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言霊の俳諧師  作者: 沢田和早
六 花は散れども想いは散らず
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母の墓

 その日の夕食は父と取った。今日の午前中まで頭の中の大部分を占めていた「国語の追試とその後の結果について」という項目はすっかり鳴りを潜め、現在は「最後の片鱗と丈草について」という極めて難解な項目が僕の頭を席捲している。

 食事中も上の空な僕に「一回の追試で、そうくよくよするな」と父が励ましの言葉を掛けてくれる。ポイントがずれてはいるけれど、そんな父の心遣いは素直に嬉しい。平日はほとんど顔を合わせない父と会話をするのは土日、しかもこうして食事を取る時くらいだ。やはり思い切って聞いてみよう、僕は箸を置いた。

「ね、父さん、母さんのことについて話してくれないかな」

「母さんのこと」

「うん、どんな人だったかとか、どうして一緒になったかとか、それから、どんな風に亡くなったか、とか」

 父は黙っていた。母の話題が父を苦しめるのは小さい頃からわかっていた。だから今まで聞かない様にしていたのだ。けれどもいつまでもそんな状態じゃいけないとも思う。それに最近は父も母の思い出を話し始めてきている。この話題の封印を解くいい機会かもしれない。しばらく黙っていた父はやがてポツリポツリと話し始めた。

「母さんか。これまでお前には余り話してやらなかったからな。小さい頃に亡くなったから、ほとんど記憶がないだろう。母さんが病気で亡くなったのは覚えているか?」

「うん、悲しくて泣いたことも覚えている」

「母さんは子供の頃から体が弱かったそうだ。一人娘だった母さんの両親は結婚に反対だったし、お前を産むのも反対だった。けれども母さんはそんな反対をことごとく撥ね退けた。向こうの両親からは、随分親不孝な娘に見えただろうな。お前が産まれる時も、産まれた後も、父さんはできるだけの協力はした。しかし、母さんの病気が重くなり、付き添いの看護が欠かせなくなると、仕事との板ばさみで、やむを得ず、母さんを実家に帰した。そしてそのまま亡くなった。父さんは死に目にも会えなかった。葬式に出ただけで、それ以来、母さんの実家と付き合いはない。お前を母さんの両親に会わせたこともない。父さんもまた親不孝な義理の息子と思われているだろう」

 母の話題を父が嫌っていた理由が何となくわかった。父の両親は早くに他界していたので、これまで祖父母に会うという経験は一度もなかった。母を不幸にしたのも、義理の両親の不幸も、そして僕の不幸さえ、その原因は自分自身にある、そんな想いを心に抱いて父は過ごしてきたのかも知れない。

「母さんの墓に一度だけ行ったことがある。大きな寺の墓地の片隅に小さな墓が立っていたよ。母さんの好きだったミカンが一つ供えられていた」

「そうなんだ」

 僕には母の思い出はほとんどなかった。写真も形見の品も父がほとんど整理してしまったらしく、母の面影すらはっきりと思い出せなかった。母の墓、それは今の僕が触れることのできる、たったひとつ残された母の想いのような気がした。

「ねえ、父さん、僕も墓参りに行ってもいいかな……」


 翌日、日曜日の行楽地へ向かう電車に僕は乗っていた。母の墓のある都市は大きな川のほとりに古城が立ち、近くには大型の遊園地もある、ちょっとした観光地だった。

 僕は父からもらった小さな紙片をもう一度取り出した。寺の住所と地図、母の墓を示した墓地の見取り図。昨晩わざわざ父に書いてもらったのだ。

「すまなかったな、今まで墓参りにも連れて行ってやれなくて」

 昨晩の父の言葉が頭をよぎる。いや、むしろ母の話題にほとんど触れなかったからこそ、母の居ない悲しみを感じずに済んだのではないか、とも思う。既に母を恋しく思うような年齢ではない今だからこそ、こうして冷静に受け止められるのだろう。やがて電車は目的の駅に着いた。

 駅からはバスで数十分揺られ、降りてからしばらく歩くと、目的の寺が見えてきた。手前に川、背後に山が迫るその寺は難攻不落の山城のような佇まいをしている。

 石段の先にある立派な山門をくぐって中へ入る。近くを流れる大きな川音が聞こえてきそうなほど静かな境内だ。休日とはいえ、観光名所でもない普通のお寺である、僕の他に人影はない。しばらく歩くと境内の外れに堀があり小橋が掛かっている。そこを渡ると墓地だった。

 父に貰った見取り図を頼りに探していくと、その墓はすぐに見つかった。母の旧姓が書かれた墓石。それほど古さを感じないので、母の為に新しく作られた物なのかも知れない。

「これが母さんの墓……」

 この中に母の遺骨が眠っている、そう思っても僕にはどれほどの感慨も湧いてはこなかった。義仲寺で芭蕉の墓を前にした時と同じように、故人の思い出が余りにも希薄すぎるせいだろう。花も線香も持参しなかった僕は墓の前にしゃがんで手を合わせた。

 誰が供えたのか、花立てには緑の葉を付けた一輪の白い花がこちらを見ていた。その花を眺めながら母と丈草を想う。何か手掛かりは掴めないだろうか、何か心に感じるもはないだろうか、そう思いながら、甘く爽やかな香りのするその花を、僕は眺め続けた。

 どれくらいそうしていただろうか。背後から声が聞こえた。

「おや、先客がおられましたか」

 振り向けば、そこに立っているのは年取ったお坊さんだった。手には供えられているのと同じ白い花を持っている。

「あなたがこの花を?」

 僕が尋ねると、

「はい、私はこの寺の住職です」

 と答える。

「どうして住職さんが僕の母のお墓にお参りを?」

 と再び問うと、少し驚いた顔を見せながら、

「そうですか、あなたがあの子の息子さんですか」

 と言い、僕の横にしゃがんで花を差し替える。

「その花は?」

「これは蜜柑の花です。蜜柑の好きな子でしたから」

 不思議だった、どうして寺の住職が僕の母をこれほど気に掛けてくれるのだろう。住職は僕の顔を見ると

「言われてみれば、あの子の面影がありますね」

 と笑顔になる。

「あの、住職さんは僕の母とどんな関係だったのですか。わざわざお墓参りをする理由が何かあるのですか?」

 僕は思い切って尋ねてみた。住職は一瞬当惑した表情を浮かべた。が、すぐに元の温和な顔に戻り、

「疑問に思われるのも無理はないですね。何からお話しましょうか」

 そう言いながら差し替えた白い花を眺めた。まるでその花に何か問うてでもいるかのように。

 墓地を取り囲む木々の葉がざわざわと鳴った。初夏の風に吹かれて、白い花は頷くように揺れる。甘い香りが僕らの周囲に漂う。住職は口を開いた。

「こんな話をしてもあなたには理解できないかもしれませんが、私もこの子も自分の中に一人の俳人を住まわせていたのです」

「言霊ですね」

 即答した僕の言葉はさすがに住職を驚かせたようだ。

「ご存知でしたか」

「はい、僕にも宿っているんです」

「そうでしたか。それならば話が早い。残念ながら私に宿っていた言霊はこの子が生きているうちに消えてしまいました。ですから、今の私には言霊の記憶はほとんどありません。何の言霊だったかさえ覚えていないのです」

 言霊が消えればその記憶も消える。文芸部の部長や凡兆を宿していた老医師と同じく、この住職もまた、同じ宿命から逃れることは出来なかったのだろう。

「けれども私と私の言霊は数十年も共に過ごしてきました。その間に私の中に蓄積された記憶は、忘れようとしても忘れられるものではありません。この子に言霊が宿っているのを知って、何度か一緒に吟詠境にも行っていたようです。この子が結婚してここを離れてからは、会うことはありませんでしたが、病がひどくなりこちらに戻って来た時、ほとんど寝たきりになってしまったあの子の枕元で、一度だけ吟詠境に行ったように覚えています。そしてその時、私の言霊は消えたのです。あの子が亡くなったのはそれから間もなくのことでした。この墓にこの子の名が刻まれてから、私は毎日ここにやって来るようになりました。理由はわからないのですが、そうせねばならない義務のようなものを感じるのです。あるいは言霊同士が何か約束事でもしていたのかも知れませんね」

 住職はそこで一旦話を切ると、両手を合わせて目を閉じた。

「淋しさの底抜けて降るみぞれかな」

「それは、丈草の句」

「そう、この句を詠むのも日課になっています。この子が好きだった句のようですね。ほら、墓誌にも刻まれています」

 住職が指差した墓石の横には、戒名や没年を記した大理石の立派な墓誌が据えられている。数名が並ぶ最後の戒名が恐らく母なのだろう、そして、その横には文字が刻まれている、丈草の句だ。

「これは……」

 僕は感じた。腰を上げてその墓誌に近寄り、母の戒名に並ぶように刻まれている丈草の句を指で撫でた。確かに感じる、これは言霊だ。弱弱しくてその姿さえも見えてこないが、ここに刻まれた句には間違いなく言霊が宿っている。

「どうかしましたか」

「言霊を感じるんです、この文字に」

「墓誌の字に言霊を……」

 住職も腰を上げると僕の横に来て丈草の句を見詰めた。しかし、言霊を持たない住職に言霊が見えるはずもない。

「私には何も感じませんね。そもそも人ではなく、物を宿り手に選ぶ言霊があるでしょうか」

「物に宿った、いや物と同一化した言霊を僕は知っているんです。だから、この墓誌にだって宿っていても不思議じゃないはずです」

 住職は疑わしげに僕を見た。それから墓誌を見て、再び僕を見てそのまま黙り込む。何か考えているようだった。しばらくして住職はようやく口を開いた。

「そうですね、あなたの言う様にあり得る事なのかも知れません。言霊は本来言葉に宿るものです。俳諧師は宿り身の業を使って、人々の言葉の意識の総体の中にある自分の言葉に宿り、その中から宿り手を選んで、宿り手の意識の中にある自分の言葉に宿るのです。この墓誌の言葉にも宿れないわけではないでしょう、しかし」

 住職の表情が険しくなった。

「それでは言霊の力はすぐに尽きてしまいます。人に宿るのと違って、文字に宿ってしまっては、言葉に対する宿り手の共感から力を得ることができませんから」

 住職の説明を聞きながら、僕は刻まれている丈草の句を心の中でつぶやいていた。吟詠境に入れるかも知れないと思ったのだ。言霊の存在にほとんど気づかなかった、あの雨の日のモリでさえ吟詠境に入れたのだ。もし言霊が宿っているのなら、入れないはずがない。僕は何度も心の中でつぶやいた。だが、それに呼応してくれる言霊は居なかった。食い入る様に墓誌の句を見詰める僕に住職が穏やかに話す。

「あるいは、それはあなたのお母さんへの想いの反映に過ぎないのかも知れませんよ。形見の品に特別な感情を抱くのはよくあることです。それと同じではないのですか」

 僕には判断できなかった。何れにしても僕一人の力では何もできそうにないのだけは確かなようだ。僕は住職に礼を言った。

「母の話を聞かせていただけて嬉しかったです。ありがとうございました。それと、これからも母の墓をよろしくお願いします」

「いえ、私こそ、この子の息子に会わせてくれた今日の幸せに感謝したいくらいです。私が毎日ここへ足を運んでいたのは、もしかしたらあなたに会う為だったのかも知れませんね」

 その後、住職は僕を山門まで送ってくれた。僕は「必ずもう一度来ます」と言って、住職に別れを告げた。

 帰宅後、先輩の家へ行き今日の出来事を報告した。先輩はすぐにソノさんに連絡、ソノさんは直ちにコトとセツへ連絡、コトは即座にリクとモリに連絡し、翌日登校して来た時には、僕が日曜日に何をしたのか、父つぁん以外は全員知っている状態だった。更には次の土曜日に、みんなでそのお墓に行く段取りまで話し合われているようだった。この手際の良さには脱帽すると共に正直嬉しかった。

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