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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
六 花は散れども想いは散らず
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去来の約束

「ライ先輩、これは一体……」

 吟詠境から出たライの目に最初に映ったのは、父つぁんに抱かれたショウの姿だった。ひどくやつれて見える顔は青ざめ、目を覚ます気配はない。ライに続いてソノとセツ、そしてリクも目を開けた、皆、何も言わず暗い顔するばかりだ。

「丈草の気配が消えたわ。そして芭蕉の気配も。今居るのは……小柄と同じ言霊」

 コトがつぶやいた。吟詠境から芭蕉が消えると同時に、その片鱗である寿貞尼も消えた。コトにはそれ以降に何が起こったのか、詳しくはわからない。だが、ショウから感じる言霊の気配と四人の暗い表情から、ただならぬ事態が起こっていることだけは理解できた。

「丈草さん、芭蕉さんの言い付けを守って墓誌から離れたのね。ねえ、コトちゃん、詳しい事は後で話すわ。それよりも心配なのはショウちゃんよ。このままにしてはおけないわ」

「そうだな。寺の住職に少し休ませてもらえないか頼んでみよう」

 ライの提案で父つぁんがショウを背負い、八人は墓地を出た。庫裏に居た住職は気を失っているショウに驚き、ライの申し出を快く聞き入れてくれた。

「以前は大学や高校の運動部の合宿を引き受けていたこともあるのです。遠慮せずしばらく休んでいきなさい」

 ショウは二間続きの部屋に布団を敷いて寝かせられた。父つぁんやモリは詳しい事情はわからぬものの、ショウの身に良からぬ事が起きているのだけはわかっているようだった。

「みなさん、すみません……」

 ショウを寝かせてひと段落すると、セツはそう言って頭を下げた。

「今度のこと、悪いのは嵐雪だけではありません。私もまた気づくべきでした。コトさんに問われて、嵐雪が芭蕉の出現を快く思っていない事を再確認した時に、もっとしっかり考えるべきでした。そうしてさえいれば……」

 いつもの自信たっぷりな態度はすっかり影を潜めていた。勿論、そんなセツを責める者は一人も居なかった。言霊本人が気づけぬ事を宿り手が気づけるはずもない。それに大事なのはこれまでの事よりこれからの事だ。この事態をどう切り抜けるか、今はそれを第一に考えるべきだ。皆にそう言われて、セツもようやく元気を取り戻した。

 それから七人はショウの横で車座になって話し合った。コトには先程の吟詠境での出来事を話し、セツにはこれまで話していなかった事を全て打ち明けて今後の対策を練った。

 宗鑑に対してほとんど共感を持たないショウが、吟詠境で宗鑑の意識と姿を現しているのは、共感を超える力を発揮させられているからだ。その為にショウは自分の体力と気力を消耗させられている。ショウに宿る宗鑑を一刻も早く消し去りたい、これが全員の希望だった。

 だがその方策が見つからない。説得で追い出すのは最早不可能だ。戦って倒すにしても、四人の門人だけでは宗鑑に敵わぬことは、四人とも自覚していた。少なくとも芭蕉と寿貞尼が戦線に加わらねば勝ち目はない。やはり芭蕉が次の宿り手を見つけるまで待つしかない、無闇に吟詠境を開けばショウの体力を消耗するだけだ、そんな結論に傾きかけた時、セツが待ったをかけた。

「いや、それは駄目です。忘れたのですか、宗鑑は黒姫の業を持っているのですよ」

 このセツの言葉にその場の空気が重くなった。生物の生命力を己の力に変える、冬の女神、黒姫の業。

「この業は吟詠境に入る事なく発動します。ライさんが小柄を握った時もそうだったでしょう。今のショウ君も同じです。例え吟詠境に行かずとも、宗鑑は宿り手の生命力を自分の言霊の力に変えられるのです」

 ライは眠り続けるショウを見た。セツの言葉の通りなら、今こうしている間も、ショウの生命力は宗鑑によって奪われている可能性がある。

「嵐雪は宗鑑を宿して初めてその無慈悲さに気づきました。彼は宿り手を力を得る為の道具としてしか見ていません。ショウ君の命を全て自分の力にしてしまったら、すぐに見捨てて別の宿り手に乗り換えるでしょう。でも、そうなったら宗鑑と吟詠境で相見える事は更に難しくなります。私達がおいそれと近づけないような人物に宿ってしまったとしたら尚更です。今の好機を逃したら二度と決着をつけられないかも知れません」

 ライもソノもセツの主張はよく理解できた。今ここで直ちに宗鑑を倒すのが一番いいのはわかっている。だが、その手立てがないのだ。現し身を詠まれれば一切の手出しができなくなる、それはセツもわかっているはずだった。

「ねえ、セツちゃん、ひとつ訊いていい」

「何ですか、ソノさん」

「宗鑑を宿した嵐雪は、どうやって宗鑑を葬り去る積もりだったのかしら」

 セツにとっては予想もしない質問だったのだろう、いつも即答するセツも、この時ばかりはすぐには答えなかった。が、やがて重々しい声で言った。

「嵐雪は……彼は宗鑑を道連れにしようとしたのです。自分の命を絶つことで宗鑑をも葬り去ろうとしたのです。しかし、それはもう芭蕉に見抜かれていました。そして嵐雪の身代わりとなって、芭蕉が命を落とした……」

 再び座は沈黙に包まれた。言霊の宿り手より遥かに強大な力を持つ言霊の俳諧師。だが、その力を以ってしても相打ちという選択肢しかなかったのだ。やはり自分たちにできる事は何もないのかも知れない、そんな雰囲気が漂い始めた時、これまで黙って成り行きを見守っていたコトが口を開いた。

「ね、宗鑑を倒すのは無理でも、ショウ君から宗鑑を追い出すことはできるのじゃないかしら」

「コトさん、何かいい方法があるのか」

 藁にもすがるような心持ちで尋ねるライに、コトは、はっきりとした声で言った。

「封じるのよ、封印詠で」

「確かに封じれば追い出せるけど、封印詠を使えるのは芭蕉だけだ。芭蕉の宿り手が現れるまで待つってことかい」

「いいえ、封印詠を使える言霊はここにいるわ、杜国よ」

 一斉にモリの顔に一同の視線が集まった。モリは恥ずかしそうに顔を伏せた。

「コトさん、どうして杜国が封印詠を使えると言えるんだい」

「以前、吟詠境で対した時、杜国は言ったのよ。これが最初の宿り手だって。杜国は三百年以上も前に言霊になった。その間、誰にも宿らなかったら幾ら杜国でも力が尽きてしまう。杜国はその間、封じられた状態で過ごしたとしか考えられないわ。でも、杜国は最後に京で別れてから芭蕉とは会っていない、つまり杜国を封じたのは芭蕉ではない、とすれば」

「自分で封じて言霊になった、そういうことか、コトさん」

「そうよ、杜国は封印詠を使えるのよ」

 ライの顔が輝いた。セツも同意するように頷いた。

「それは良い手です。封じれば数百年は出て来られないはず。今、私達が倒せなくても、数百年後の宿り手達が何とかしてくれるでしょう。うん、それなら私も賛成です」

 場の空気は一気に明るくなった。宗鑑を封じることは根本的な解決ではないし、決着は更に先に延びることになる。だが今の最重要課題は如何にしてショウを救うかである。八方塞がりの状況ではこれ以外の道はないように思われた。すっかり意見がまとまったところで、ソノが明るい声を上げる。

「よーし、じゃあ私が行って杜国を連れてきてあげるわ」

「いや、俺が行こう。其角が行くとまとまる話もまとまらなくなる」

 ライにそう言われてソノは舌を出した。セツが不安げな顔でライを見る。

「ライさん、一人で大丈夫ですか。相手はあの杜国、返り討ちに遭わないとも限りません。私も一緒に行きましょうか」

「ありがとう、セツ。でもこれは戦いじゃない、交渉だ。向こうが一人ならこちらも一人で対するのが礼儀だろう」

 ライはモリに向き合うとその手を取った。モリの体が緊張で固くなる。

「モリゾウ、聞いての通りだ。俺は今から杜国に会いに吟詠境へ行く。杜国を説得するのは難しいかも知れんが、彼は宿り手に忠義を尽くす言霊だ。モリゾウは吟詠境が開いている間、ショウを救うことだけを考えてくれ。そうすればその想いを叶えようとして、杜国の心も動くだろう、いや動かしてみせる」

 モリはライの手を強く握り返すと、大きく頷いた。

「わかりました。ライさんが行っている間、ショウ君のことだけを想い続けています」

 ライは杜国が封じられている吟詠境の発句を心の中で詠みながら、モリの瞳を見詰めた。岬の風景、そこに立つ古びた一軒の屋敷、封印詠の発句が書かれた戸板、そして、その奥の暗がりに杜国が座っている。杜国がこちらに気づいた。発句を詠むライに声を合わせて杜国も同じ発句を詠むと、たちまち吟詠境が開かれた。


 去来の前に建つ屋敷はかげろうの様に揺らいで見えた。屋敷全体で吟詠境から独立した空間を作り出しているからだ。去来は右手を戸板の発句の文字に重ね「破封!」と叫ぶ。取り巻いていたかげろうは消え、元の古びた屋敷に戻った。これで吟詠境から独立していた空間は消滅し、封も解けたはずだ。

 去来は腰に帯びた大小の刀を地に置くと、戸板を外して中に入った。屋敷の隅で杜国が目を閉じて正座をしている。そのまま待つことしばらく、目を開けた杜国が去来に気づいた。

「これは去来殿。失礼、宿り手の記憶を読んでおりました。封印されている間、瞑想に耽っておりましたもので」

「宿り手の記憶を読んだのならば、わしがここに来た理由は既におわかりであろう。芭蕉翁が消え、宗鑑殿が現れたのだ」

「言霊繋離詠、宗鑑殿は恐るべき復讐の業を使われたのですね」

「ご存知か、杜国殿」

「己を破った相手が宿り身の業で言霊になっているならば、言葉に還すだけ。しかしまだその業を使っていない言霊の俳諧師が相手の時は、生身の体を絶命させて強引に宿り身の業を発動させ、言霊を言葉に送り込むのです。宗鑑も恐らくはそれを狙っていたのでしょう」

 杜国は長らく座っていたのだろう、固くなった体を解す様な仕草をして立ち上がると、そのまま戸口から外に出た。去来も後に続く。昼の日差しの眩しさに目を細めながら杜国は言う。

「私に宗鑑殿を封じて欲しいのですね」

 いきなり本心を突かれて去来は狼狽した。が、むしろその方が話は早い。杜国に頭を下げ懇願する。

「杜国殿、一度はそなたを封じておきながら、この様な申し出は虫が良すぎると重々承知の上でのお願いだ。何卒我らに力を貸してくださらぬか」

「私は既に蕉門とは何の縁もありません。何故そこまで義理立てせねばならないのですか」

「蕉門とは関係なく一人の人間を救っていただきたいのだ。そなたの宿り手もそれを望んでいるはず」

「そうですね、我が宿り手は今も同じ想いを抱いておりますから。しかし、救いたいという想いは、一般的な憐れみの感情に過ぎません。苦しんでいる人がいれば誰でも救ってあげたいと願う、その程度の想いです。我が宿り手だけが特別に抱く想いではありません、故に私が手を貸す理由にもなりません」

 杜国の言葉に去来は返す言葉がなかった。如何に杜国といえども宗鑑は手強い相手に違いない。余程の理由がなければ動けぬのも道理であった。だが去来とてここで引き下がる訳にはいかないのだ。

「杜国殿、そなたは今でも芭蕉翁を恨んでおるやも知れぬ。が、芭蕉翁は一度たりとてそなたを疎んじられたことはなかったのだぞ」

「俄かにその様な話をされても、信じられるはずもありません」

 冷たく一蹴する杜国の手を取ると、去来は自分の胸に当てた。

「ならば杜国殿、これから一冊の書をお見せしよう。それを読めば我が言葉の正しさをわかってもらえよう」

 去来は目を閉じ芭蕉の発句を詠んだ。

「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」

 去来の胸の上、杜国の手の下に和本が現れた。嵯峨日記と書かれた表紙に杜国は見覚えはない。が、その表紙を開いてもいないのに和本の内容が、言葉ではなく情景となって自然と頭の中へ入ってくる。杜国もまた目を閉じた。しばらくして、何事にも動じぬ杜国の能面のような顔に、不意に驚きの色が浮かび、やがて戦慄きへと変わっていった。

「芭蕉翁が、まさか……」

 狼狽する杜国。その頭の中に浮かびあがった情景は、杜国を夢に見て目覚めた芭蕉であった。去来は震える杜国の手を和本から離すと、それを懐に納めた。杜国の戦慄きは手だけでなく体全体に広がっている。

「そなたの死の翌年、我が草庵、嵯峨野の落柿舎に滞在された時の芭蕉翁だ。おわかりか、翁はそなたを夢に見て涙を流されたのだぞ」

「芭蕉翁が私の為に泣かれた、と」

 和本によって描かれた涙する芭蕉の姿は、杜国にとっては衝撃であった。自分もまた芭蕉を想って涙することが一度ではなかったからである。では翁も私と同じ想いを……

「杜国殿、如何に芭蕉翁がそなたを想っても、一門の宗匠となられたからには、己の心を律して行動せねばならぬ。それがそなたにとっては辛く思えることもあっただろう。だが芭蕉翁もまた、そなた同様苦しんでおられたのだ。そのお心、汲んではもらえぬか」

 去来の言葉は杜国の蕉門へのわだかまりを少しずつ解かしていった。越人を伴って初めてここに会いに来てくれた芭蕉、その姿が杜国の脳裏に鮮やかに蘇った。そしてそれを素直に喜べたあの頃の自分も。

「去来殿、生きているうちにあなたと吟詠境に行っていれば、この杜国も道を踏み外さずに済んだかもしれません」

「おお、では」

「蕉門への恨みは消えました。しかし、それと宗鑑を封じるのとは別の話です。私はあの少年には何の義理もないのですから」

 杜国はあくまでも冷淡無情であった。その冷ややかな瞳は去来に新たな決断を迫っていた。

「無論、ただでとは申さぬ」

 悲愴な覚悟を以って去来は杜国に言った。

「我が望みを叶えてくれるなら、この去来の言霊の力、全てそなたにくれてやろう」

「言霊の力を、まことですか、去来殿」

 去来は両手を地に着けて頭を下げた。

「頼む、杜国殿。あの者を、ショウ殿を救ってやってくれ」

「何故です、宿り手でもない者の為に、何故そこまで己を犠牲にできるのですか」

「我が宿り手はショウ殿を助ける為なら命を捨てても構わぬとまで思っておる。その宿り手の想いを無為にはしたくないのだ。宿り手に忠義を尽くすそなたなら、わかるであろう」

「去来殿……」

 芭蕉より授かった言霊の力を己の目的の為に捨てようとするのは、門人としては許されざる行いだ。だがその禁を犯してまで、去来はあの者を救いたいのだ。我が宿り手の想い人たるあの少年を……杜国は己の前で地に伏している去来に手を差し伸べた。

「顔をお上げください、去来殿。この杜国、俳諧の祖である宗鑑殿に再び会ってみたくなりました」

 はっとして去来が顔を上げると、そこには笑みを浮かべた杜国の顔があった。

「ここに宗鑑殿を連れてきてください。それからの事は会ってから決めます」

「杜国殿……」

 去来は立ち上がると、杜国の両手を固く握り締めた。封じると約束してもらえた訳ではない。が、杜国がここまで心を開いてくれたことが去来には何より嬉しかった。去来は再会を約束して、戸口に置いた刀を腰に帯び挙句を詠んだ。この知らせを早く他の仲間に知らせたかった。

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