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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
六 花は散れども想いは散らず
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約定の業・言霊繋離詠

「嵐雪、貴様、何をしたのだ。言え、言わぬか」

 掴んだ胸倉を激しく揺さぶりながら、尚も嵐雪に詰め寄る其角。そこまで責められても嵐雪の目は虚ろだった。己が何をしたのか、何が起きたのか、それすらわかっていないようだった。

「嵐雪を責めるでないぞ、其角。奴にはあずかり知らぬことよ」

 宗鑑に声を掛けられて、其角は掴んでいた嵐雪を地に投げ飛ばすと、相手を睨みつけた。

「貴様、宗鑑なのであろう」

「いかにも」

 そこまで聞けば許六も黙ってはいない。

「芭蕉翁をどうされたのだ」

「安心せい、消えてはおらぬ。元の言葉に還ったまでの事。わしに宿り手を奪われてな」

 己の宗匠を軽んじる宗鑑の口調に、其角と許六の怒りは頂点に達した。一度ならず二度までも宗匠から引き離された屈辱、今こそ晴らすべし。許六は季の詞を発した。

「槍遣初!」

 許六の手に鎌十文字槍が現れた。其角もまた両手を組む。

「我ら宗匠の仇、今こそ討たん」

「待たれよ、二人共」

 止めに入ったのは去来だった。闘志みなぎる二人の前に立ち塞がり、暴れ馬を諌めるように穏やかな声で言う。

「仮にも相手は俳諧の祖たるお方ぞ。先ずは話を聞こうではないか」

 言葉とは裏腹に去来の目は怒りに燃えていた。宗鑑への憎悪は、決して二人に劣ってはいない。しかし数日前、蕪村が現れた時、芭蕉はショウの口を借りて闘うなと命じた。今はその時と同じ門人、いや、ショウが居ないのでその時よりも戦力は劣っている。ここは争わずに切り抜けるのが得策、去来はそう考えたのだ。

「ほう、蕉門にも話のわかる門人が居ると見える」

 去来に制せられた其角と許六は、それでも敵意の籠もった眼差しで宗鑑を睨みつける。去来は己の心を静めるようにゆっくりと尋ねた。

「宗鑑殿、嵐雪殿に何をしたのか、そして、何故芭蕉翁が消え、貴殿が現れたのか、説明してくださらぬか」

「簡単な話だ。言霊繋離詠、言霊と宿り手を繋ぎ離す業。嵐雪には約定の業が掛けられていたのだ。それが発動したまでの事」

「言霊繋離詠……」

 つぶやきながら去来は其角を見る。其角は首を振る。

「知らぬのも無理はない。これまで一度も発動しなかった業なのだからな。わしが他の流派の俳諧師と事を構える時には、万一わしが敗れた時の為に、必ずその宿り手に掛けておく業だ。嵐雪よ、お主の眼力を以ってしても、己に掛けられた業を見破ることは出来なんだようじゃのう。わしを破った相手、その姿が再び吟詠境に現れた時、この業が発動する、そんな単純な事すら気づけなんだとはな。お主が抱くわしへの憎悪が、その眼力を曇らせていたのであろう」

「では、嵐雪は貴殿の業に操られていた、と」

「左様。わしを言葉に還した宗房が吟詠境に現れた時、掛けられていた嵐雪の約定の業が発動した。嵐雪の詠唱により、宗房は宿り手との繋がりを断たれて、かつてのわしと同じく元の言葉に還され、代わりにわしがこの宿り手と繋がった。それだけの事よ」

 嵐雪は両手を地に着けて宗鑑の話を聞いていた。宗鑑が宿ったのは今から三百年以上も前。その間、そのような業が掛けられていたことに気づけなかった自分の不明、最早、言い逃れも出来ぬ大罪である。しかも己は芭蕉の出現に名状し難い忌避感を覚えていたのだ。その理由を深く考え抜けば、この事態は避けられたのかも知れない。そう考えると、愚かな己を叩きのめしたくなるような怒りと悔しさが身の内に渦巻くのだった。

 芭蕉消失と宗鑑出現の理由がようやく飲み込めた去来は再び宗鑑に向かう。

「では宗鑑殿、お願いだ。その者から離れてはくれぬか。望み通りに芭蕉翁を宿り手から引き離し元の言葉に還した今、宗鑑殿がその者に留まる理由はなかろう。宿り手としてもっと相応しい者を探されては如何かな」

「ふふ、さすがは去来、口が達者だな。確かにこの宿り手は小者すぎる、わしもそう思っておった。だがこうして宿り、その記憶を読んでようやくわかったわ。何故、宗房がこの者を宿り手に選んだか。現し世の業を耐え抜いたこの者の素質、去来、お主が気づいておらぬとは言わせぬぞ」

 ショウから宗鑑を追い出し、争うことなく吟詠境を閉じる、それが去来が目指すこの場の最高の収め方だった。そして、己の言葉に唯々諾々と従ってくれるほど、宗鑑が甘い男でないことも去来にはわかっていた。宗鑑の反論を受けて去来も次の言葉を返す。

「確かに宗鑑殿の言葉通り。が、それはあくまでも素質。現状は、やはり小者にすぎませぬ。再び蕪村殿に戻られる事こそ、今の宗鑑殿にとっては最良の選択かと」

「蕪村か。わしも最初は驚かされたわ。まさか今の世に言霊の俳諧師がおろうとはな。封が解けるまでその存在に気づくこともできなんだ。しかし、騙されたわ」

「騙された、とは?」

「蕪村が使っていたのは言霊隠しの業ではない。言霊封じの業よ。あれだけ完全に言霊の力を封じる俳諧師を、わしは見た事がない。それは一種の牢獄。わしは蕪村の中に幽閉されているに等しい状態であった。しかも奴はわしが残した言霊の片鱗を探し求め、自分の生命力に変えていた。のみならず、わしの言霊の力すら生命力に変えていたのだ。わしの黒姫の業をも上回る、奴の逆宿り身の業……もし嵐雪の約定の業が発動しなければ、わしは奴の中で朽ちていたかも知れぬな」

 宗鑑が語る蕪村の真の姿は驚きであると共に、大きな安堵を去来に感じさせていた。やはり蕪村は我ら蕉門の味方であったのだ。宗鑑の意に屈したわけではなかったのだ。己の思惑が外れた事に去来はむしろ喜びを感じていた。しかし、これでは宗鑑は再び蕪村に宿ることは有り得ない。ショウから追い出すための新たな理由が必要だ。去来は頭を巡らし何か良い方策はないかと考えた。

 考えあぐねる去来を愉快そうに眺める宗鑑。その顔には大胆不敵な笑みが浮かんでいる。やはり事を構えねばこの場は収まらぬか、去来がそう思い始めた時、宗鑑が意外な言葉を吐いた。

「去来よ、わしはもう蕉門に対して何の敵意も持ってはおらぬ」

 去来の眉間に皺が寄った。宗鑑の言葉とは到底思えなかった。何か裏があるのではないか、疑心暗鬼の眼差しで訊き返す。

「敵意がなければ、我らとどうされるお積もりなのか」

「わしと手を組まぬか、蕉門の方々よ」

 それもまた去来にとっては信じ難い言葉であった。其角と許六も愚弄されたと言わんばかりの表情になっている。

「手を組むとは、どのような意味か、宗鑑」

「そう激するな、其角よ。多くの門人を謀り、宗匠を死に追いやったわしを憎む気持ちはわかる。だが、それは数百年も前の話だ。今に至るまで残っている言霊は僅かに過ぎぬ。互いにいがみ合っても仕方あるまい。言霊同士、手を組む時ではないかと言っておるのだ。我が望みを叶える為にな」

「望み……ならば聞かせてくれまいか、宗鑑殿の望みとはどのようなものなのか」

 去来は今一度、彼らの前に立つ宗鑑を見詰めた。月明かに照らし出された姿形は僧侶にすぎぬが、瞳には武士の如き不屈の意志がみなぎっている。その鋭い眼差しで四人を眺めながら、宗鑑は話し始めた。

「宗房に封じられて三百年以上もの間、わしは封の中からこの国を見続けていた。蕉門の方々よ、お主らは今のこの国をどう思っておる。この国の人々に何を感じておる。我らの時代とは変わりすぎたこの国とこの国の人々。これは本当に我らの国か、我らが愛した大和の国なのか。食べる物も着る物も住まいも暦も、そして言葉さえも異国の物になってしまったこの国は、もはや我らの国ではない。そのような国に住む人々が、我らの言葉に共感などできようはずもない。そうであろう、去来。お主が選んだ宿り手さえ、お主の力を全て発揮できる程には共感できておらぬのだ。このままでは我らの言葉はやがて忘れ去られよう。宿るべき宿り手すら見つけることも出来ず、我ら言霊は消え行くだけだ。そうなる前にわしはこの国の有り様を変える。正しき国の姿に戻す。我が言霊の業、繋離詠を使ってな」

 宗鑑の言葉は四人の心に響いた。口には出さぬが同じ想いを持っていたからである。四人は諦め、宗鑑は諦めていない、それだけの違いに過ぎなかった。しばらくの沈黙の後、去来が重い口を開いた。

「宗鑑殿、その志、わからぬでもないが、言霊の業でこの国とこの国の人々を変えられようか」

「去来、あの戦国の世を招いたのが我ら言霊の俳諧師達であったこと、忘れてはおるまいな。一万の兵を動かすのに一万の心を操る必要はない。その上に立つ将一人の心を動かせばそれで十分なのだ。この国の人々を見よ。己で考える事をせず、耳に心地よく響く他人の言葉を探し、それを己の言葉として語る。今のこの国の民を操ることなど造作もないではないか。数人の権威者の意識の中にある異国の言葉に嫌悪という言葉を繋ぎ、我らの言葉に親愛という言葉を繋ぐ、それだけでこの国は変わる。簡単な話よ」

「間違っております、宗鑑殿」

 それまで地に両手を着いてうな垂れていた嵐雪が、その身を起こして立ち上がった。

「何が間違っておると言うのだ、嵐雪」

 怪訝な顔でこちらを見る宗鑑を、嵐雪は澄んだ目で見詰めた。

「我らは既に過去の者、現世の仕組みに口を出す資格などあるはずもないのです。今の世は今を生きる人々の為のもの。彼らが今の生き方を、今の言葉を選んだのなら、例え我らにとって辛い結果しか招かぬとしても、やはりそれが正しいのです。我らの都合で今の世を変えるなど許されざる行いです」

「では、お主は我ら言霊が消え去るのも仕方なき事と申すのか」

「それが我らの宿命ならば甘んじて受け入れるのみ」

「うむ、嵐雪、よくぞ言うた」

 其角は嵐雪に近づきその肩に手を置く。去来と許六もまた嵐雪に歩み寄ると、宗鑑に向き合った。

「宗鑑殿、繋離詠はこの世に混乱を引き起こすだけの業ではないのかな。捻じ曲げられた人の心はやがて必ずひずみを生む。あの戦国の世もいたずらに人心を乱しただけであろう。新しき世の仕組みを作ろうとした信長公は志半ばで倒れ、結局は足利の世が徳川の世に変わったに過ぎぬ。今の世でも同じ結果となるに違いあるまい」

 四人を眺める宗鑑の顔に失望の色が浮かんだ。

「解せぬのう、これ程の業を持ちながら己の運命を変えようとせぬとは。ならば、蕉門の方々はあくまでわしには賛同できぬと申すのだな」

「左様。禁詠を使おうとする者あらば、それを止めるのが我らの使命」

「止められるかな、わしを」

「言わずとも知れておる。その者から離れぬとなれば、言霊の力を奪い尽くすのみ」

 其角は叫ぶと両手を組んだ。嵐雪も両手を組み、許六は槍を構えた。最早、宗鑑との争いは避けられぬ、去来も覚悟を決めると刀の柄を握った。宗鑑の顔に不敵な笑みが浮かんだ。

「お主らにはできぬ、この業がある限りはな。現し身!」

 四人の姿が一瞬にして変わった。ライ、セツ、ソノ、リク、そしてその四人の前に立つのは学生服を着たショウだ。

「さあ、我が言霊の力を奪ってみよ。この宿り手の命がどうなっても構わぬのならばな」

「うぬっ」

 スーツ姿の其角は両手を組んだまま何もできなかった。剣道着姿の去来の腰の刀は木刀に変わり、制服姿の嵐雪と、金属バットを持った許六は、ただ立ち尽くすしかなかった。現し身が発動した吟詠境で、宗鑑の強大な言霊の力を奪おうとすれば、奪い尽くす前にショウの命は尽きる。宗鑑を消す為にショウの命を犠牲にすることなど、彼ら四人には到底考えられないことだった。

「お主ら蕉門と相対するのに、これ程相応しい宿り手はおらぬ。さあ、我が体を傷つけてみよ、我が力を奪ってみよ」

 挑発的な宗鑑を去来は冷ややかに眺めた。そして静かな声で言った。

「其角殿、挙句を詠んでくだされ。ショウ殿の生身の体が気に掛かる。ここは一旦退くしかあるまい」

 本来は芭蕉同様、姿も意識もショウであるはずの吟詠境で、言霊の力を使うことにより宗鑑はその本体を出現させている。共感を超えた言霊の力の使用は、生身のショウの体力と気力を著しく減少させているはず、これ以上長引かせても何の益もない、去来はそう判断したのだ。其角は腸煮えくり返る悔しさを噛み締めながらも、去来の言葉に従うしかなかった。

「其角、挙句を申す。火も凍る息吐く雪女!」

 流れてきた雲が再び月を隠し、辺りは闇に包まれた。再び降り出したみぞれの中へ消えていく吟詠境に、ただ宗鑑の声だけが響いていた。蕉門の方々よ、わしはいつでも相手になるぞ……

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