漠たる心
「あれ、もう終わったんですか」
この声は父つぁんか。目を開ければ食後のお茶を飲んで寛いでいる姿が見える。その気の抜けた顔と同じく、僕もまた物足りない気分だった。発句も季の詞も詠まず、話だけで終わってしまったのは、佐保姫と二人だけの吟詠境を除けば初めてだ。嵐雪は晩年、禅に傾倒して、連歌の座を開くことは以前ほどではなかったらしいから、仕方ないのかも知れない。モリも父つぁん同様、意外な顔をしている。
「ホント、早かったですね。まだ三分も経ってないですよ」
この言葉は俄かには信じられなかった。幾らなんでもそれは短すぎる。少なくとも十分以上は吟詠境に居た気がする。
「まあ、あそこは夢みたいなものだからな。ホラ、全人生に匹敵する夢を見ても、目覚めてみればたった一夜に過ぎなかったなんて、よく聞くだろう。向こうとこっちじゃ時間感覚が違うんだよ」
先輩が物知り顔で説明している。一夜で全人生体験なんて話、現実には一度も聞いたことはないが、時間感覚が異なるのはあり得そうだ。取り敢えずはその説を採用することにしよう。
「それよりも話の続きをしましょう。小柄は今、どこにあるのですか。皆さん、どうするつもりですか」
セツの興味はすっかりそちらに移ってしまったようだ。もうモリを気にする事もなく、僕と僕の隣の先輩ばかりを見ている。
「ああ、あれは俺が預かっているんだ。もう一度蔵に入って小箱を持ち出し、その中に納めて保管してある」
先輩の言葉を聞いたセツの目が光ったような気がした。吟詠境で見た嵐雪と同じ色をしている。
「どうするんだ、セツ。本当にやるつもりか」
「答えるまでもないでしょう」
先輩は隣のテーブルに目を遣る。ソノさんの意見も聞きたいのだ。いつもは軽いノリのソノさんが、珍しく腕組みをして考え込んでいる。その姿を心配そうに見詰めるリク。無理もない。あれだけの死闘を繰り広げた相手なのだ。リクだって二度とお目に掛かりたくないと思うのは当然だろう。
「そうね、許六が言っていたように、再びあの小柄を吟詠境に入れるのは危険だわ。それは間違いない。だからあたしたちは、小柄の力が完全に無くなってしまうまで、小箱の中で保管することにしたのよ。でも」
ソノさんは組んでいた腕を解くと、セツに顔を向ける。
「それじゃセツちゃんは納得しないでしょう。ヤルしかないわね」
「そう言っていただけると思っていましたよ」
してやったりという風情のセツを眺めながら、さすがの僕も不安になった。小柄は彫られている発句しか詠めない。誰が開くにしても同じ吟詠境に行くことになる。また、あの夕焼けに染まる湖水の辺りで、赤光を放つ小柄と向かい合うのかと考えると、少々気が重くなる。
「ソノさん、本当に大丈夫なんですか?」
「あ~ら、ショウちゃんってば心配性ね。今度はもう何もかもわかっているんだもの。前みたいに好き勝手にはさせないわよ。それにね」
ソノさんの顔がにやけた。わざわざ席を立って僕の横にやってくると、顔を近づけて小声でささやく。
「セツちゃんの頭の中から小柄のことを追い出さないと、モリちゃんに興味を向けてくれないでしょ。つまんないわよ」
ソ、ソノさん、あなたの本当の目的はそっちですか! 柄にもなく真剣な顔をしていると思ったら、そんな事を考えていたなんて。モリが聞いたら絶対に怒るだろうな。それにしてもソノさんは一体どちらの味方なのだろう。僕もソノさんに顔を近づけ、ささやく。
「ソノさんは、セツとモリさんをくっ付けたいんですか、それとも別れさせたいんですか。どっちです?」
「どちらでもないわよ。見ていて楽しいだけ」
「それ、悪趣味過ぎますよ」
「悪趣味、万歳よ。うふふ」
「お前たち、何をコソコソ話してるんだ」
隣の先輩の冷めた声。僕は素早く居ずまいを正し、ソノさんはそそくさと隣のテーブルへ帰って席に着き、咳払いをした。
「コホン、さてと、それじゃ善は急げって諺もあることだし、こうして全員揃うことも滅多にないことだし、今日、決行することにしましょうか。ライちゃん、悪いけど家に戻って小柄を取ってきてくれない」
「それはいいけど、ここじゃまずくないか。小柄を引き込むとなると何が起こるかわからない。なるべく人の少ない場所がいいだろう」
確かに不測の事態を招く可能性があるし、時間もどれだけかかるかわからない。店の中で吟詠境に入るのは避けた方がよさそうだ。人が少ない場所か。天気がいいから駅前公園も人が多そうだし……そうだ、あそこがあるじゃないか。
「それなら、桜並木がある川べりがいいんじゃないですか。広いから他人に迷惑を掛けることもないでしょう」
「ああ、あそこならいいな」
先輩が立ち上がった。
「よし、じゃあ、そこにしよう。おいリクっち、お前自転車で来てるんだよな、カギ貸してくれよ。家までひと漕ぎしてくるから。みんなはショウに付いて先に行っていてくれ」
先輩に言われて、リクがウエストポーチから自転車のカギを取り出して渡す。
「力を入れすぎて壊さないでくださいよ、ライ先輩」
「いや、お前が漕いでも大丈夫なんだから、俺が漕いでも壊れやしないだろ」
「ちょっ、それどういう……」
「私は行かないわ」
コトの声が冷たく響いた。能面のように感情のない顔で僕らを見ている。一切人を寄せ付けない凍えるような冷淡さが、その表情から伝わってくるようだった。
「小柄を代詠する者と、奪霊の業を使う者。少なくとも二名居ればいいのでしょう。私が行く必要はないわ」
「コトさん……」
僕は感じた。コトはまだ完全に立ち直りきれていないのだ。小柄によって死の淵のギリギリまで追い詰められたコト。その相手と再び顔を会わすことなど、出来るなら避けたいに違いない。
「そうね、全員で入ることに意味はないわね」
ソノさんも、そして何も言わないみんなも、コトの気持ちはわかっているようだった。コトは静かに席を立った。
「私はこれで帰るわ。モリさん、一緒に帰らない? 試験勉強と慣れない外泊で疲れているでしょ」
「あ、はい」
素直に返事をするモリ。モリをここに連れて来たのはセツを参加させる為。それが達成された今、これ以上関係のないモリを拘束するのは気の毒だ。
「ライ先輩、俺はどうすればいいですか」
今度は父つぁんだ。先輩とソノさんが顔を見合わせる。が、結論はすぐに出た。
「そうだな、父つぁんも小柄には近づかない方がいいだろう。悪いがこれで帰ってくれるか。すまんな、せっかくの休日に牛丼一杯の為に呼び出したりして」
父つぁんと小柄の言霊は、弱いながらもまだ繋がりを持っている。安易に近づけたりしたら、再び強い繋がりを回復しないとも限らない。宗鑑の言霊の片鱗は牧童だけではないのだから。
「いや、電車代は定期券だし、牛丼はライ先輩のおごりですから。大勢でメシが食えて楽しかったですよ。じゃあ、俺も帰ります。ショウ、また来週な」
父つぁんは陽気に席を立ち、店を出て行った。続いてモリとコトが出口に向かう。
「モリさん、短い間でしたが楽しい時間を持てて幸せでしたよ。今度は二人だけでお茶でもしませんか」
「お断りします」
通り過ぎるモリに声を掛けるセツ。さすがに別れ際は無関心ではいられないようだ。と、急にコトが立ち止まった。
「セツ君、ちょっと訊いてもいい?」
いきなり自分の名を呼ばれて、驚きの色を隠そうともせずにセツは返事をする。
「おや、コトさんからお声が掛かるとは光栄の極みですね。あなたとなら二人でお茶をしても結構ですよ」
こんな言葉はコトにとって、道端の野良猫の鳴き声ほどの意味も持たない。完全に無視してセツに質問する。
「言霊の片鱗を集めて芭蕉に姿を現して欲しいと、あなた、本気で思っているの?」
「これは愚問ですね。勿論ですよ。ショウ君がそれを望んでいるのですから」
「セツ君じゃなく、嵐雪がどう思っているのか知りたいのよ」
まるでセツの心の中を覗き込もうとでもしているかのようなコトの視線。セツはどう答えようか迷っているように見えた。が、すぐに観念してため息に似た笑い声を漏らしながら言った。
「ふふっ、勘のいい人ですね。そうですよ、ご推察の通りです。嵐雪は芭蕉が姿を現すことを望んでいません。あの杖も本当は渡したくはなかったのです」
「どうして!」
僕は思わず声を出してしまった。有り得ない話だ。これまで出会ったどの門人も、いや、どの言霊も芭蕉の姿を渇望していた。嵐雪がそれを望んでいないなんて考えられない。
「どうしてか、嵐雪自身もわからないのですよ。本能的にそう感じているようです」
「そう、わかったわ。それじゃお先に。皆さん、頑張ってね」
「コト先輩も気を付けて帰ってください、あ、モリ先輩も」
慌てて付け足したリクの言葉にモリはクスリと笑うと、コトと一緒に店を出て行った。
「おいリクっち、お前はどうするんだ」
「今度のことの一番の原因はボクですからね。最後まできっちり付き合います。それに自転車のカギを渡してしまった以上、帰れませんよ」
「そうだったな、よし、じゃあ、俺も行くぞ。おい、リクっち、一緒に来て自転車をとめた場所を教えてくれ」
先輩とリクも店を出て行った。ソノさんから声が掛かった。
「わたしたちも出ましょうか」
それから僕らは店の駐車場でリクと落ち合って、四人で町の東側を流れる川に向かった。セツは自転車通学らしく、僕らに付き合って歩いて自転車を押していた。いわゆるロードバイクというやつだ。一応スタンドや泥除けは付いているが、タイヤが細くてドロップハンドル、セツと同じく格好いい自転車だ。
いつもの僕ならば、この自転車を見て「へ~、いい自転車だね。セツはどこから通っているんだい」くらいの会話はして当然なのだが、今はそんな言葉を吐けるほど僕の頭の中に余裕はなかった。店の中でコトの質問に答えたセツの言葉、嵐雪は芭蕉の出現を望んでいない……川べりへ向かう途中、もう一度この事についてセツに質問してみた。しかし返ってきたのは同じ言葉だった。嵐雪さえもその感情の原因がわからないのではどうしようもない。
思い出せば、店の中で入った吟詠境で、僕や寿貞尼を見る嵐雪の目はひどく冷ややかだった。僕と言葉の掛け合いをしようとしなかったのも、恐らくこの感情に左右されてのことだろう。嵐雪……自ら本心を語ろうとしない彼の真意を、言葉だけから窺い知ることは困難だ。
不意に僕は真逆の可能性に思い至った。嵐雪は宗鑑を倒すためにその身に言霊を宿したと言っていた。だが、実はそれこそが嘘偽り。本当は芭蕉を倒すためではなかったのか。宗鑑の言霊の片鱗の存在を隠していたのも、今、芭蕉の出現を拒んでいるのも、その方が門人の言霊を容易に倒せるから。となれば、これから小柄と共に開く吟詠境で……
「ショウ君は深読みが好きなようですね」
並んで歩いているセツが淡々とした声で話し掛けてきた。
「そして嵐雪を疑っている、無理もありませんね。吟詠境でのあの態度、私の言葉、怪しさ満載ですからね。当時の門人たちも同じでしたよ。芭蕉を死に追いやった嵐雪を白い目で見ていたようです。ただ、私は彼の宿り手として言っておきます。あの丈草に勝るとも劣らない忠義心を嵐雪は持っています。これだけは忘れないでください」
「ショウちゃん、言ったはずよ。無用な憶測は控えたほうがいいわ。自分で自分の首を絞めるようなものよ」
後ろからソノさんの声が聞こえる。確かにそうかも知れない、僕らはそれで一度失敗しているのだから。それに、あんな質問をしたコトの意見を聞く前から、あれこれ考えても仕方がない。僕は頭の中から余計な妄想を追い払うと、川べりへ向かう道を黙々と歩いた。




