堂も利用客はほとんどいない。

「おっ」

 先輩はすぐに待ち合わせの相手を見つけたようだ。窓際の隅のテーブルへと迷うことなく歩いていく。僕もその後ろに従ったが、その先に座っているのは女性一人だけだった。その女性が急に立ち上がった。

「ちょっとー、遅いよー」

 僕たち三人の他に近くには誰も居ない。明らかにその女性は僕たちに向かって声を掛けている。

「遅いって、まだ正午じゃないですよ」

「もおっ、女性を待たせないように三十分前に来るのは当たり前でしょう」

 先輩はまるで当然の如くその女性と会話している。髪はやや茶色っぽく眼鏡を掛けた顔にはしっかりと化粧が乗っている。どこかの飲み屋のお姉さんみたいな感じの人だ。いや、実際に微かに酒の匂いが漂っている。僕はまさかと思いつつ先輩に訊いた。

「あの、先輩、つかぬことを伺いますが、待ち合わせの相手というのは」

「ああ、この人だよ。あれ、話してなかったっけ。女性なんだ、うん」

「聞いてません!」

 これにはさすがに驚かざるを得なかった。蕉門十哲の中に女性はいないので、相手はすっかり男だとばかり思い込んでいた。どうやら言霊は性別関係なく宿ることができるようだ。

「あら、こちらがコトちゃんね。いや~ん、カワイイし、お肌スベスベ。若いっていいわね」

 その女性はコトの手を握って愛想良く笑っている。コトも同じく愛想笑いだが、その顔は少々引きつっているようにも見える。僕同様、意外な相手に面食らっているのだろう。

「で、こっちがショウちゃんね。あら、なんだか頼りない感じ。どうして芭蕉さん、こんな子にしたのかな?」

 それはこっちが聞きたいです、などという言葉は初対面で年上の相手にはいささか乱暴に過ぎるので、コトと同じく「ははは」と愛想笑いをしながら、差し出された手を握った。その女性は力を込めて僕の手を握り締め、眼鏡の奥からじっと僕を見詰めた。

「うっ!」

 その女性の瞳が僕を捕らえた時、僕はその瞳の中に別の人影を見た。丸坊主の僧侶のような人物。その人影は一挙に大きくなりその女性の姿と重なった。そして僕はこの時、言霊を持つ者には言霊が見えるという先輩の言葉を初めて実感した。僕には見えていた。これは其角、蕉門十哲第一の高弟にして、嵐雪と並ぶ江戸蕉門の重鎮、宝井其角……


 日本橋の町名主、小沢太郎兵衛の屋敷へ父子の二人が訪ねて来た。用向きはここに寓居している伊賀上野出の松尾宗房への面会である。父の竹下東順は膳所ぜぜ藩江戸詰めの御典医なれば客間に通され、江戸へ下ってまだ二年の宗房と顔を合わせた。

「私のような者に藩医ともあろうお方が、何用でございますかな」

 宗房の言い分はもっともだった。俳諧師を自称してはいるものの、未だ宗匠として立机りっきしておらず、町名主の書き役として給金を受け取る借間住まいの日々である。このような未熟者にいかなる用向きがあるのか、宗房は疑心暗鬼の目で二人を眺めた。

「松尾殿のお言葉ごもっとも。なれど安心いたしていただきたい。用があるのは私ではなく、この子、源助でございます」

「子とな?」

「はい。この源助にも医業を継がせたいと思っておりますが、高位の方の診察ともなれば、それなりの教養も必要となりましょう。既に、医を草刈三越、儒を服部寛斎、詩を大巓だいてん和尚、書を佐々木玄竜、画を英一蝶はなぶさいっちょうに学ばせております。更に当世流行の俳諧を学ばせるべく、ここにお願いに上がったのです」

「しかし、私は宗匠ではなく修行の身。学ぶのなら他に適任が大勢居りましょう」

「それは、まあ、そうですが」

 東順は隣に座る、今も子供の面影を残している十代半ばの源助の顔をチラリと見た。

「所詮は俳諧、和歌とは違い言葉遊びに過ぎぬ戯れ事でございますからな」

 俳諧如き芸事は、何も大家に師事せずとも若輩者に習えばそれで充分、東順はそう言いたいのだと宗房は理解した。東順の隣には口をつぐんだままの源助が座っている。気の強そうな顔立ちに才気煥発さを感じさせる両目、それは臆することなく相手に立ち向かう挑戦者の目であった。

「よろしい、引き受けましょう。どれほどお役に立てるかわかりませぬが」

「其角!」

 これまで大人しく座布団の上に座っていた源助が大声を上げた。

「俳号は其角! 易経の晋其角そのかどにすすむから取りました」

「ほう、己の思うまま頂点目指して進まれるか。では私は唐の詩人李白に因んで桃青といたしましょう。」

「どちらが先に宗匠になれるか、競争でございますな」

「これ、源助。口が過ぎるぞ」

 父親の叱責にも悪びれることなく源助は口を開けて笑った。その無邪気な笑顔を見て宗房の顔にも笑みが浮かんだ……


「ショウ君?」

 誰かが自分を呼ぶ声で我に返った。目の前には先ほどの女性の顔がある。

「ちょっと、そんなに見詰めちゃってどうしたの。もしかして、あたしに惚れちゃった?」

「ショウ君!」

 同じ声だが、なぜだか怒気がこもっている。左横を見るとコトがいた。呼びかけていたのは彼女だったようだ。

「どうしたの急に黙りこくって。心配かけさせないでくれる」

 コトの言葉は無視して、僕は目の前の女性を見る。やはり別の人影が重なって見えている。

「あの、其角さんですよね」

「あら、わかるの?」

「さすがにこれだけ言霊の力が強いと、ショウにも見えるみたいですね」

 先輩はいつの間にか僕の右横に立っていた。女性から目を離して先輩を見る。目の中に微かに人影が見え、それは大きくなって先輩の姿と重なった。ただその影は其角と違ってかなり薄い。今度は左のコトを見た。先輩よりも濃く尼僧の影が見える。どうやら其角によって、言霊が見える能力を引き出されたようだ。

「そっか。じゃ、さっきのお見合いはあたしの美しさに見惚れていたんじゃなくて、さしずめ芭蕉の記憶にある其角の思い出でも見てたってとこかしらね」

 その女性はいかにも残念という顔つきで僕の前から離れると、椅子に腰掛けた。その姿には言霊の影はない。相手の目を見なければ言霊の影も見えないらしい。僕ら三人は座っている女性の周りに集まった。

「ねえ、それで、あたしの呼び方についてなんですけど、去来でライちゃん、芭蕉でショウちゃんでしょ。この方式でいくと、あたし、カクさんになっちゃうのよ。でもそれって、ご隠居様のお供をして旅をしているマッチョなお兄さんを思い出しちゃって、あたしみたいな女の子には不似合いでしょ、そう思わない?」

 いや、女の子って年じゃないでしょ、とツッコミたくなるのを我慢して僕は相槌を打つ。女性はうんうんと頷いて話を続ける。

「それでコトちゃんと同じ方式にして、あたしも其を訓読みにしてソノって呼んで欲しいんだけど、どうかな」

 別に呼び方などどうでもいいので僕は相槌を打つ。女性はまたもうんうんと頷いて更に他の二人を見る。「わかりました」「了解」との返答を得ると、女性は嬉しそうに手を打った。

「はーい、じゃ、私はこれからソノさんでーす。皆さん、よろしくー。あ、呼び捨てにしてもいいわよ。そっちの方が嬉しかったりして、うふふ」

 何から何までコトと反対だなあと思う。でもその方が意外と上手くいくかもしれない。少なくともソノさんは寿貞尼の言霊に対して目立った嫌悪感を示していないのだから。これならコトも居心地の悪さを感じることはないだろう。

「さ、お昼にしましょうか。ここ、本当はカフェテリア方式なんだけど、土曜日は定食しかないのよ。でも安くて量も多いから満足してもらえると思うわ」

 言葉の通り、学生食堂らしく値段の割りに食べ応えがあった。それから僕たちは食事をしながら話をした。

「こうして改めて会ってみると、やっぱりソノさんは其角の宿り手にぴったりかなあ、なんて思いますよ」

「なあに、ライちゃん、それ、どういう意味?」

 どちらかと言えば女性が苦手な先輩も、ソノさんとは気が合うようだ。昔からの友人みたいに向かい合って話をしている。

「ほら、其角って結構、イジられキャラじゃないですか。確か、芭蕉さんとの小話で、えっと……」

「赤トンボと唐辛子の話でしょう」

 先輩の言葉を継いでコトが話に加わる。

「そうそう、真面目じゃないけど憎めない、みたいな所がソノさんっぽいかなあって思うんですよ」

「ライちゃん、それ、褒めてないでしょ。でも、まあ、認めるわ。私も芭蕉よりは其角のほうが好きだしね」

 楽しそうに話す三人の片隅で、僕は完全に蚊帳の外だった。まるで会話についていけない。仲間はずれになっているようで、そこはかとない寂しさを感じた僕は、それとなくコトに訊いた。

「あの、コトさん、赤トンボの話って何?」

 僕の言葉にコトの目の色が悪戯っぽい輝きに変わった。しまった、何を血迷ってこんな馬鹿な質問を、しかもコトに……と思った時はもう遅かった。

「あら、やだ。今週はずっと図書室に通って読書に精を出していたのに、こんな話も知らないなんて。もしかしてショウ君が読んでいたのは俳句じゃなくて別の本だったのかしら。それとも本当の目的は美人の司書さんだった、とか?」

 相変わらずの毒舌爆発である。ただいつもよりマイルドに感じるのは初対面のソノさんに対しての遠慮なのかもしれない。

「うん、あの司書さんは綺麗だよな」

「先輩まで、何を言ってるんですか」

「ホラホラ、コトちゃんもライちゃんも、あんまりいじめちゃショウちゃんが可哀想でしょ。赤とんぼの話ってのはね、ある秋の日、赤とんぼが飛んできたのを見た其角が、『赤とんぼ羽をむしれば唐辛子』って句を詠んだのよ。それを聞いた芭蕉が、『羽をむしれば死んでしまう、唐辛子羽をつければ赤とんぼ、と詠みなさい』って其角を諭したお話。知らないかな、割りと有名なのよ」

「すみません、初耳です。全くの勉強不足でした」

 勿論、この言葉の後に『でもね、こっちは全くの初心者。芭蕉の勉強で手一杯で、とても其角まで手が回らないんです』と、続けたくなった僕ではあったが、言い訳がましくなるので、ここはぐっと我慢した。

「別に知らなくても構わんさ、ショウ。作り話に決まってるからな。いくら其角だってこんな間抜けな句は詠まんだろう。こんな小話を作っちまうくらい、当事の江戸っ子は其角が好きだったって事さ。な。」

 言い終わると同時に、先輩のでかい手が背中にぶち当てられた。久し振りの一撃に僕の背中が嬉しい悲鳴をあげる。

「そうね、ライちゃんの言う通りね。でも、あたしはこの二つの句、どちらがいいかなんて決められないと思ってるのよ」

 ソノさんの顔から今までの和やかさが消えて、少し真面目な表情になった。

「文字数は同じ、使っている言葉もほとんど同じ、意味する内容もほとんど同じ。それなのに、一方は悲劇的で一方は喜劇的。この違いは作品に込められる作者の想いの違いなのよ。悲劇は悪くて喜劇は良いなんて言えないでしょ。赤とんぼが唐辛子になる悲しみを描きたいなら、前者の作品になるし、飛びたいと願っていた唐辛子が羽を得て飛べるようになるほのぼのファンタジーを描きたいなら後者になる。どちらも意味のある作品だと思うのよ。俳句は文字数が限定され、切れ字や季語など使う言葉も限定され、ガチガチのテンプレートに固められながらも、それでも新しい作品が次々と生まれている。それは詠む作者の想いが百人百様だから。俳句に限らず、小説も音楽も絵画も、似たような作品ばかりが氾濫してしまうことだってあるけど、そこに込められた作者の想いだけは絶対に違っているはず。そしてその想いが味わえないのなら、芸術を楽しむことは絶対にできない、そんな風に思うわ」

 ソノさんに対して抱いていた僕の第一印象はすっかり吹き飛んでしまった。外見は軽そうに見えても、その内面は僕なんか比べ物にならないほどの深遠さを持った人だったのだ。恐らく先輩やコトも同様だったのだろう。僕たち三人はしばらく何も言えなかった。

「さ、さすがは文学部ですね。お見それしました。はは~」

 沈黙を破った先輩が恭しい仕草で頭を机に押し付けた。ソノさんが笑う。

「エッヘン。少しは見直したかな、去来殿」

「兄弟子の其角殿には頭が上がりませぬ」

 二人を見ていると、なんだかお似合いのコンビだなあと思う。実際の其角と去来もこんな感じだったのかもしれないな。

「あの、ソノさんは四年生ですから、卒論がありますよね。もしよかったら、その話も聞かせていただけませんか」

 今のソノさんの話を聞いて興味が湧いたのだろう、コトがソノさんに少し遠慮がちにお願いした。途端にソノさんの顔が曇った。

「いや~ん、コトちゃん、それは禁句よ。どれだけそれに苦しめられていることか。実はね、今日も午前中は卒論ゼミがあったのよ。土曜日にゼミなんて、担当教員、頑張りすぎよね。イヤんなっちゃう」

 今度は僕が訊く。

「卒論のテーマはやっぱり俳諧ですか」

「そうよ。仮のテーマは蕉風とその時代。なかなかはかどらなくてねー」

「でも、其角の言霊を持っているんだから随分便利なんじゃないですか。その時代の事とかも、よくわかるでしょう」

「あら、そう思う?」

 ソノさんの意外な問い掛けに僕は少々困惑してしまった。言霊とはそれほど意思疎通はできていないのだろうか。

「違うんですか?」

「そうねぇ、例えば、ショウちゃん、平成の歴代の首相の名前って言える?」

「え、それは、急に言われても」

「そうでしょ。これだけマスメディアが発達した現代でも、自分とはあまり関係ない世の中のことなんて、そうそう記憶なんてしていないものなのよ。江戸時代だったら尚更。其角が覚えていることなんて、あそこの飯屋の酒は不味いとか、どこそこの家の娘は器量よしとか、そんな役に立たないことばっかりよ」

「うん、それは確かにそうだな」と先輩。

「同じく」とコト。

「それに芭蕉さんはひとつの句を何度も推敲して練り上げていったけど、其角は即興句が多いのよ。それも酒に酔っ払って、どうとでも解釈できると自分自身わかっていて詠んだ句だってあるわ。この句は其角の戯言です、なんて正直に書いても論文にはならないでしょ。酩酊して詠んだ句をああでもないこうでもないって議論している現代人を其角は面白がっているでしょうね、きっと」

 そんなものかなと僕は思う。ソノさんの推論は少々突飛過ぎるけれど、本人が何気なく詠んだ句に思いも寄らぬ解釈を施されることはよくあることなのだろう。

「さてと、食事も終わったし、皆さん、これからどうしますかー。大学キャンパスでも案内してあげよっか」

「あ、あの」

 大学見学も興味があるが、今日ここに来た僕の第一の目的は芭蕉の言霊の片鱗を集めることだ。第一の高弟と言われた其角ならば、必ず芭蕉から何か預かっているはずだ。

「ソノさん、一緒に吟詠境に入ってくれませんか?」

「あら、どうして。其角の姿でも見たいのかな。はっきり言って、ただの中年のおじさんよ」

 言霊の片鱗についてソノさんは何も聞いていないようだ。さすがに先輩もそこまで詳しい説明はしていないのだろう。僕は去来から貰った旅装束やその時の去来の言葉を簡単に説明した。ソノさんは納得してくれたようだった。

「オッケー。それなら食器を片付けて、コーヒーでも飲みながら行っちゃいましょうか。人もほとんどいないからここでも大丈夫かな。あ、もちろん、ライちゃんとコトちゃんも来るよね」

 これまでの宿り手とは全然違う、この軽さは何だろう。いや、吟詠境とは元々このような気軽で楽しいものであったのだろう。全てはそれを開く言霊次第なのだ。其角と共に体験する吟詠境はこれまでとは一風変わったものになるかもしれない、そんな期待で胸がワクワクしてくる。

 僕らは食器を片付けると自販機でそれぞれの飲料を買った。ソノさんと先輩はコーヒー、コトは紅茶、僕はオレンジジュース。ジュースを飲んでいる僕を見て、ソノさんがからかう。

「あら、ショウちゃんは食後にそんな甘いの飲むんだ。お子ちゃまね」

「ショウは小さい頃からミカンが好きだったからなあ」

「二人共、僕の好みなんかどうでもいいでしょ。そんなことより早く入りましょうよ」

 ソノさんは笑いながら飲みかけのカップをテーブルに置いた。僕たち三人はソノさんの正面に座った。吟詠境に入る発句を詠む時、詠み手の目を見てそれぞれの言霊を感じながら詠んだ方がスムーズに入れる。僕らはソノさんをじっと見詰めて発句を待った。が、三人に見詰められて恥ずかしくなったのか、ソノさんは急にもじもじし始めた。

「やだっ。若い子たちにそんな風に見詰められると、少し興奮しちゃうわね」

「もう、いいから早く詠んで下さい」

 僕が急かすと、ソノさんは不満な顔をして口を尖らせた。

「う~ん、ショウちゃんいけずなんだから。せっかちな男子は女子に嫌われちゃうぞ。仕方ないわね、それじゃ行きまーす、何を詠もうかな~……あ、あれにしよっと」

 急にソノさんの眼光が険しくなった。その瞳の中に先ほど見た言霊の影が浮かび上がった。その影が宿り手の姿に重なった時、

「夕立や田をみめぐりの神ならば」

 ソノさんの声とは思われぬ声で発句が詠まれた。僕の中の言霊はすぐに反応して同じ句を詠んでいた。

「夕立や田をみめぐりの神ならば……」

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