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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
六 花は散れども想いは散らず
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丈草の数珠

 その影は薄れていた。存在しているとは思えぬ程に儚げな姿であった。六畳敷きの狭い庵の中に座る七人の顔を、ほのかな燈台の灯火が照らしだす。耳を澄ませば深夜に降るみぞれの音がシンシンと聞こえてくるようだった。庵の真ん中に座る影薄き年老いた僧は、彼を囲む六人に深々と頭を下げた。

「かような姿となった私を許していただきとうございます。そして芭蕉翁よりの預かり物すら、このような有様にしてしまった私を……」

 そう言って丈草は懐から数珠を取り出し畳の上に置いた。その数珠もまた丈草の体と同じく薄れ、輪郭すらぼやけている。

「丈草殿、御身に何が起こったのか、詳しく話してくださらぬか」

 それは去来だけでなく、丈草を取り巻く六人全員の言葉でもあった。丈草は顔を伏せたまま、話し始めた。

「芭蕉翁によって我が身に掛けられた封が解けた時、一人の娘が私の目に止まったのでございます。私の言葉を愛するその娘は、どことなく幼い時に亡くした私の実母に似ているようでした。そしてその娘もやはり病に苦しんでおりました。私はその娘に宿りました。程なく宿り手の知り合いであるこの寺の住職が、旧知の俳諧師、史邦ふみくに殿の言霊を宿していると知った私は、時折、吟詠境にて史邦殿と会しては、昔話に花を咲かせるようなこともしていたのでございます。やがて我が宿り手は嫁入りすることとなり、この地を離れました。その頃からでしょうか、宿り手の病は一層重くなり始めたのです。子を宿した時、産めば命に関わる程でしたが、それでも子を望む我が宿り手を、私はどうしても見捨てられませんでした。遂に私は宿り手の為に我が言霊の力を使う決断をしたのでございます。この言霊の業も力も芭蕉翁よりいただいたもの、それを宿り手の為に使うのは門人としてはあるまじき行いとは思えども、我が宿り手の悲しき決意を叶えさせてやりたいという私の想いは、無視するには余りに大きかったのでございます。私の言霊の力を命の力に変えて、我が宿り手は子を育て、しばらくは生き長らえました。が、病の影は日増しに強くなって参りました。共感から得る力を全て命の力に変えても、もはや宿り手を回復させることが叶わぬ程にまでなった時、実家で療養中の宿り手の元を史邦殿の宿り手が訪れたのです。私どもは久し振りに吟詠境で顔を合わせました。史邦殿はやつれた私の顔と、これまでの経緯を聞いて深く同情され、『ならば私の言霊の力をお使いなされ』と言われたのです。固辞する私に史邦殿は業を使われました。まさか、と私は思いました。私と芭蕉翁の他は数名のみが持ちうる、言霊の力を他者に与える業、その業を史邦殿も持っていたのです。己の全ての力を私に与えて史邦殿の言霊は消えていきました。その時ほど私は私のわがままを恨んだことはございません。幼馴染の友までも犠牲にした罪深い己を私は憎みました。この罪を贖う為に、我が宿り手の為にできるだけの事をしよう、私はそう心に決めました。史邦殿より授かった力は全て宿り手の命の力に変えました。それでも宿り手の命は一日一日と磨り減っていきました。同時に私の力も衰えていきます。そんなある日、思いも寄らぬことが起きたのでございます。芭蕉翁の預かり物である数珠が私の前に姿を現したのです。芭蕉翁の言霊がなければ姿を現さないはずの片鱗が何故……しかしその理由はすぐにわかりました。片鱗には約定の業が掛けられていたのです。片鱗を預けた言霊が消えればその片鱗も消えてしまいます。それ故、私の言霊の力が片鱗の持つ力よりも小さくなった時、片鱗は姿を現し私に力を与え始める、それがこの数珠に、いえ恐らくは全ての片鱗に掛けられた約定の業だったのです。それ程までに門人を思い遣る芭蕉翁のお気持ちに触れた時、私はようやく自分の使命に気づいたのでございます。この片鱗をお返しする為に私は言霊になったのではないか。このまま片鱗と共に消えてしまっては、芭蕉翁のご恩に報いることはできまい……私がこの宿り手から離れれば、宿り手の命が絶えるのはわかっていました。けれども己の使命に気づいた私には、もう選択の余地はありませんでした。私に力を与え続ける数珠は既にその姿が薄らぎ始めていたのです。せめてもの手向けに私は私自身の数珠を与えて、宿り手を離れました。ほどなく宿り手の命は絶えました。私は己の言葉に留まりながら、しかし、どうしても他の宿り手を探す気にはなれなかったのでございます。そして墓誌に私の発句が刻まれているのに気づくと、私はそこに宿りました。今は亡き我が宿り手との思い出に浸るための、ほんの一時の宿りのつもりでした。ところが私はそこで思いもかけぬ言霊の力を得ることになったのでございます。その墓にはかつての史邦殿の宿り手が毎日訪れ、墓誌に刻まれた我が発句を詠んでくれます。そしてその詠唱が私に言霊の力を与えてくれるのです。我が言霊の一部となった史邦殿の言霊を通して、私はその宿り手とささやかな繋がりを持っていたのです。そして我が発句に寄せる彼の共感が、私に言霊の力を与えてくれたのでした。私は再び史邦殿に感謝をしました。私が我が宿り手の墓に宿ることを見越し、かつての史邦殿の宿り手自身さえも気づけぬ意識の底に、毎日の墓参の義務を植えつけたのでしょう。以来、この数珠から授かる言霊の力と、毎日墓の前で我が発句を詠んでくれる、かつての史邦殿の宿り手から得られる共感の力だけを頼りに、丈草はこの身を長らえて参ったのでございます」

 丈草の話が終わっても誰も口を開こうとしなかった。これ程までに己を捨てて日々を過ごしてきた丈草に、掛ける言葉が思いつかなかったのだ。長く重い沈黙の後、ようやくショウが口を開いた。

「丈草さん、母の為にそこまで尽くしていただいてありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます」

 母を生き長らえさせる為に己の言霊の力を捧げ続けた丈草に、ショウは全身を震わされるほどの感動を覚えた。どれだけ言葉を尽くしてもこの感謝の気持ちを表すことはできまい、ショウは深く下げていた頭を上げ、力を込めて言った。

「今度は僕が丈草さんの力になります。僕は言霊の力を与える業を持っています」

 丈草の顔に笑みが浮かんだ。だが、それは悲しい笑みだった。

「芭蕉翁、いやショウ殿とお呼びすべきでしょうか。有難いお言葉にこの丈草、身が縮む思いでございます。されど、この数珠を元の姿に戻すのが先決かと思います。門人の皆様、お力をお貸しいただけますか」

 丈草の言葉に一同頷くと、各々数珠に手を触れた。丈草の業を用いて門人達の力を数珠に注げば、この消えかけた姿も元に戻る、それはショウにも理解できた。しかし、ショウは丈草の顔に浮かんだ悲愴な決意が気に掛かった。それは本復丹丸に力を込める時に見せた凡兆の表情と同じだった。ショウの手は数珠ではなく、丈草の手に重ねられた。

「ショウ殿、何を……」

「丈草さん、あなたは残っている自分の力の全てを、この数珠に注ごうとしている。言霊の力を使い切りその身を消し去るつもりなのでしょう。違いますか」

 ショウの手の平の下で丈草の手が僅かに震えた。そして答える丈草の声もまた震えていた。

「この数珠が、ショウ殿が求めておられる芭蕉翁の最後の言霊の片鱗であることはわかっております。身に着ければ、直ちに芭蕉翁は姿を現しましょう。しかし、私は芭蕉翁にお会いできません。賜った言霊の力を宿り手の為に使い、預かった言霊の片鱗の力を我が身の為に使ったのですから。このような恥ずべき振る舞いをした私がどうして芭蕉翁に顔を合わせることができましょうや。我が身を消し去ることでこの罪を償うしかないのです」

「それは許しません」

 ショウは丈草の手を握り締めた。熱い想いとは裏腹に、その手はみぞれのように冷え切っていた。

「宿願を果たす前に片鱗を預けた門人を失うことは、どんな理由があろうとも許さない、芭蕉さんも同じことを言うはずです。丈草さん、復元された数珠を受け取って芭蕉が姿を現し、この吟詠境が閉じられたら、直ちに墓誌を離れて自分の言葉に還り、相応しい宿り手を見つけてください。母への忠義にこれ以上縛られることはありません。芭蕉の宿り手ショウとして命じます」

「ショウ殿……わかりました。仰せのままに致します」

 丈草は頭を垂れた。ショウは握っていた手を離し、再びその手の平を丈草の手に静かに重ねた。そこから伝わるショウのぬくもりにかつての宿り手と同じ優しさを感じた丈草は、迷いを吹っ切る様に顔を上げ、俳諧師らしい威厳のある声で言った。

「では、方々よろしいか。丈草、発句を詠み上げる。ぬけがらに並びて死ぬる秋の蝉」

 数珠がほのかに光り始めた。一同は数珠に触れた手に力を込める。丈草が季の詞を発す。

「秋の蝉!」

 数珠の光が強くなる。ショウは数珠ではなく丈草の手に力を込めた。発句と季の詞だけで丈草の力はほとんど使い尽くされていた。にもかかわらず、丈草は更に数珠にも力を与えていた。直ちに言霊の力を与えねば丈草の存在自体が危うい状態であった。ショウはただひたすら、己の力を丈草に与え続けた。

 数珠が放つ光が一際大きく輝き、庵の内部を明るく照らした、と思った瞬間、その光はたちどころに消えてしまった。今はもう元の通りの、ほのかな燈台の灯火が照らす薄暗い庵である。そしてそこには一連一重の数珠がしっかりとした姿で置かれていた。

「丈草さん!」

 ショウが声を上げた。数珠とは違い、未だ影のように薄れたままの丈草。その体がゆっくり傾くと畳の上に横向けに倒れた。

「今の業で意識を失うほどに力を使われたのだろう」

 去来は丈草を仰向けに寝かせると、己の羽織を脱いでその体に掛けた。

「今はゆっくり休まれよ、丈草殿。それよりもショウ殿、数珠を」

 去来に言われ、ショウは畳の上の数珠に目を遣った。今はもう完全な姿となった数珠。丈草が命がけで渡し、そして自分が探し続けた言霊の片鱗の最後となる数珠。ショウはそれを手に取った。感じた。新たな力が身の内に湧き上がってくる。ショウは傍らの杖を手に取り立ち上がると庵の戸を開けた。みぞれはまだ降り続いている。

「寿貞、そなたの数珠も渡してくだされ」

 その声はもうショウではなかった。寿貞尼は自分の数珠を外すとショウに渡した。戸口の草履を履いてショウはみぞれの中へと歩き出す。他の五名もそれに従った。右手に杖を左手に二連の数珠を持ったショウは天を仰いだ。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

 降っていたみぞれが止み、雲が切れ始めた。切れた雲間から下弦の月が顔を出し、一面の荒野の外れに立つ庵と六人の姿を淡く照らす。ショウは地に杖を突き立てた。

「破れた風に飛ぶ寒雀」

 ショウの足元から一斉に雀が飛び立った。地中から湧き出るように何百羽という雀が次々現れ、けたたましい羽音を立てて飛び回りながら、ショウの姿を完全に覆い隠す。

「鳥帰る!」

 ショウの発する季の詞が吟詠境に響き渡った。雀たちは全て空へと飛び去り、その中から現れた姿は既にショウではなかった。意識も姿も、門人達が待ち望んでいた彼らの宗匠、芭蕉本人であった。

「おお、遂に芭蕉翁が」

 其角と去来、そして許六はすぐさまその元に駆け寄ると、濡れるのも厭わずに、ぬかるむ地面に片膝を着き、頭を下げた。

「うむ、門人の方々、手間を掛けた」

 寿貞尼は庵の戸口に手を掛けて芭蕉を見ていた。その目には涙が光っているようだった。

 不意に、嵐雪が覚束ない足取りで芭蕉に近づいた。その目はまるで遠くを見ている様に焦点が合っていない。

「嵐雪殿、いかがなされた」

 ただならぬ気配を感じて去来が尋ねても嵐雪の返事はない。やがて芭蕉の前に立った嵐雪は発句を詠んだ。

「寒くとも火になあたりそ雪仏」

 去来は我が目を疑った。嵐雪が詠み終わるや、目の前の芭蕉の姿が学生服を着たショウに変わったのだ。

「寿貞尼殿が!」

 許六が声を上げる。去来が庵の戸口に目を遣ると、そこに立っていたはずの寿貞尼の姿が消えてなくなっていた。

「寿貞尼殿が、消えた」

「嵐雪! 貴様、何の真似だ!」

 気色ばんだ其角が嵐雪の胸倉を掴む。が、嵐雪は構わずに季の詞を発す。

「雪仏!」

 戸惑った表情のショウの姿が揺らぎ、何かに覆われるように希薄になった。しかし、その姿はすぐさま別のものとなって現れた。そこに立っていたのは芭蕉でもショウでもなく、黒い法衣をまとった一人の老人。去来は息を飲んだ。

「ま、まさか、こんなことが……」

 ほんの数日前、桜の木の下に突然現れた言霊の俳諧師、蕪村。その体に宿っていた言霊。その老人はあの時見えた言霊の姿と同じだった。

「随分と手間取ったのではないか、蕉門の方々よ」

 不気味なまでにほくそ笑みながら四人を眺める老人、それは紛うことなく宗鑑であった。

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